「私が見ているものについての責任は、私自身にある。
私が経験する感情を選択するのは私自身であり、
私が達成したいゴールを決めるのも私自身である」
(奇跡講座テキスト第21章理性と知覚 2視覚に対する責任 2段落目3、4)
コースのこの言葉がグイグイ私をついてくる。
「ただ起こることが起こっているだけ」とは言わせてくれない。
その起こってくるものを見ている、そのあなたの責任だと。
そしてその出来事にともなう感情も、あなたの選択なのだと。
それは逆に言うと、あなたが作り出しているのだから、
あなたが消すこともできると言っているのだ。
ただ出来事(風)に振り回され、
翻弄される(川に流される/雨に打たれる)はかない濡れ落ち葉じゃない。(男じゃないけど)
つまり私にはその力があるとコースは教えている。
私はいつもメールを見るのが怖い。
私のエージェントピーターからのメールで、
出版社のアートディレクターからのスケッチの直しのメールが来ないかと怯えているのだ。
その日もビクビクしながらメールを開ける。
開くまでの時間が苦しい。
待ちながら思った。
「待てよ。なんで私は毎回こんなに怯えているのだ?
この恐れを選ばないこともできるんじゃないか?」
その時、恐れが消えた。
「え?消えるの?」
開いたメールには、ピーターからのメール。
そこにはアートディレクターから直しのメールが添付されていた(爆)。
その時私は初めてこう考えた。
「私のスケッチに直しが来たからといって、私の存在が抹消されるわけではない」
そうなのだ。
私はずっと、デザイナーやアートディレクターからの直しが来るとは、
水戸黄門様の印籠を見せられるように、
セーラームーンに決め台詞はかれるように、
「おまえは能無しだ!」
とレッテルが貼られることだと信じてきたのだ。。。!
ちっこい心臓の持ち主のつくしちゃんはずっとこの言葉に怯えてきたのだった。
しかしその考え、信念があっただけだったのだ。
ただ、そう信じていただけだったのだ。どこからか拾ってきて。
そのことに気づかされる。
この考えは私にとって有効か?
いやいや。持っていたって、その考えは私を苦しめるだけだろう。
もう必要ない。
これを聖霊さんにお渡しして訂正してもらおう。
先日書いたエアー物差しの秤りごと、
この出来事には恐れるのが普通で、
この出来事には喜ぶのが普通で、
この出来事には悲しむのが普通で、
この出来事にはブチ切れるのが普通。。。
エアー物差しは、一旦その意味が暴露され、
その有効性が徐々に消え始めると、
それによってともなう感情さえも選択だと知り始める。
こうしてアートディレクターの直しの注文が来ても、
恐れなくして淡々とこなせる、
心臓に毛が生え始めたつくしちゃんがいましたとさ。
めでたしめでたし。
(って、日本昔ばなしか!)
恐れはそれを実在させる。
ガッチガチの硬い、ドリルで穴開けないと壊れないコンクリートの世界から、
恐れを選ばないことによって、
柔らかなレースのような、ふわふわした世界になっていく。
心の中の微妙な変化にフォーカスしていくと、
ほんの少しの選択によって、
世界の見え方が変わることに驚き始める。
「見えるものについての責任は私にある。」
私にはそれができる力がある。
濡れ落ち葉じゃないのだ。
絵:きつねえさん/展覧会「裏高尾の不思議な仲間たち」より
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