このところ忙しくてわらわらしている。
日常の中に没入すると苦しくなってくるので、
全体性を意識するようにしている。
昨日友達が遊びに来てくれていろいろ話をしていた。
「本当の私」はどこにいるんだろう?
って話になって、
私は空中を指さす。
「これなんじゃね?」
その指先にあるものは何もない空間。
空気という物質でもない何か。
その場みたいなものこそが「本当の私」なんじゃないかと。
見えるこの体の中にも、
人の体の中にも、目の前のグラスの中にも、机の中にも、
森の木の中にも浸透している何か。
まったく透明でしれっとそこにないかのように振舞っているが、
そもそもそれがない限り、この世界は現れてこない。
これを非二元的にいうと、「空(くう)」とかいうんかな。
空はスクリーンに例えられる。
白いスクリーンに映写機で映像を映すとスクリーン上に映像が映る。
その映像を私たちはこの世界と呼ぶ。
しかしそもそもその白いスクリーンがない限り、その映像は映らない。
だから本当の私たちは白いスクリーンだ。
これが非二元的に正しい解釈なのかどうかはわからん。(こらあ~っ)
今ここに偏在している、満ちている透明な何かが本当の私で、
そこに現れた人影やガラスや森の中に、
何を思ったのか、そこに入っちゃったのが、
今の個人の私なんではないかと思うのだ。
別に「つくし」という人影の中に入っても、
ソファの中に入ってもどっちでもいいのだ。
でもどうせなら動いて移動できる特定の一つの人影に入った。
その「つくし」というあらかじめ設定されている性質や性格の人影に
「本当の私」が入って、その本性をすっかりこんと忘れているだけなんじゃないか?
この目の前に見えているものは存在してなくて、
全く見えていないもの、それこそがリアルに存在しているものなのだ。
そう思った時、全ては全部ひっくり返っていると感じた。逆さまの世界。
あると思っているものがなくて、ないように見えているものがある。
まったくしれっと、ずっとそこにあった。
微動だにしない、不動の、不変の、とてつもないもの。
それを神と言ったり、空と言ったり、本質と言ったり、
大いなるものと言ったり、サムシンググレートと言ったり、、、、。
きっとあらゆる言葉で表現されているんだろう。
言葉の違いで論争するのは、
それを言った人が何を指しているかわからないから、
言葉に頼ってそうなっちゃうんかも。
ウグイスが鳴き出した。
そしてカジカの声がさっき聞こえた。
雨がしばらく降らず、川にずっと水がなかったけれど、
カジカはどこかで生きていた。
透明な「本当の私」の中で起こる出来事にくつろぐ。
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