「自分になるために学びは必要ですか」
ムージの言葉だ。
ドキッとする。
自分になるために。。?
私はずっと自分に「私はイラストレーターだ。私は女だ。私は56歳だ。私は日本人だ。。。」と、いっぱい肩書きをはって来た。
肩書きとは、外にあるイメージだ。
イラストレーターのイメージ、女というイメージ、56歳のイメージ、日本人のイメージ。。。
その外のイメージに、自分を当てはめる。そうすると自動的にそうでない自分を見つけてしまう。
イラストレーターは、こういうイメージだよな。
今の自分は?
え!じぇんじぇんちゃうやんけ!
じゃあ、そのイメージになるために、こーやって、あーやって。。。と。
女はこういうイメージ。。。
自分は?いや、じぇんじぇんちゃうやんけ!
そのイメージに合わせるためには、あーやって、こーやって。。。と。
そーやって、自分が勝手につけた肩書きに、あわせよう、あわせようとしてきたのだ。
それ、自分?
自分じゃないものに、そう、自分じゃない型に、自分をはめ込もうとしていたんだ。
「イラストレーター型」、「女型」、「56歳型」、「日本人型」「ナンチャら型」
そもそもなんで「型」にはまらなきゃいけないんだ?
そう教わったから?
そのほうが、気持ちが安心するから?
人を安心させるから?
社会を安心させるから?
そのほうが、気持ちが安心するから?
人を安心させるから?
社会を安心させるから?
だけどその型って、すっごく抽象的。しかもそれに資格などあるわけもなく。
「あなたはみごとにイラストレーター型にはまりました。おめでとうございます!」
と、賞賛されるわけもなく。
と、賞賛されるわけもなく。
その漠然とした抽象的な、おばけのような「型」に、無意識に振り回されている自分を発見する。
小さいとき、「何になりたい?」ときかれて、
一瞬、どうして外の何かにならないといけないのだろう?とおもった。だけど私は母の思いをくんで「看護婦さんになりたい!」と答えたものだ。
そういう問いに対して、
「自分になりたい!」と答えた、ある子供の話しを思いだす。
冒頭の言葉「自分になるために学びは必要ですか?」
自分って何やろ。
それまで自分じゃないものに、無理矢理自分を押し込めようとしていた。
でも、自分になるためって、、、、まさに今のこの状態やんけ。
それって何の型もない。
型は、まさにわたしそのものだ。
何の型もないものだとしたら、無理矢理その中に入る事もない。
そのまま、今ここで出発できる。
しかもどうあろうと、それが自分、そのままなのだ。
そこに学びはあるのか。
自分自身であるなら、外に教えを乞う必要もない。
そして発見がある。
どんどん掘り下げて、どんどん発見して行く。
「大きくなったら、なにになりたい?」
「大きくなったら、大きな自分になりたい!」
名刺にこう書くのだ。
肩書き:自分
名前:つくし
来年の確定申告の職業欄にこう書いちゃおうか。
絵:「炎」
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