小さい頃から「バチが当たる」という言葉にビビっていた。
神様はいつも私を監視していて、いいことをすればご褒美をくれ、悪いことをすればバチを与える。
その信仰はつい最近まで続き、悪いことしないように気をつけなきゃと慎重に生きてきた(つもり)。
でもイヤなことはいきなり起こり、
「何!?何!?いったい私、何悪いことしたあー!?」
と、悪いことをしたからバチが当たったのだと信じ、その理由を探る。
探せば大抵何かが思いつく。
「あれかなあ。。。あれにしちゃあ、バチが大きすぎる。。。やっぱこれか、、な、、?」
それはまるで、悪いことが起こった原因を見つければ、もう悪いことは起こらないような気がして。
しかし意に反してイヤなことはまた起こり続ける。
バチを当てる神は、どんな神なのか。
神様はいつも私たちを監視して、いいこと悪いことを見分ける。
神はそんなに怖い存在なのか。どっちかというと閻魔様に近い。
神のご機嫌を取りながら、ビビりながらこの世界を生きることを強いてくる存在なのか。
この世界のいいや悪いは、立場によってコロコロ変わる。
国が違えば法律も変わる。
手で食べちゃいけません!という日本の神様と、
手で食べなければいけません!というインドの神様は、どこらへんで分かれるのか?
神様はそもそもそんなに了見の狭い存在なのか?
そんな疑問を持つうちに、「バチを与える神様」を教えてもらうもっと前に、
ずっとそばにいた存在を思い出し始めた。
それはとんでもなく優しく、暖かく、穏やかで、
私がどんなことをしても微笑んで見守ってくれている何か。
その存在は、いいこと悪いことなどという種分けをしない。
この世界で犯した私の罪を、罪とも認めない。
その圧倒的な包容力に気が付き始めると、今までバチを与えてきた神が一体何だったのかがわかってきた。
それは自我だったのだ。
自我は神の仮面をかぶって、私を罪人だと信じ込ませ、
バチがあたるにふさわしいものだと教えてきたのだった。
自我の声は大きい。あれがいけない。これがいけない。ああするべき。こうするべき。
私がずっと悩まされ、振り回されてきたその大きな声は、神のふりをした自我そのものだった。
この世界など神は作っていない。ここは自我が作り出した世界。
だからこそこの世界に詳しい。
私たちがずっとこの世界に魅了され、とどまるように飴と鞭を使う。
私は大騒ぎをする声の、その奥の静けさの中の声を聞こうとした。
ずっと昔いつもそばにあったその声を。
まだまだ遠くに聞こえるその声ではあるが、心をとても穏やかにしてくれる。
その存在は、私を監視などしていなかった。
そうではなく、全てを一瞬たりとも見逃さず、ただただ見守ってくれていたのだ。
目の前に展開する知覚の世界が、昔見た薄いぺらぺらのハリボテのように思えてくる。
カーテンを開けるように、その知覚の風景を開けると、奥には眩ばかりの光があった。
私という体もそのカーテンとともに開かれてその光と一体になった。
この世界は全てのものが分離で成り立っている。
それはこのあなたと私という分離した肉体の目から見た世界。
しかしその世界は霧のようなもので、
それを通り抜けると、すべてが一つだった。
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