2022年1月6日木曜日

今ここにいる私をのぞいてはいけません。。。

 


最近凝っているのは、今にいること!

(それはマイブームの次元なのか)


「今ここ」っていうカフェが近所にあるけど、あの名前をつけたオーナーさんはすごい。

それが一番できないことだもの。

「悟り」ってカフェに名付けるようなもの。



今にいることが全てのカギを握っているようだ。


今って、言ってみりゃ時間のことだけど、

どうも今とは過去と未来の間のことではなさそうだ。


過去と未来は時間なんだけど、

今は時間と呼べる代物ではないようなのだ。。。



頭の中を見てみりゃわかるけど、いつも過去のこと考えて、未来を心配することばっかりだ。

誰かさんのことを考える時も同じ。ほんの数分前の誰かさんの態度でさえも過去だ。

その過去起こった出来事を「あのやろう。。。」と考えているわけだ。

だから今にいない。


そして今にいるということは、判断できないってこと。


解釈も判断もみんな過去だ。

「あのやろう。。。」と思うってことは、あのやろうを思い出し、

あのやろうのやったことを判断解釈している。全部過去だ。


では今にいるって、一瞬のことだから、

その一瞬一瞬をどーやって維持するのだ?と、考えたら、即座にムリゲーだと思う。


そもそも自分で自問自答すること自体が無理。

だってその過去に囚われているのが自我自身だから。時間=自我。

だからその自我に聞いても外れたことしか言わん。知らないんだもん。


ということで知っている存在に聞く。

「ねえねえ。聖霊さん。今って何?どうやるの?それはどんなことなの?おせーて!」

と、聞きまくる。

聖霊さんは相変わらず黙して語らない。

「。。。。。」

ほんとはしゃべっているのかもしれないが、私が聞く耳を持っていないのかもしれん(苦笑)。


この頃頼りっぱなしだ。

私はなんもわかりませんと。


そんな開き直りの私に、あろうことか徐々に変化が起こってくる。

ホゲーっとそこにいられるようになってくるのだ。


それはなんというか、今までじっとしていると、

あれこれ考えが浮かんだり、とっかかりを探している心があった。


「あれはどうなんだろ?これは?」

と、心があっちゃこっちゃうろうろ落ち着きのないのがわかる。

気になる何かが浮上して、考えを誘ってくるのだ。

そう、過去や未来へのお誘いが。


例えて言えば、夏祭りの夜店にぶら下がってるいろんなおもちゃ。


「これはどう?あれなんかおもしろいよ」

と、テキ屋のおじさんが私を誘う~。

魅力的なおもちゃにそそられ、

「おじさん、それくださいな!」

「ホイきた!100円!」

「ありがとう~!」

と、まんまと乗せられる。


そんな幼稚園児みたいな私が、どうしてそうなっていくのかさっぱりわからんが、

あんなにキラキラして見えてたおもちゃが、どれも魅力的じゃなくなっていって、

だんだん薄くなって消えていくのだ。


そしてホゲーっとそこにいる。


心は目の前に見えているものに判断が起こらず、

聞こえてくる音にも関与しない。

五感が解釈をともなって働くことをしなくなる。

判断が起こらなくなれば、当然そこに感情も動かない。


人間としての機能であるもの、五感、思考、感情が、その働きを止めたなら、

もともとそこにあったものが浮上してくるのだ。


それが何と喜びだ。


部屋で一人、窓の外を見ながらニヤニヤする。

誰かがこの姿を障子の隙間からのぞいたなら、ほとんどホラーだ。



くれぐれも、「今ここ」にいる私を


のぞきませぬよう。。。。







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