ある朝、まどろみながら映像を見た。
何かをやっているシーン。
その中で現れては消える、思考、感情、出来事。
次から次へと変化している。
それを見ている私がいた。
至福が私を包み込み、私は感動に打ち震えていた。
すべては夢幻であるという教えは、ほんとうだったんだ。。。
さて、私が見た映像とはこういうもの。
スクリーンに映し出された映像。
その手前にフィルム。
それを見ている一つの目/意識。
そしてその背後に巨大な光があった。
この世界はフィルムから映し出された映像だった。
その映し出された映像の一つが私と言う主人公。
その中で私は喜び、悲しみ、怒り、恐れた。
だが主人公の私は、本当の私ではなかった。
フィルムから映し出された人物を
私だと思っていたのだった。
その登場人物のことを追っている一つの目/意識が
フィルムを通して登場人物の物語に入っていたのだ。
その映像は、背後に巨大な光があり、
その光のおかげでフィルムを映写できていたのだった。
その目/意識である私は、スクリーンに映し出された主人公の私を愛おしく眺めていた。
スクリーン上の出来事には全く影響されず、至福とともに主人公の私を眺めていたのだ。
まどろみから目が覚めて思う。
そのフィルムはなぜそこにあるのか。
なぜ投影せねばならなかったのか。
そのフィルムは、スクリーンに映像を映し出す元。
それは実は罪悪感でできたフィルムだった。
神から離れてみたらどうなるんだろう?
神のように自分も世界を作ってみたい!
そう思った瞬間に、神の子はものすごい罪悪感を感じた。
一体なんてことを思いついてしまったのか!
その罪の意識が、ものすごい力を発揮して、もう一つの世界を作出した。
(それがこの宇宙の始まりと言われている。)
その恐れの思いがこのフィルムを作った。
その中に逃げ込み、神を忘れようとした。
だからこの世界は恐れと狂気に満ちている。
その目/意識は、神とは反対の方向を向いている。
光の側面にちょこんとくっついた小さな思い、神への小さな抵抗。
これが分離の意識の始まりだった。
その目の位置に立った時、確かに私は至福を感じた。
苦しみも悲しみも、何の影響も受けない私がいた。
しかしそれでもそこに幻影はある。
幻影を幻影としてみているだけでは、本当の安らぎはないと気づいた。
心の中にある恐れ、罪悪感が消えていくほどに、
そのフィルムはだんだん薄らいでいき、
幻夢は辛く悲しい夢ではなく、幸せな夢に変わり、
やがてそのフィルムも消える。
その時、その背後の光の中に、神が引っ張り上げてくれるのだ。
そんな思いを感じた。
このイラストはその時見たものを映像にしてみた。
0 件のコメント:
コメントを投稿