いつも行く金毘羅さん、
昨日は月一度あるピクニックの日。
結構な坂道に、最後に心臓破りの階段。
鳥居をくぐると、汗だくで息もゼーゼー。
まだ息があらいまま、竹箒で落ち葉を掃除する。
冬も深まってきて、汗ビッチョリの背中が冷えてくる。
「風邪、引く?」とチョチョ心配しながらも、
黙々とビールケースを運んでピクニックのテーブル作りに勤しむ。
神社の中では、神主さんがお知り合いの合格祈願のお祓いをズームを通してやっている。
時代だなあ~。
もう一人の神主さんが、長い階段を重たい食材を背負って登ってきた。
途中まで迎えに行く。
寒い中、鍋を囲んでピクニックが始まった。
皆和気あいあい、話がはずむ。
汗はいつの間にか消えていた。
ここはいろんなバックボーンを持った人たちが来る。
オヤジ率高いが、上も下もなくみんな対等。
電気は来ているが、水道はない。貴重な水は大事に使う。
ピクニックの準備も、後片付けも、みんなさっさと慣れた手つきで終わらせていく。
最後は何事もなかったかのように、綺麗になった。
私はまた何かを受け取っていた。
何を受け取ったのかわからないまま下山、美しい時間が流れていった感覚だけが残る。
夜、お風呂の中で、今日出会った人々を思い出す。
一人一人を光で見ていると、あの場所全体が光に包まれた。
隣で話していたオヤジが、とても愛おしく感じる。
一人いつもおかしなことを言うオヤジも愛おしい。
「ああ、みんな同じなんだ。。。」
なんの肩書きもなんのアイデンティティもない、たったひとつの光。
全ては対等で、同じ。
私は何をもらったのだろう。
例えていうなら、一つの真っ白い箱をもらった感じだろうか。
開けてみると、何も入っていない。
でも入っていないがゆえに、それは何かで満たされている。
私たちはそこにケーキが入っていたり、何かが入っていることを喜ぶ。
でもそんなものは限りがある。食べれば消えてなくなる。
もうそんなものにフォーカスする必要はないのだなあ。
物質がすべてと思う必要はないんだ。
それがとても嬉しくて、嬉しくて、踊り出したい気分。
「私はこんな素晴らしいものを受け取った!」
と、声を出して宣言したいくらい。
その箱の中には、何も見えないが、喜びが詰まっていた。
喜びは、数多くある感情の中の、単なる感情の一つだと思っていた。
でもそうではないのではないか?
喜びはとんでもないパワーを持っている。
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