ずっと正しさを求めてきた。
最初はこの世界の物理的ルールでの正しさを求め、
やがてこの世界に矛盾を感じて、
今度は精神世界の中での正しさを求めた。
そうせざるを得なかった理由は、
「私は間違っている存在だ」
という信念があったからだ。
だから常に、
「私は間違っていないだろうか。正しいやり方をやっているだろうか」
と恐れてきた。
ネットの中で「正しい」ことを言う人を探し、
ネットの中で「まちがった」ことを言う人を非難した。
そうやって間違っている人を見つけては、自分の正しさを確認する。
「うん。私はこれでいいんだ」
「いや。。。やっぱりまだまだだ。。。」
そう言う思いがずっとぐるぐると回っていた。
そしてある時、身近にいる兄弟に「間違い」を見出した時、
そこで初めて、はっきりと
「自分は間違っていると思っている!」ことに気づいた。
間違っている存在を見ることによって、
間違っている自分を見たのだ。
これこそが、自我の罠だった。
もう外に間違いを見出して、自分の正しさを証しすることなどできないと知った。
たった一つの心が、バラバラになった夢を見ている。
あなたと私は違うと言う分離の夢。
しかし真実は、一つの心であるから、
誰かが間違っていると見た時、自分もまた間違っている。
誰かをさばいた時、自分をもさばいている。
しかし
誰かを正しいと思った時、自分もまた正しい。
誰かを美しいと思った時、自分もまた美しい。
風景の広大さを見る時、自分もまた広大なのだ。
真実の視点から見れば、
この世の正しいこと間違っていることを、
分けることなどできなかったのだ。
自我とともにいる時、心は常に何かを裁こうとする。
自我はそう言う動きしかできない。
自我の思いにつられて何か裁くものを探そうとする、その心に気がつく。
そして立ち止まる。
その場に留まることは、今この瞬間といることだ。
自我は今ここが耐えられない。
次の一手を考えることに夢中。
それこそが、この世界を実在しているかのように見せるトリック。
「私は間違っている」と言う思いこそが自我だった。
この世界にとどまらせるための。
こうやってこの文章を書いていること自体、
私は正しいと認められたくて書いているのだろうか。
そうなのだろう。
まだそれを書かざるを得ない私がいる。
その想いも判断せず、赦し、委ねよう。
絵:「あまつぶ神」/水彩
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