2019年7月16日火曜日

ほっこりしたいだけやん



幸せとは、何かをすることで、得られるものだと思ってきた。

好きなものを買うことや食べることや、楽しいことをして得られる幸せ。
そして仕事などの、がんばったあとのご褒美として得られる幸せ。

だがそれはつかのま。
あっというまに終る。
その空虚感に無意識が気がついて、その穴を埋めるために、また次の「楽しいこと」をさがす。

小さい時から、そして大人になってからも同じことを繰り返していた。
まさか楽しいことを探すことは、自分の欠乏感から来るとは思っていなかった。

子どもの時はただうれしいからやっていた。
しかし大人になるとカシコク(狡猾に)なる。
正当化(言い訳)が始まる。

これは将来のため。自分のキャリアのため。健康のため。。。
そうやってうまく隠していくうちに、その幸せと言う目的を忘れ、正しさを求めはじめる。
これは正義のため。社会のため。人間としての生き方のため。
正しいことをやると幸せになれるのだ!と。

正しさなんて時代とともに変わる。家とともに変わる。お国によって変わる。ジェンダーによって変わる。
そんな曖昧な測りなのに、どっちが正しいとおおさわぎ。
善と悪ではなく、善と善との戦いだ~!

国同士の正しさの言い争いから、会社の中の言い争いから、友だち同士の言い争いから、ダンナとの正しさの言い争いから、今度は自分の心の中の言い争い(ほんとはこれが一番のおおもとだけど)。


ほんとは幸せになりたいだけやん。
ほっこりしたいだけやん。
ああ~~、なあんだ。。。って、安堵したいだけやん。
ただ心が安心したいだけやん。

じつは幸せは外から得られるものは、一時しのぎ。
そしてそれは苦痛とうらはら。
いくらおいしいものを食べても、食べ続けるのは苦痛。
温泉に入り続けるのはフヤケて苦痛。

なのになぜそれを求めるのか。
心がいつも「なにかがたりない。。。」とおもっているから。
そこを埋めよう埋めようとして、何かをやらざるを得ない衝動がつねに動いている。

楽しいことを達成した瞬間、その「何かが足りない」は消える。
だからホッとするのだ。
そのホッとすることを「ああしあわせ~~」と呼んでいる。

欠乏感の動きが一瞬止まる。
それが幸せ感だとおもっているだけなのだ。

普段私たちは、欠乏なおもいだらけの中にいる。このままではだめだ、このままいったら、どつぼにはまる。なんとかしてここから脱出しなければ!
というほとんど無意識の衝動が起こり続けている。

何かをしようとすることは、なにかを変えようとしている。
今この状態がイヤだ。と言い続けている。

ダンナのその言葉がイヤだ。
あの人のあの態度がイヤだ。
この職場がイヤだ。
この仕事がイヤだ。
この社会がイヤだ。
この国がイヤだ。
この世界がイヤだ。

私たちは気に入らないことを変えることで、幸せが得られるとおもっている。
気に入らないことを、楽しいことをして忘れることで、それが幸せに置き換えられると思っている。


ほんとにそうなのか?



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