2025年3月10日月曜日

わくっとすること

母の遺影があった一角。右の長い絵は橋本憲治氏の作品

 

お正月が終わって、母の遺影と位牌を片付けた。


美しい母の写真を毎日外に見ているのが、

なんだか不自然に思えてきたのだ。


母はもう私の中にいる

なのにどうして彼女を外に見ているのだろうと。


片付けた棚には彼女のお気に入りの私の作品を置いた。

置いたというか偶然そこに置かれて、

あとで「ああ、そうだったこれは彼女のお気に入りだった」と気がついたまで。


出来事はどうも必然で起こる。

だから起こるままに受け取ることにする。


あの絵を気に入ってくれている人がいて、

「お金が入ったら買いたい!」と言ってくれている。

その時はそれを受け取る。


起こることを起こるままにさせていく。

最近はそんな感じ。


今までは何かの考えがやってきても、

「いや、それは非常識だろう」とか

出来事が起こっても

「いやいや。そんなことがあってはいけない。どうにかやめさせなきゃ」

とか言って、起こってくる事を判断し、解釈し、批判し、

それに取り組む事をやり続けてきた。


これは抵抗、拒絶なのだった。


そうする事で、苦悩が生まれる。

そしてこの世界を重く実体のあるものとして作り上げ始める。


架空の常識に無意識に縛り付けられ、身動きが取れなくなっていた。





ふいに浮かんだアイディアが、

わくっとさせるものであれば、

架空の常識にとらわれるのをやめて、やってみる。


母の遺影もそうだった。

そのアイディアが湧いた時、

開放感があったのだ。

わくっとした。


そうやって自分の中のわくっをとらえる。

そしてその思うままにやってみる。

きっとそういうのも訓練だ。

自由になるための。




わくっとした時の開放感の後、

きっと架空の常識の思いが出てくる。


いやいや。いい歳してそんなことはできないだろうとか、

いやいや。そんなことしたら罰当たりだとか、

自我のささやきが出てくる。

事実、遺影を片付けた事を書いていいのだろうかという自我のささやきが聞こえる(笑)。



でも私は一番最初の感覚を信じることにする。


自我はいつも後出しジャンケン。文句タレ。脅し屋。




最初のわくっ!


それがすべてを教えてくれている。

こっちの方向に行けよと。







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