先日の、誰も悪くない、という考えが想像できたら、
今度は自分も悪くないというところに着目してみる。
「私は悪くないもん!」
と誰かに対して思っている時、明らかにそこに恐れがある。
恐れているがゆえに、自分の正当性を主張する。
あの人がああ言ったから!ああやったから!
だから私は悪くないもん!
恐れがあるから、怒り、防衛する。
体がぎゅっと縮こまっていることを見る。
そして固形化した自分の体と、怒りをぶつける相手の体というものが、
二つ別れて存在していることを見る。
アニメのように、バババババとバリアーを張り巡らしている自分を確認する。
幸せいっぱいなら、そんなことはしない。
攻撃態勢に入っているとは、そこに恐れがあるからだ。
では何を恐れているのか。
自分を正当化しなければいけないことがあるのだ。
心に罪を感じている。
自分にひょっとしたら罪があるかもしれないという恐れがその時出てきたのだ。
だから「つっ、、、罪なんか、あたしには、これっぽっちもないんだからね!!!」
と、剣を持って立ちはだかるのだ。
罪はないもん。あたしに罪はないもん。だってコースは罪がないって言ってるじゃん。
だからあたしには罪はないもん。だから罪悪感もないもーん。
と、ないフリをする。
ところが、誰かに不意に防衛という反応を起こす時、
しっかり自分に罪を感じているのだ(笑)
だからまずは、自分が恐れていることに気がつくことがとても大事だ。
私たちは「恐れるな!」という暗示をずっとかけられている。
だから恐れちゃいけない恐れちゃいけないと、
恐れちゃいけない蓋をして、自分の恐れを見ることを拒む。
だがその蓋を開けない限り、罪があると信じているところにまで到達できない。
いくら頭で「あたくしに罪なんかございません。」と言い張っても無理だ。
怖がっている自分を正直に認めること。
この自分の恐れを認めた時、自我の視点に立っていない。
それは今までいた場所から離れている。
全てを受け入れる聖霊とともにいる。
そして怖がっている自分に、
「そうだよね。そりゃあ怖いよ。
そうなって当然だ。わかるわかる。
だって、その生い立ち、その境遇、過去の経験、
されたこと、仕返したこと、
その中には、めっちゃえぐいこともやっちまったぜ。
そのぜーんぶやってきたことを鑑みたら、
そりゃあ、そうなる。
そう反応する。
そう怖がる。
当然だ当然だ。」
と自分にウンウンと頷く。(聖霊も頷いている)
そして怖がっている自分を、
「だからいいんだよ。
そういうあたしを今ここで赦しましょう」
と、心から赦す。
それは心の癒しになる。
心がゆるむ。
その時、敵はいるだろうか。
バリアーを張らないといけない相手はいるだろうか。
戦っていたのは、ほかでもない、自分と戦っていただけなのだ。
罪があると言い張り、
どっちに罪をなすりつけるかという相手は、外にいなかった。
ただ心の中だけで自分が自分と戦っていたのだ。
恐れがあるから、罪がリアルになる。
罪があると信じているから、恐れがリアルになる。
自分の中の恐れを赦していこう。
赦しは、すべてを溶解させる。
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