原っぱに寝っ転がって、青い空を見る。
嬉しさがこみ上げてくる。
誰かのことが頭に浮かぶ。嬉しくなる。
次々に浮かぶ誰かさんたち。
おもいだしてはいちいち顔がほころぶ。
蜂がブーンと顔のすぐ上を飛ぶ。くすぐったい。
横を向いても、手を空に伸ばしても、何をしても嬉しい。
このまま喜びが爆発してしまうんじゃないかと思って、また笑う。
ついさっきまで私は旦那が運転する車の中で、恐れの絶頂にあった。
彼が何かしでかさないかと気が気じゃない。
隣でしれっと座っているが、
心の中は恐怖で叫んでいた。
ああ、あそこはちゃんとカーブを曲がって。。。
そこ!人が横断しているよ!
さっさと指示器を出して。
ブレーキかけるのがおそーい。。
体がすごくこわばって、ずっと見張っている自分。
いけない。これは自我に翻弄されている。
恐れてはいけないと思えば思うほど、恐れがどんどん大きくなってくる。
恐れの中で恐れを見る。
恐れの声は膨大だった。
ざっと数えても100種類はある。
その100種類もの恐れは、たえず状況に合わせてささやき続ける。
車に乗った時は、車に関する恐れ。
仕事をしている時は、仕事に関する恐れ。
寝ている時は、将来への恐れ。
体にちょっと変調を感じると、即座に病気への恐れ。
それが少し先に行けば、老いへの恐れ。
そして当然、死への恐れへと続いていく。。。
その恐れの声やイメージが浮かぶたび
「おお!そうよ!それよ!」と反応してそれと同一化しているのだ。
こんなにも恐れの中にいて、よく私は死なないな。。。
私はタフなのか?
ちょっと待てよ。その恐れの思いが、今まで正しかったことはあるか?
これは単なる妄想なのではないか?
死ぬときは死ぬ。いくら抵抗したって。
では恐れの思いで死ぬことはないのではないか。
そう思ったとき、恐れの声やイメージをかたっぱしから疑った。
旦那と一緒に「運転」している自分(つまり怖くって)のハンドルを持つ手をゆっくり離していった。
ただ周りに広がるケヤキの木々を眺めていた。
この世界は恐れを助長する。
形象が恐れを呼び起こす。
形を見ていると、形が「正しく」あってほしいと執着する。
それは同時に「正しくない形」までも思い起こさせるからだ。
この世界は二極に分かれている。
お金と考えると、「金持ち」「貧乏」へと自動的にその二つを連想する(私だけかw)
車と考えると「安全運転」と「自動車事故」を思い起こす。
形は絶えず、そうあって欲しくないことを連想させるのだ。
つまり形は恐れが絶えず後ろに控えている。
ケーキを食べる時、嬉しい反面、太るという恐れを忍ばせている。
その恐れにほとほと疲れてきた。
恐れながらケーキを食べるのはもううんざりだ。
お金のことを考えて、将来のことを考えて、老いのことを考えて、、、。
全部体にまつわること。私は体だと信じて疑わない。
この小さく弱い体を守るために、心が葛藤し、攻撃と防衛を繰り返す。
もううんざりだ。
だがここにきて、私は体ではないんではないか?という考えが現れた。
私は人間だという夢を見ているのではないかと。
恐れは自分が他の兄弟と離れていて孤立した弱いものだと主張する。
恐れが「お前は体だ」と、頭の中で絶えず教えてくる。
しかしその恐れの声を疑い出したなら、
私は本当に体なのだろうかと思い始める。
では体でないとしたら一体なんなのだ?
恐れを選ばない。
恐れにフォーカスするのをどんどんやめていくと、そこに残るものはなんなのか?
形ではない何かが、その向こうに広がっていた。
それに触れると、心は抽象を思い出した。不変で永遠の。
その喜びの中で、私は原っぱに寝っ転がっていた。
絵:「おぼろ月夜」
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