「死にたいする恐れのごとく見えるものは、実は死の魅力である」
奇跡講座テキスト第19章Ⅳ平安への障害C第三の障害ー死の魅力5
車の中で恐れが頂点に達していた。
ダンナは全く安全運転をしているのに、私の心は全身恐れおののいていた。
「私は恐れを選ばない!」と唱えてみたが、ぜんぜん効果なし。
こんなにも恐ろしい恐れが続くなら、私はもう死を選んだ方がいいとまで思った。
コースをやれば内側に隠しておいたものが浮上する。
その時の心のキャパに応じて、徐々に現れるようだ。
それがかなりきつい人もいるだろう。
私にもそのようなことが起きていた。
だがそれもまた自分で受け入れられるものがやってくる。
それは聖霊の愛ゆえ。
その人にとって超えられないものはやってこない。
冒頭の言葉は、私に教えてくれていた。
あの恐れは、私の死への魅了だったのだと。
彼の運転で私は殺されるという信念が隠れていた。
彼の罪によって、私は死ぬと。
コースはこれを逆転させる。
ほんとうは、私が罪を持っていると信じている。
それを持っていることに耐えがたいために、
彼に罪を見て、その被害者になるのだ。
だが心の底では、自分が罪を持っているという罪悪感と、
それを彼になすりつけたという二重の罪悪感が、
より私を罪深く思わせ苦しめていた。
そしてそれに対するあがないは、罰だ。
殺されるという最終手段の罰を受けることによって、
私の罪は許される、と信じているのだ。
だから本当の原因は私自身にある。
思考の逆転。
彼が原因で恐れるのではない。
そう見せかけた私が原因。
自分に引き戻さないと、真実は見えない。
そして死への恐れは、
「私は殺されて罪をあがなえる!!!」
という喜びだったのだ。
私は幼い頃父に殴られて、どこかで喜びを感じていたのを覚えている。
「ああ!私はこれで罪が許される!」と。
自分が消えてしまうほど殴られることで、
この憎悪の対象である肉体を消すことができると、どこかで信じていたのだ。
だからもっと殴ってほしい。もっと私を罪深いと言ってほしいと。
これは修行者が自分に鞭を打ち、罪をあがなおうとするものと似ていないだろうか。
修行厳しく肉体に鞭打つのは、肉体への憎しみからくる。
あれはこの肉体を消したいという、歪んだエクスタシーだ。
だから車の中で私が感じていた恐れは、
死へのエクスタシーだったのだ。。。。!
私は大笑いしてしまった。
なんてアホなことを今までやっていたのだろう。
罪の魅力になんととりつかれていたことだろう。
被害者でいることの魅力にとりつかれていたのだろう!
だいたい、殴られて罪は軽くなったのか?
全くなってない!
恐れを感じていたら、罪は免れる!?
ないない。
恐れというエクスタシーにやられて、
麻薬のようにそれにしがみついていただけだった。
自分や誰かに罪を見ることは、その快楽を味わいたかったのだ。
差異という魅力。特別であるという魅力。みんな同じ快楽。
自分がどんなにそれに魅了されていたことか。。。
自分に罪があるのでも、彼に罪があるのでもない。
罪などもともとなかった。
本当にあるものを見させないために、
罪に執着させようとしていた。
本当の自由にさせないために、
恐れというニンジンをぶら下げて、
それに魅了されていた。
でも心は目の前にあるハエを追い払うように、
「こっ、、この恐れさえなくなれば。。!」
と追い払っていたつもり。
実はしっかりとハエにしがみついていたのだ。
そんな私を笑って赦すのであーる。
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