最近、道端でいきなりコケた。
左足首をくじいて、今はびっこ生活。
そのあと、人に怒られるということが立て続けに起こった。
人は嫌なことが起こった時、瞬時に「私、何やった?」と考える。
そしてやったことに対してバチが当たったんだ!と考える。
人は因果関係を作り出す。
この三つの出来事を組み合わせて、
人を不快にさせたから、バチが当たってコケた。。。
いやいや、時間が逆だ。
いや、ひょっとしたら、先にバチに当たっといて、原因が後に来た。
そんな組み合わせもできるが(できるんかい!)、
そこを見ることではないと思った。
とにかく、人を不快にさせたことは、言葉と心で深くおわびした。
そしてここから先は、その本当の原因に向かう。
この世界に原因を探しても見つからない。
この世界は私の心が投影されたものが知覚されているのだから。
元の原因は心にある。
じっと考える。
聖霊さん、一緒にみてください。
この一連のことは、私に何を教えようとしているんですか?
「私には罪がある」
そうだ。
私には罪があるから、道端でコケるし、人に怒鳴られる。
この一連のことはそれを証明している!
原因は罪があると信じていることだった。
罪があるなら罰を与えなければいけないからね。
コケるバツ、痛い思いをするバツ、怒鳴られるバツ。
しかしなんの罪?
人を不快にした罪、老いてきた罪。。。。
その一つ一つの罪を、どうやってあがなうのだ?
どーやったら、罪は消えるのだ?
。。。。。これ、キリがねえ。
罪は消えるわけがなかった。
だって、「罪ありき」で考えているのだもの。
私には罪があるという信念があり、その前提でいるかぎり、罪が私から消えることはない。
この罪があるという間違った考えを提出して、この考えの訂正をお願いするのだ。
聖霊さん、私のこの間違った考えの訂正をお願いします!!!
とんでもない訂正のお願いをするものだ。
だって、この世界は罪ありきでできている。
罪があるという前提でない限りは、この世界は成り立たない。
翌朝、喜びで目を覚ました。
まったく罪がないという感覚はこのようなもの。
嬉しさではしゃぎそうになる。
幼稚園児になったような気分だった。
はしゃぎそうになって、足がグキッとなってハッとするんだけど。
以前そのまったく罪はないというところにいたことがあった。
その時と同じように喜びにあふれた。
その限りない喜びはしばらくたつと消えていったが、
確かにそれはあると再び聖霊は教えてくれた。
そういう体験をするたびに、聖霊は確かにいると思える。
私の知らないところで何かが動いている。
私たちはずっと心の奥に罪を感じている。
罪があるという思いがあるがゆえに、
不快な出来事が起こる。
でもその不快な出来事が起こるたびに、
心に向かうチャンスが与えられている。
人は嫌なことが起こった時、
瞬時に「私、何やった?」と考える。
そしてやったことに対してバチが当たったんだ!
と考えるということは、
この世界があるという前提に立っている。
この世界でどうにかして幸せに生き延びようとさせる自我の思惑がある。
そのハリボテのような世界を通り越して、
その向こう側にある真実に目を向けるチャンスが与えられている。
絵:「梅の秋」
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