2010年12月22日水曜日
予言ごっこ
「あんた、2011年10月28日に地球は終わるんだって、テレビで言ってたよよ」
と、母が電話で言う。私はほとんど見なくなったから、近頃のテレビの動向はわからない。
あれ?確か地球が終わる(人類だっけ?)のは、2012年12月21日じゃなかったっけ?いつの間に早まったんだ?
またはじまったなあ。『ノストラダムス現象』はいまだに人々を魅了するらしい。
やまんばも中学生の頃、ノストラダムスの予言を読んでコーフンしたたぐいの純朴な少女だった(どこが?)。その頃はまだ「やまんば」ではなかった私は、
「ああ、その時代に地球がなくなるんなら、子供は産めないわねえ。大変だもの。1999年に死んじゃうんなら、それまでにどんな人生にするのか、しっかり考えとかないと」
と真剣に考えたのだ。
んで、ニューヨークでその時を待った。なんにもおこらない。。。
「はれ?予言はどこ行っちゃったの?」
それからまもなく、マヤの予言というものが出現。今度は2012年12月21日に地球は終わることになった。その予言の説得力のために、フォトンベルトというものが現れ、地球温暖化があらわれ、千里眼者があらわれ、ありとあらゆる方向から、マヤの予言の説得力を演出する。それで一時期出版物もテレビも盛り上がった。が、どうもそれだけじゃ、ネタが減って来たらしい。たいくつしはじめた。それで、もちょっと早めの予言、どっかになあい?と。
みんな心底この社会がいやなんだろうな。だからちょっとでも早いとこ「終わって」くれればもっとうれしい、という深層心理なんだろうなあ。何の根拠でその日なのかはしらないが、あと1年も地球が持たないんであれば、ほとんどあくせくしないでいいではないか。わくわくしてその日を待つのがいいではないか。と、言う心理なのか?
どっちにしたって、ナーンにも起こらんとやまんばはフんでいる(人為的な演出はあるかもしれないが)。
歴史を辿ると、いつの時代も「予言」があった。その度に人々は右往左往し、実はワクワクし、あっけらかんとその日は過ぎ去り、予言なんてなかったかのようにやり過ごす。そしてまたある日、あらたに出現する「予言」に、凝りもせずまたコーフンを繰り返して来たのだ。
しかしこの世は終わらない。
アメリカ映画が映像で起こすような派手な崩壊は起こらない。地球のどこかで地震が来て火災が起きて家は崩れるだろう。しかしまた人々は動き始める。大カタストロフィーなどというものは起こらない。人類はひたひたと生き続けるのだ。そしてそこにはまた人々の葛藤がつづいていく。人生はいつまでたっても、その人が死ぬまで否応なく続いていくのだ。
だから予言に喜んでいてもしかたがないと思う。予言は一種の娯楽にすぎない。ゴシップネタのように楽しんで、自分の人生から逃避しているだけのことだ。
だからそろそろ私も自分の人生とか自分の感情から逃げないことをせんといかんなあと思うのである。
怪奇現象に逃げ、UFOに逃げ、予言に逃げ、スポーツに逃げ、レジャーに逃げ、金儲けに逃げ、不倫に逃げ、エステに逃げ、ほんでもってパワスポに逃げる私たち。今いる自分がいやで、今置かれた立場がいやで、年がいく自分がいやで、どこか別のところをいつも探している私たち。
その結果が、こんなにもみょ〜な世の中を作った。ホントは人のせいでも政府のせいでも予言のせいでもない。それを作ったのは他でもない、私たち自身。
その理由を理解するには、心が混乱して変になっていく過程を、はっきりと自分で見ることじゃないだろうか。そこには何の方法論も存在しない。その人にしかできない。誰も助けられない。そしてその心の中には、探し求めた青い鳥が住んでいる。実はその青い鳥そのものが自分なのだ。
でもさあ、最近太陽の位置がおかしいのを感じるのだ。
こりゃ、予言どころの騒ぎじゃないぞ!
って、相変わらず逃げてんじゃねえかよ。
絵:「ハーバードビジネスレビュー」イラスト
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2 件のコメント:
予言来年の2月には、一歳年取ってる!!
誕生日が来るから、当たり前?
人類滅亡と同じでしょ?人類はいつか滅亡
します!!いつかは知れないけど・・。
まいううーぱぱさん予言の書:
「人類いつかは滅亡します!!」
。。。って、それ予言かい!
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