先日の続きになるが、
私たちは形象にずっとフォーカスしている。
物の形であったり、人の行為であったり、考えであったり。
現れてきたものに捕らえられている。
だから自分の中に苦痛があるなら、その苦痛の原因を見つけ、それを取り除いて楽になろうとする。
それは形もそうだが、人の行為でさえも、コントロールしようとする。
先日、旦那が運転中にちょっとアホなことをした。
「あ~あ。またマヌケな事して~」
と言った瞬間、気がついた。
「あれ。あたし、あんたがマヌケなやつだと思ってる。
マヌケな奴はどんなことをしでかすかわからないからちゃんと見張ってないとって!」
「それって、自分がマヌケな奴だ。ちゃんと見張ってないとって、思ってるってことだ!」
と、車の中でふたりで同時に言って笑いあった。
どんなささいな苦痛でも、どんな大きな苦痛でも同じことが言える。
人に苦痛を感じて責めた時、実は自分を責めている。
自分はこういう人間なのかもしれないと密かに信じた時、それを認めるのは苦しい。だからそれを人に見るのだ。人のマヌケを見て、その人を責めることによって、自分はマヌケじゃないと考える。
だって私は人のマヌケを見つけることができるんだもんっ♪と。
ちょっとここをじっくり検証してみると、マヌケを見つけて成敗したいと思っているその心は、
「私はマヌケであってはいけない!」という信念(オキテ)があるからだ。
ところがよ。
マヌケを気にもとめない人がいたら、マヌケな人を見つけることもないのだ。
つまりマヌケであってはいけないと思っているということは、
裏を返せば、「私はマヌケだ」と密かに信じているということなのだ(笑)。
だからそうであってはいけない私は、ひたすらマヌケな奴をみつけ、
「ピピピー!そこのマヌケ!レッドカード!」
と、ひたすらマヌケを見つけ続け、
「ふふふ。私は違うわよ」
と心の底でほくそ笑むというドラマを繰り広げる。
では、そのドラマはいつになったら終わるのか。
臭い匂いはもとから立たなきゃダメ!
結果を、つまりマヌケを外に見るというところから、
原因、つまり本当のマヌケはどこにいるのか?を探るのだ。
それはもう私しかいないだろ!(爆)
ではその「私はマヌケ」という信念は正しいのか。
ええ!もちろん正しいですとも!
なぜならあの時私はああいうマヌケなことをしでかして、
こういうマヌケなことをしでかして。。。
「証拠はもうとっくに出揃っているんだ!」
と、取調室で刑事は机をバンと叩く。
そこで問う。
それは誰が証明した?
私!
他に誰かいる?
えーと。。。
いやいや!私が証明したんだから絶対正しい!
この世界は私が信じたものを見る。
だからマヌケな私という信念があれば、
そのマヌケな私は信じた通りにマヌケをやってくれ、
それを見た私はそれを証明したことになり、
確固たる確信になっていく。
しかしそれはただ信じただけだったとしたら。
私たちは罪を見たい。
それを人に見たり、自分に見たりして。
そして人に、自分に罰を与える。
そういうことを繰り返してきた。
私もたんまりそういうことをやってきた。
でもその罪を見ることの意味は、この世界で分離していたいという思いだった。
自分と他人は違うと、言いつづけたがっていた。
だがそこには苦痛しかなかった。
そして本当は罪などないことを知る。
マヌケという罪は存在すらしない。
だから私の中にマヌケはいないし、そもそもマヌケという言葉もない。
旦那はマヌケじゃなかったんだよ。
私がかけていたマヌケ発見眼鏡で、この世界を見ていただけだったんだ。
まったくの幻想を、そのもともとなかったところに戻そう。
私の中の「マヌケ」を聖霊さんに捧げた。
自分の中の荷物(信念)がひとつ軽くなった。
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