苦しさで目が覚めた。
時計を見たらまだ夜中の1時前。
まだまだ夜は長いなあ。。。
何に苦しいのかわからない。
昼間の出来事を振り返ってみるが、これといって問題など見当たらない。
ただグレーの何もない平面が私の前に広がっているだけだ。
だがそのグレーの平面がどうにも苦しいのだ。
実際それが目に見えているわけではないが、心がその映像を見ている。
最近そういうことが頻繁に起こる。
それまでは苦しさの原因があった。
あの観念が私を苦しめている。だからその観念を渡してしまおう。
そういう具体的な心の動きがあった。
しかし今は漠然としている。
何というわけでもない。
ただ苦しい。
心の訓練を続けるうちに、苦しみがある時は必ず何かを学んでいる最中で、
とても大事なことを知ろうとしている時だとわかってきた。
だからここから逃げない。
コースの文言が浮かぶ。
「神は一日中私に語りかける」
そうか。この苦しい今も神は私に語りかけ続けてくれているのだ。
それを聞こうとしてじっと耳をすます。
神に意識を向けてしばらく経つと、
目の前のグレーの平面が細かい砂がサーっと落ちるように消えていき、
白くてツルツルした何かが見え始めた。
一本の棒のような骨のような、、、
よくわからないがつるんとした何かが見え始める。
それと同時に苦しみが消え、
静けさと確信のようなものが心に満ちていた。
その変化が起こった時こう思った。
その苦しみは、本当は神が近くにいるからなんじゃないか?
神の存在を苦しみで隠しているのではないか。
それは神に対する抵抗なのではないか。
神を近くに感じれば感じるほど、自我の抵抗が起こる。
自我はそれを私に苦しみと思わせ、そこから逃げろという。。。
そりゃそうか。
私が神を選んだら、自我は速攻消えていくのだから、自我も必死である。
神に抵抗しているのは私ではなく、自我とくっついた私だった。
コースを学んでいる人と話をした。
心を見始めると、自分がいかに自分を否定しているかを知る。
例えばその理由の一つとして、
人と自分を比較したりして自己否定をさらに増幅させていることを知り始める。
比較しておびえる自分に気がつくが、
「また比較しているのね私」と言って、さらっと受け流すこともできる。
それは一瞬の精神衛生上必要なことかもしれないが、
ある意味「これ、知ってる。こういうことでしょ」
と言ってわかった気になり、
その感情を納めてしまうことでもある。
「人と比較していることはよくない」という思いと一緒に、
おびえる心も、その言葉によって心の奥に隠蔽してしまう。
それはもったいない話なのだ。
出てきた感情はそのまま受け取ることもできる。
おびえる感情は、消えていくために出てくる。
出てきてくれてありがとうなのだ。
その苦しさをじっと味わおう。
苦しみよこんにちは。
こんな軽さではできないかもしれない。
でも苦しみを受け取ることは、心の強さ。
そしてそこが自由への入り口なのだ。
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