2022年1月5日水曜日

非二元の視点?

 


昨日の夜、私は「つくしの人生」という世界を

ズーーーーーッと遠くから見ていた。


ずっと遠くから見たその世界はとてもちっちゃかった。

5センチ四方ぐらい(笑)。


そのちっちゃい世界を眺めたとき、なんとも愛おしいような、至福の思いにあふれていた。

そこには笑いあり涙あり。いろんな出来事が展開されていたが、そこに私はいなかった。


日頃見ている肉眼の視点からの風景に変わりはなかったが、

私は世界とはまるで関わっていなかったのだ。


これが非二元の視点。。。?

ちっちゃいとは誰も言ってないが、イメージでいうとそんな感じ。

だけど同時にその細部も見えている。なかなかこれを説明するのは難しいのだけれど。


その世界との関わりのなさは、まさに「私はいない」という感じだ。

その視点に立つとき、どんな出来事も自分のことではなかった。

どんな出来事もただ起こっているだけで、「私」とは関係がなかった。


そこで自我を思い出した。

そうか。自我がこの世界に関わりを持たせている張本人なのだ。


自我が吹き込んでくるあの考えこの考え。

「私」はその考えを信用し、採用する。

そしてその世界の中に没入していくのだ。

形のある世界の中の肉体を持った主人公。その主人公に入るように勧めてくるのだ。


「君は肉体だよ。限界がある小さく弱い存在だよ。

自分と他人は分かれているよ。他人は肉体の君を攻撃するよ。

だからこの肉体を守るために、君もまた攻撃をし返さなくちゃいけないんだ。。。」

とかなんとかいっぱいささやいて、「私」をその気にさせる。


「そうか。私はこの肉体なんだな。よしわかった。サバイバルして生きるのだ!」


自我はいつまでもこの作られた世界を維持するためにあらゆる手を尽くして、

私たちが本当は誰なのかを思い出させないようにしていた。



だから「私はいない」の私とは、自我の私がいないということなのだろう。




朝起きてそのことを思い出していたら、先日見た母とのシーンが浮かんだ。

あの視点とは違う。


確かに昨日の夜、世界を引いて見ていた心はとても愛おしく静かな喜びがあった。

それは宇宙の闇の中に浮かび上がった地球を眺めているかのよう。


母とのシーンは違っていた。

光の中にいた。光で形が見えない世界。

そして何より溢れる楽しさと優しさと喜びに満ちていた。


昨夜見た世界は自分が世界を見ていた。

ということは、非二元じゃないのかもしれん。

それに目に見える形があった。


母とのシーンは、光の中で私は母とひとつだった。

肉体とはかすかに見えるものでしかなく、

生まれるとか死ぬという考えもなく、

永遠の生命がそこにあった。


私はそれを聖霊とともに見ていた。

それはまさに聖霊の視点なのだ。



昨日の夜、世界を見ている私のそばには誰もいなかった。


しかし攻撃されるという恐れも一切なく、

ただそこにあらゆる映像が現れては消えていく美しさがあった。

これは一体なんだろう?という好奇心の目で見つめていられる。


私は安堵の中でそれを眺めていた。




絵:ミステリー表紙イラスト


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