2017年7月12日水曜日

「止まれ」


夢を見た。

両脇を建物や壁や岩などで囲われた、まがりくねった道を歩いていた。向こうから車が来る。それをよけながら前に前に歩いていた。脇道はない。この道の先にきっと開けた場所があるはずだ。。。という確信の元にずっとずっと歩いて行く。

何度も折れ曲がりながら、そのつど道がすこしずつ狭くなる。はたと気がつく。こんな道をあの対向車は通って来たのか?
この先に本当に開けた場所などあるのだろうか。。。

道はいよいよ狭くなり、ところどころ開き戸まである。足元にむきだしの和式の白い便器があちこちに。。。よくみたら、半分壁に埋まっているものまである。いよいよ怪しくなって来た。

部屋の中のような道を歩きながら、この先には開けた場所などない、と確信する。後戻りしようか。あのもう少し広い道に戻って。。。。
だけど、歩いて来た道を戻ってもしかたがない。かといって、前に進めば進むほど、もっと狭くなるだろう。。。

進退窮まったとき、これは進むことでも、戻ることでもないというインスピレーションが。


目が覚めた。


布団の上で、ぼうぜんとする。さっきまで見ていた夢を思いだす。
あれはまさに私の探求の姿。ひたすら前に前に進んで、開けた場所、つまり解放や悟りを探して歩いてきた。だけどこの先、歩いても歩いても解放はない。それどころか、もっと狭くなって行くだけなのだと教えられた。
これは動くことではない。
つまり「止まれ」ということだ。

「止まれ」かあ。。。

人はじっとしていられない。じっとしていると不安になる。不安になるから動く。動く動機を探す。動くきっかけを探す。
悟りは、ぼーっとしてては悟れない。動いていれば、探していれば、歩いていれば、なにかいいことさえしていれば、いつかきっとそこにたどり着くはずだと信じて来た。
それは自我の主張だったのかも知れない。動けば自我は満足する。その声に心も身体もあわせて来たのだ。


だがあの夢は、それをやる意味のなさをはっきりと教えている。
もう、止まれと。

止まるとはどういうことか。
その場にとどまるってこと。

動くことは、その場を離れようとすることだ。その場とは今。今のここが、どこか居心地が悪いから、どこかに移動しようとする衝動。その衝動を真っ向から断ち切る。
その今の居心地の悪いこと、もの、状態を、そのまんま受け入れろ。とどまりつづけろ。
その意識はその状態に巻き込まれてはいない。その不快を見ている意識だ。

そうはいっても、その止まることに慣れていない。

どうやって止まったらいーの?
カンタンじゃん、止まるだけだよ。
えーーーー、止まり方、わかんない。

小学校の頃、ぼーっとしてて、怒られたことを思いだす。
あの時は、止まっていた。今にいた。
でも止まっていて、怒られた。
それでつねに動くことをじぶんに課した。長年の訓練の結果、それが空気すうように自然になってしまった。じっとしていられない。何か常にしようとする意識。ぼーっとしてたら、怒られる。ぼーっとしてたら、ろくな人生にならない。(って、もうなっとるがな)

でも「止まる」ことはぼーっとすることじゃないことはわかる。

人間歴長くなると、止まり方を忘れてしもた。


絵:「MAYHEM&MASS」ミステリーペーパーバック表紙
   新たなミステリーシリーズ始まりました。

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