2022年4月10日日曜日

聖霊に叫ぶ


私は人間だ。私は女だ。


この信念があるからこそ、私は人間で、私は女なのだ。


この世界があると信じているから、この世界がある。


この世界に生まれ落ちたわけじゃない。

生まれ落ちたような気になって、

その中で生きて老いて死んで行く。。。


のような気になっているだけのようなのだ。




コースが心を変えるという話をしているのは、

ハートを変えるという意味ではない。


心(マインド)を変える、だ。

マインドとは、考え。


私たちが信じて疑わない考え。その考えを変えていくことだったのだ。




ある出来事で苦しむ。

その苦しみの原因は、見えている外にある。

その苦しみの原因である外を変えれば、苦しみは消えると思っている。


でもほんとは、こっち側にある。

心(マインド)が考えていることが、外に現れて見えるだけなのだった。


だから苦しいことがある時、自分を疑う。

「ちょっと待てよ。これは私の中にどんな考えがある?」


ある時、どうしようもなく苦しい時があった。

「どうしてこんなに苦しい?教えて欲しい。。」


なんとも言えない気分になる。

それも出し惜しみせず、これはなんだろう?ともっと見ていく。


苦い。。

いたたまれない。。。

泣きべそをかく。。。

無力感におちいる。。。

イライラする。。。。

落ち着かない。。。。

う~~~~なんだっけこれは。。。。?


だんだん怒りに変わっていった。

バカバカしい!

ふざけんなよ!


そして思い出したのだ。パタパタと蘇るシーン。

小さい頃味わっていた、同じこの思いを。




母はいつも具合が悪く、父は機嫌が悪くなる。


私の中にこの二つの信念があった。

「人は具合が悪くなる」

「人は機嫌が悪くなる」


そして母の看病をし、父の機嫌をとった。

幼い頃から私はいつも両親がいつ具合が悪くなるのか、機嫌が悪くなるのか、

ビクビクして監視していたのだ。


父の不機嫌が頂点に達して物を壊すことになる前に、

私は機嫌をとって危機を制していた。


しかし母にはどうすることもできなかった。

ただ彼女をマッサージし、ご飯を用意し、

吐瀉物用の洗面器を変えることぐらいしかできなかった。



「人は具合が悪くなるが、私にはどうすることもできない」

という思いと

「人は機嫌が悪くなるが、自分でなんとか食い止めなければいけない」

という思いも持っていた。


それはどちらも自分を他人に明け渡す行為。

力を自分ではなく、人に渡している。

言い換えれば、人にコントロールされて、自分は自由にできないという思い。


そのいたたまれない思いが、日々の出来事の中で現れてきていたのだった。


この考え(心)をこれからも味わいたいだろうか。

後生大事に持って、事あるごとにこの感情を味わいたいのだろうか。


否!

私はそれを手放すことができる。。。。!



私が信じて疑いもせず持っていたこれらの信念。

「人は具合が悪くなる」

「人は機嫌が悪くなる」


それが実在すると信じた時に行う行為。

しかし

「自分にはどうすることもできない」

「自分でなんとか食い止めなければいけない」


そしてその結果、

自分は自分ではなくなる。

人に力を渡して、非力だ。無能だ。

と自分にレッテルを張るやるせなさ。


この一連の信念を

「もういらない!もう私には必要ない!

こんな思いは二度としたくない!

あなたに捧げます。取り消してください!!!!!」

と、聖霊に叫んだ。




こんなやり取りを私は聖霊としている。

聖霊とは、真の自己である私。


彼女が私の願いを聞き届けてくれることは、もう信じて疑わない。

少しづつその関係を深めている。


闇を光の元へ持っていく。

自我の私にできることは、自分の中にある自我的な信念を見つけ、

聖霊に差し出すこと。

これが目下の私の仕事。



「こんなもの、私はずっと信じてきました。でも、もういりません!」

と光に捧げる時、闇は雲散霧消する。


このシステムにどれだけ救われてきたことか。

これからも自我とともに考えついた、当たり前のように信じていた観念を手渡していく。


たとえ状況が何の変化をしなくとも、

心の中が変化していくのを目撃する。




自分の中にどんな信念があるのか。


それを知ることは、

この世界からの解放につながっている。




絵:MF新書表紙イラスト




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