2025年3月8日土曜日

好きに生きる

「木のダンス」和紙、洋紙

 

去年の暮れから通い始めた陶芸教室。

去年の春頃から始めたダンス教室。

どっちも難しい。どっちも腰やられる。だけどおもしろい。


上手いか下手かはだいぶ端っこに置いておいて、

おもしろいと思うことだけやろう。

路頭に迷ったら、誰かに助けてもらおう。

と、都合よく考えるようになった。


誰にも怒られはしない。

怒るのは誰や?エンマ様か?


死んだ後「お前、好きなことばっかりやってきたな。地獄行きだ!」

と、地獄に突き落とされるんだろうか。


しかし。

「俺、死んだら地獄に落とされた」

と言いに来た人は、今のところおらん。


そういう、小さい時から聞く昔話(うわさ話)を恐れて、

苦しくて努力がいることを選んできた。

苦しんでこそ美徳、みたいな。




人はどうも無意識に自分をいじめているのではないだろーか。


楽しい思いをすると、

「あ、今楽しんでしまった。。あとで何かしらの嫌なことが起こるに違いない」

「嫌なことがやってきた!ほーら、みろ!やっぱりだ!

だから言わんこっちゃない!

楽しんだりしたら、喜んだりしたらいけないんだ!」

と、光から影の方へコソコソと逃げ隠れる。。。

みたいなドラマを繰り返しているんだとしたら。


1、楽しんではいけない。

2、楽しんだらバチが当たるはずだ。

3、楽しんだ後は嫌なことが起こる。

4、だから楽しんではいけない。。。。


というループ。


これ単に信じていることを証明しているだけだったりして。

ほーら見ろ!私が言った通りじゃないか!と。


いやいや。信じていることをそのまま見ているだけじゃね?

渡る世間は鬼ばかりと思えば、

鬼ばっかり目についちゃうかもしれないじゃん。





なんでこうなるの?

どうして私の人生はいつもこうなの?


まずその被害者然とした思いを疑ってみる。

そうなるには理由がある。

自分が信じているものを疑うのだ。


ひょっとしたら、自分が自分をいじめているだけなのかもしんない。

自分は愛されるにふさわしくない!と信じて疑わないだけなのかもしんない。

惨めになっているのは、自分が惨めにさせているだけなのかもしんない。


そして何を隠そう、それを作り出しているのは自分なのかもしんないと。


愛されていいのだ。

自分を愛していいのだ。

楽しんでいいのだ。

楽していいのだ。

喜んでいいのだ。


バチは誰も与えない。

本当は自分が自分に与えていることに気がつくことなのだ。









追記:先月の展覧会の作品が、オンラインショップにて販売されています。

ご興味のある方は覗いてやってください。


和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです


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