2019年11月20日水曜日

聖地巡りの記憶その2



私はそこでこの人生始まって以来、一度も味わったことのない
「音のない世界」を味わった。
全ての生命の息吹が消え、風の音もない世界。。。

音のないものがどんな感覚かわかるだろうか。
私たちは音によって、自分と他の物質との距離を測っている。
すぐ近くで聞こえる音、遠くで聞こえる音。
音があることで、私と他人、私と岩、という分離を感じられるのだ。

こんなことの気づきは、今になってわかることだ。その当時はただ「ひえっ!音がない!んでもって、何もかもがピッタリくっついてる~~」と言う驚きしかなかった。


私は物質と私の距離がまったく感じられなくなっていた。
すべてがくっついている。

肌にくっついた空気もビッタリ張り付いている。というよりも、それはつまり、私のからだと空気という境界線がなくなってしまったというべきか。だからその空気の向こうに見える岩も私の延長。すべてが濃厚に、空気さえも濃密につながっている感覚に圧倒される。それはまさに、すべてが一体となった感覚だった。

そしてそれとともに、ある感覚が迫っていた。
それは「私は愛されている!」という確信だ。

あの大国主神の感覚と言うのとはちがっていた。あのときは人物としての誰かがいた。しかしデスバレーのそれは、誰かという固有名詞がついたものではない。
人でもなく、何かの生き物でもなく、まったく物質として存在していない何か。。
あえていうなら、それは「神」というべきか。
とてつもなく巨大な神に包まれて、、、、いや、包まれているのかどうかもわからない、一体となったというのか。その感じが、もうどうしていいかわからないほどに幸せで幸せで、40歳の私は、乾いてひび割れた大地を、子どものようにコロコロと転げ回った。



「五感と言うものが、ぼくらに分離があるように見せているのではないか?」
その時感じたことをダンナに話すと、そう言った。

音楽家である彼なら、音の存在がどんなものであるかわかっているのだろう。
たった1つの感覚が消えただけで、ここまで分離感が消えてなくなる。

私たちが神を感じられなくなったのは、この五感にあまりにも頼りすぎているからではないだろうか。デスバレーでの出来事は、そのことを教えてくれていたのかもしれない。五感というスクリーンの中で展開するものにだけに夢中になってしまった私たち。賢人たちのいう、「見を弱く、観を強く」とは、そのことを言っているのだ。

その見えることを、聴くことをやめた時、そこに本来存在している神が、そしてまた神の子である私たちが、現れてくるのではないだろうか。デスバレーの一件は、その窓が一瞬開いて、真実をかいま見せてくれた瞬間だったのではないだろうか。




2004年に日本に帰って高尾山のふもとに住み、私はまた密かな聖地を探していた。
だがパワースポットで有名なこの高尾山でさえ、私の聖地は見つけられなかった。

出雲に行き、伊勢神宮に出向き、デスバレーに行き、エジプトでシナイ山にのぼり、ギザのピラミッドに入り、イギリスでストーンヘンジを見、セドナでボルテックスに会い、ハワイでヘイアウに出向き、沖縄で聖地を巡る。。。
どこに行っても、そのつどふしぎな体験をした。けれどもどこに行こうが、やがてその時の感覚は失われていく。あるときから、どこに出かけようと同じだと気づく。

聖地で神と出会う時、なにかとつながるとき、涙が出るほど幸せを感じる。でもそれはやがて消える。それはまるでケーキを食べているときはうれしいが、食べ終わってしまうと、うれしさが消えるのと変わらなかった。私はケーキを食べ続けられない。それと同時に聖地には行き続けられない。

これは本当のしあわせなのだろうか。
永遠に幸せであり続けられる聖地などあるのだろうか。

私は外に幸せを求めて歩く、外依存症に気がついた。
そして聖地を求めることは卒業していった。



しだいに私の目は、外をみることから、内をみることに向かうようになっていった。
デスバレーでの一件は、私に多くのヒントをくれていた。
外にあるものではない。私の内側に何かがあると。

それはこうして百回近く聖地を訪れ、
その時々で体験したことがあったからこそ行き着くことなのだ。
そのことを教えてくれた世界の聖地に感謝する。

そして

聖地は、外にあるのではなく、
私の中にあるのだ。



絵:「天狗舞い」




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