どうしていいかわからない時がある。
どっちに決めた方がいいかわからない時がある。
こんな時私は立ち止まる。
「私には、何にもわかりません」
と、そっと宣言する。
それまでは、
どうしていいかわからない自分はいけないのだと思い、必死で策を練った。
どっちに決めた方がいいかわからない自分は能力がないとして、
どっちが一番正しいか必死で考えた。
その元になっている考えは
「私は自分で決めることができる」
という法則であり、
自分で決められる「はずだ」
という暗黙のプレッシャーであった。
それはこの世は能力主義で、能力がある方が正しく、
能力がないものは間違っているという重たい漬物石が、私の上に乗っかっていたからだ。
私はその漬物石であらゆる水分を放出してしまい、完全にひしゃげてしまった。
そこで初めて私は自分の上にある重たい石に気がついた。
その石の表面には、「無能」とか「罪悪感」とか「恐怖」とか「罪」という文字が書かれてあった。
その漬物石は、自我の教えでできていた。
こうしないといけない、ああでなければいけない。世の中はこういうものだ。お前は小さく弱い生き物だ。この世で生きていくためには勝ち抜いていかなければいけない、云々。
私を怯えさせ、小さい体をますます小さくさせる教えでできていた。
私はこの先生に長い間教わってきた。
この先生を信じて疑わなかったけど、その先生のおかげでペシャンコになった。
そんな時、他にもう一人の先生がいることに気づいた。
その先生は、違うところからこの世界を見ている。
その先生は、漬物石など存在しないと教えてくれた。
あなたは小さきものではない、無限の力を持っていると。
長いこと漬物石があると信じ続けていたので、いきなりそれがないと言われても戸惑う。
けれどもすこしづつ、その石が自分に何を仕掛けていたのかを知り始めるうちに、
石はだんだん軽くなっていった。
それと同時に、私に水分が戻ってきた。
ぎゅっと詰まって重たかった石は、密度が薄くなって穴が開き始め、
空気が入り、軽石になっていった。
「私には何もわかりません」というとき、
私の心は軽くなる。
知っていなければならない、わかっていなければならない。
この言葉がいかに私に重荷/重石を与えていたことか。
本当は何も知らないんだ。
何もわかっていないんだ。
そう思った時、私の上には何も乗っかっていない。
そうしてこの世界で通用しているかに見える自我の先生を放棄し、
別の視点にいる聖霊を先生に招き入れる。
この先生は教えを押し付けない。
何も言わない。ただ一緒に見てくれる。
一緒に静かに見ている間に、今までと違う視点がやってくる。
最初は何かのメッセージとしていろんなことを与えてくれていた。
今はただその先生といるだけで安堵する。
それだけでこの世界が違って見えてくる。
勝手にことが進んでいく。
これで良かったのだと、幸せな気持ちの中を進める。
現れてくる現象にフォーカスし続けていたが、それは心の結果。
私の思いが目の前に現れていた。
不快を感じた時や不安を感じた時、何かをしなければと行動に出そうになる。
その時私はその衝動をやめる。
そしてそっとつぶやく。
「私は何もわかっていないのだ」と。
正そうとすることもなく、判断することもなく、
私には何もわからないとして預ける。
もう一人の先生とともにこれを見る。
その時、私の知らないところで何かが動いている。
パタパタと見えない何かが動き、
そして心の中に変化が起こる。
ある時は考えが浮かび、
ある時はただ心が落ち着く。
どちらにしろ、ギュッと凝縮する考えではなく、
さあ~っと、目の前が広がる感覚になる。
穏やかさがもどり、そこで私は一歩踏み出す。
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