いつもどっかが欠けている感じがする。
いつも何かが足りない感じがする。
心を静かに見ていると、手探りで何かを探そうとしている心に気がつく。
それは問題を探して、その問題に取り組んで、解決させて、ホッとすること。
私たちは絶えず、ホッとすること、幸せな安堵感を求めている。
求めているのは幸せ。
正しさを求めるのも、実はその正しい行いをすることによって得られる幸せ感。
やっぱり幸せなのだ。
誰かの幸せそうな姿を見て、自分も幸せな気持ちになる。
幸せなシーンを見て、自分も幸せになる。
この仕事が終わったら、解放されて幸せになる。
幸せな食べ物を食べて、幸せな行為をして、
そして幸せを得る。
だから私たちは絶えず、幸せになるためにはどうしたら良いかと探している。
その心の前提にあるのは欠乏感。
今ここに幸せがないと信じている、その心。
ないと信じて疑っていないのだ。
考えを反転させる。
幸せなものを得るから、幸せになるのではない。
幸せなシーンを見て、私たちが幸せになるのは、
もともと私たちが幸せそのものだったことを思い出している。
だから幸せなシーンを見て幸せになるのではなく、
あふれんばかりの幸せが自分にあったことを、
思い出すきっかけになっているだけなのだ。
幸せになった時を思い出してみよう。
その時恐れが消えていないか?
私たちは絶えず恐れの中にいる。
プルプルと震えるような緊張感の中で生きている。
ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう、
そうならないために、あれをやってこれをやってと、
恐れによって行動している。
恐れがその行為の原動力になっている。
それが一瞬消える。その恐れによる行為が一瞬消える。
恐れの膜で覆われた心に、穴が開く。
その時、思い出す。
もともとあった幸せな感覚を。
外にある幸せにさせてくれるものを求めても、
その幸せは一瞬で終わる。
その一瞬のために探し続けてもキリがなかった。
そうではなく、そのもともとあった幸せな感覚をさえぎっている、恐れの膜を見る。
その膜は、見ないことには、それが本当は実在してないことを見破れない。
だからこそ、自分の中にある恐れに気づいていく。
物理的に満たして幸福を得ようとして戦ってきた長い時代から、
今は江戸時代のお殿様でも手に入れられなかったものを庶民が手にしている時代。
しかしそこに(物理的に)本当の幸せは見つからなかったと、
どこかで気づいている。
内側の、目に見えないけれど、
確かに感じているもの(思考、感情)にフォーカスしていく時代に入った。
しかし私たちは心に関してはまだ幼稚園児。
これからその未知の領域に足を踏み込むことになるだろう。
その未知の領域、例えば、テレパシーで会話をする時代が来るとしたら、
私たちの心の中は、あまりにぐちゃぐちゃだ。
そのぐちゃぐちゃな心をそのまま相手に見せることになる。
それがまだできないのは、まだそこまで心が成長していない配慮からなのだろう。
例えばイメージで、別の世界にワープすることも、
心が定まってない状態でテレポーテーションしたら、
とんでもないところに行くかもしれないし、
そもそもその体は、五体満足にその場所に全部移動できるかどうかもわからない。
私たちはまだそんな程度。
でもこの世界を作って、物質を作り上げることまで成し遂げた私たち。
そこに本当の幸せは存在しないとわかり始めている。
心を使って、目に見えるものを超えていくぜ。
待ってろよ、テレポーテーション!
(幸せの話しやったんちゃうんかい)
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