コースをやっていて、何が一番辛いかというと、
一番隠しておきたい自分の内面を見なきゃいけないことだ。
そこにはまったく妥協などない。
自分をいかに綺麗事でごまかそうと、
「はい。これを見ましょうね~」という出来事が起こる。
その出来事を通して、自分の中にどんな信念があるのかをおもい出させられ、
そしてまたその信念の正しさを全うできない自分を見せられることになる。
これはもう、罪の意識がどーんと浮上する。
ある人はそれを目の前にいる兄弟のせいにし、
ある人は自分のせいにして、
感情がお祭り騒ぎする。
そういうことが次々にあからさまになっていくので、
それに耐えきれず、あの分厚い本を「はい。さようなら」と言って本棚の肥やしにする人、ドアのストッパーにする人、別のものに変えてしまう人、枕にして寝ながらにしてあの形而上学が頭に自動的に入ってこないかと画策する人、思いっきりぶん投げる人が続出。(え?私のこと?)
それでも数パーセントの人々が、ぶつぶつ文句を言いながらも帰ってくる。
あらゆる書物の中で、これほど「罪、罪悪感、恐れ」に事細かく言及している書物はない。これを書いた存在は、よほど人間のことをわかっていらっしゃるご様子。これでもかと私たちの心の動きをあからさまに説明してくれる。(余計なお世話だよ!と誰かさんは言う)
コースは「世界はない。罪はない」と言う。
罪が実は存在していないという確固たる教えがその基盤にあるにも関わらず、ここまでそのないはずの罪を徹底的に説明してくるのは、それほどまでに私たちは罪の意識をひた隠しにしているからだ。
その自分が持っている罪悪感を暗~い押し入れの中から引っ張り出してきて、お日様の下に天日干ししないといけない。そうするとあら不思議。闇など光の中であっという間に消える。
だけどなかなかその押入れから出したがらないのは、
私たちはものすごくその罪に魅了されているからなのだ。
小説やお話には必ず闇がある。その闇がなければ物語は始まらないんだもの。
「あるところに王子様とお姫様が住んでいました。二人は仲良く暮らしましたとさ」となったら、
「ハイおしまい」ってなって、物語がまったく続かない。
そこに意地の悪い姑か魔女が出てこない限り、お話は始まらないのだ。
この世界も同じ。闇/罪を見つけてそれに取り組むことで、いつまでもこの世界にいることができる。
だからここから出たいと本気で思うなら、その押入れの中を覗かなきゃならない。
ほんとはそこには何にもないということを知るために。
そのための意志力がいる。
でもその押入れを一人で見なくてもいい。聖霊という心強い助っ人がいる。
頼めばいつでもそこにいる。
トトロの映画のワンシーン。
メイちゃんが暗い部屋の中でうごめくまっくろくろすけを見つけ、両手でパッと捕まえる。
明るい中で両手を開くと、そこには真っ黒いススがあるだけ。
罪とはそんなもの。
無意識の押入れの中に忍ばせてそれを使い続けるのをやめ、
押入れの襖を開け、その中を陽の光にさらせば、
罪は存在していないことに気がつく。
だけど一気に開けるのは怖い。聖霊はそこんところちゃんと分かってる。
日々の出来事の中で小さな赦しを行いつつ、
少しづつ押入れの中に光を入れていこう。
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