「いいよね~。。。本当に素敵。
でも、、、高くて買えない」
すみません。高いのは自覚しています。
でもこのぐらいもらいたいのです。
この一本のカッターの線ひとつに、
この和紙を選ぶ感覚に、
私のこれまで培ってきたものが現れているからです。
和紙を使っているというちょっと特殊な技法のせいで、
絵に関わる質問で、色や制作時間を聞かれることがある。
私の心はそれを聞かれるたびにチクリと痛む。
色はだいたいは土佐和紙の職人さんが染めたものだし、
時間はものすごく早く出来上がるものもあれば、
なかなか時間がかかるものもある。
では時間がかかったものの方がいい作品かというとそうでもない。
時間といい作品は比例しない。関係がないのだ。
職人さんが染めたものを使っているのは、
私がかつてファンシーペーパーという
色がついた洋紙を切って貼るという手法を使っていた延長なのだ。
私はその時、限られた色の中でどう組み合わせをすると
どういう効果をもたらすかということを独自で学んだ。
私の絵本「ロードムービー」の中で使われた紙の種類を数えたことがある。
確か64色だったと思う。
その限られた色の選択の中で、
隣り合わせにする色や全体的に感じさせる色合いの持って行き方を学んだ。
あとで気がついたことだが、自分で色を作るということは、
無意識に自分好みの色を作り出し、パターン化する可能性があるということだ。
しかし自分で作っていない色を使ってそれを絵にしていくことは、
自分では思ってもいなかった配色や組み合わせを生む。
その偶然性の驚きは作っている側でさえも心躍らせる。
たまたま無造作に置かれた紙たちが、勝手にダンスを踊っていたのだ。
これは頭で想像する配色よりもはるかに面白い。
そして和紙に移行して状況は一変した。
ファンシーペーパーでは見出せなかった、わずかな色の違い。
緑が少し青みを帯びたり、黄色味を帯びたり、
かすかに薄かったりかすかに濃かったり。
そのかすかさを組み合わせることで生まれてくる微妙な色合いの美しさ。
あるいは微妙さと大胆さを組み合わせる面白さ。
これがあの限られた色合いの中で培われてきたものの結果だと気がついた。
さらにここ高尾に移り住んだことで、
日々目にする生き物たちの色や形の変化。
これを絵にするとどうなる?
これを和紙で作るとどうなる?
どう表現すればいい?
和紙という変幻自在の美しい素材。
和紙は紙と布の中間のようなもの。
触ってよし、眺めてよし。
手すきの和紙は軽い。柔らかく、そして強い。
「つくしの絵は、なんか物語がある」
その言葉に私は思い当たるフシがある。
絵を制作している間中、私はその中に物語を見ている。
狐のある日の様子。
一本の木の中で起こっている物語。
森に入ってきた少女のこと。
私はその物語の中で遊ぶ。喜ぶ。感じる。
きっかけは森で出会った一風景。でも一度それを絵に定着させ始めると、
まるで違う世界を紡ぎ出し始める私の心。
これは長いことイラストレーターをやってきたせいなのかもしれない。
あらゆるものや状況を描かされてきた。
描きたくないものや全く興味のないものがほとんど(笑)。
でもその中に入り頭でこねくり回している間に、
ある瞬間にそこに物語を見出すと作り始める。
そうでないと絵にならないから。
何度もスケッチし、何本も線を引きなおし、
描いては消してを繰り返すと、右手の側面が鉛筆で真っ黒になる。
その間に物語は紡がれていく。
そんな作り方を長年してきた。
幼い頃見てきた母の着物、大島紬、加賀友禅、更紗、あらゆる色の洪水。
あるいは絹の音。
ミシンの上にかけてあったゴブラン織、
祖母の居間にかかっていた大きな宗教画のタペストリー。
あるいはピラミッド、ストーンヘンジ、不思議な場所。
あるいは山で出会った天狗。
その全てが私の中に詰まっていて、そこから一本の線が現れる。
0 件のコメント:
コメントを投稿