2012年3月20日火曜日

否定の快楽



「これがいけないんだ!」と思う気持ちは、「自分」という存在をはっきりと自覚させてくれると思わないかい?
ここにどうも人間の快楽がひそんでいるようだ。

こっ。。これは一種の変態じゃねえか。。。
オレって駄目な奴と思うのも、一見「よく反省するいいやつだ」と、ソンケーされそーが、そのうしろに自分をいじめてうれしがっている別の顔があるのだ。
それって、S?それとも、M?(いや、SとMは結局同じものなのかもしれない)

「いやいや、そーではないのだ。オレは自分をいじめているだけまだマシなのだ」と言うかもしれない。しかしその皮を一枚ピロッとめくると、
「ああっ、いまオレはオレを実感してるんだあ~」
と、自分というものを強く味わわせてくれるアイテムなのだ。(うほっ。そんな快楽があったんかい)


この世に生まれてきて、はじめて「わたし」というものを意識したのはいつだろう。
目の前に動いている存在がいて、それがこっちを向いている。そしてこっちにむかって、何度も三つの音をくりかえしている。
「ケイコ、ケイコちゃん」
「つよし、つーよーしっ」

どうもこっちにいる存在とあっちにいる存在があるらしい。そしてこっちの存在はケイコという音で呼ばれているらしい。とおもいはじめる。だから「ケイコ〜」と呼ばれると、繰り返し聞いた音だから条件反射のように振り返る。そうやって、なるほど、この存在はケイコという音らしいとわかる。

だがある日「ケイコ!なにしてるの!だめじゃないの!」と言われた瞬間、それまでぼーっとしていた存在が、今までになかった反応をする。ぎょっとするのだ。全身に鳥肌が立って、強いエネルギーを感じるのだ。

そうなのだ。
それが自分というものを強く意識した瞬間なのだ。そして自分と他人、自分と別の存在、というふうに、突き放された感覚になる。ここから分離が始まる。


否定は分離を引き起こす。同時に、違いを感じる快楽ともなる。それはある意味でトンネルビジョンの始まりなのではないか。
政治批判も、他人批判も、自分批判も、自分という存在を強く意識をする。反対運動が盛り上がるのは、今それに反対している自分を強く意識できるからだ。賛成運動が盛り上がらないのはそのためだ(そんな運動あったっけ?)

そしてそれをだめ押しするかのように、お姉ちゃんを見習いなさい、ナイチンゲールのようになりなさい、と誰かのようになれと教え込まれる。私たちはつねに自分を否定する事によって自分を意識し、外をまねろと言われるのだ。そしてお姉ちゃんのまねをすると、「あら、ケイコ。えらいわねえ」と頭をなでられるのだ。

自分でないものになるために努力をするとほめられる、という歓びを与えられるのだ。

なんてえこったい。


絵:「セクシイ仏教」MF新書表紙 出た!人気シリーズ「セクシイシリーズ」!まさか仏教まで出て来るとは。おそるべし。MF新書!
「仏さま、煩悩がなくなりません。。。」

4 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

人の育ても、犬のしつけと一緒で、ちゃんとした犬(ちゃんと?)として生きてくためにはやってはいけないことを、教えていく。
人間の場合は、”やっちゃいけない事”に、”して欲しい事”が加わり、その基準は、それぞれの親の考えで決まるので、違う子供に育つんですね。
最近の親たちは(私も含めてかも)、本当に”やっちゃいけない事”をあまり教えずに、”して欲しい事”を多く教えるので、自分勝手な子ども(大人も)が、増えてるんじゃないかとおじさんは思います。

つくし さんのコメント...

そのとおり!
ぱぱさんの言う通り、「やっちゃいけないこと」はちゃんと教えるべきです。
これは、この世で生きていくためのしつけのはなしですね。


じつはしつけの話をしているのではなくて、人間がいかに自我というものを芽生えさせ(作り出したというべきか)、人と自分という分離を生み出したかということを知りたいと思ったわけです。

その分離がこの世の混乱を生み出しているんではないかと、ふんだわけです。そのためには、一度整理をし直してみるのも手かな?とおもったわけです。
わかりにくくてすいません。

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

普通の人間は、自然に自我目覚めるし、人と違うことを気付き出すんじゃないのかな。
で、普通最初に出会う他人は、親であるわけで、その時に(しつけを通して)正しい親子関係が構築できていないと「自分(という存在)は一体どこにいるんだろう・・・」と不安になるんじゃないかと・・。親がちゃんと「現在地」の看板しょって立ってることで、どれだけ遠ざかっていいものかが、判んなくなっちゃう。
混乱は、その時起こるんだと思うんです。
じゃ、続きは今度、アルコール付きで!!(笑)

つくし さんのコメント...

おみそれいたしました。