愉快を選ぶというのは、単に楽しいことを選ぶということでもない。
なんというか。。。心が恐れのない状態になっているというのだろうか。
真っ白で、よどみがなく、全てがクリアに見えている。。そんな感じ。
先日、国から支援金をたくさんもらった人の話を聞いた。
いいなあ。そんなにもらえて。
聞いた時はその程度だった。
だけどだんだん愉快になってきたのだ。
「そっか。私もやってみよう!」
詳しい友人に今どういう支援金があるのか聞いて、私も動き出した。
彼女は個展の準備に忙しい最中、知ってる限りの情報を与えてくれ、ラインで手取り足取り細かく教えてくれ、いろんな手続きを踏んで、彼女のおかげで申請にまでこぎつけた。本当にありがたい。
その申請手続の書類を集めている最中、私の中にあったある信念に気がついた。
「持っているお金が少ないことは、いけないこと」
「持っているお金が少ないことは、恥ずかしいこと」
そういう信念があったから、私は支援金をもらうことは恥ずかしいことだと思っていた。
ましてやそれに申請をするということは、
私は貧しいということを認めることになるのだと恐れていたのだ。
だから今年に入って、NYから仕事と入金がピタッと止まってしまったことに、
心は恐れ戸惑い、それを見ないようにしていた。
だがその信念があると気付いた時、同時にそれを持つ必要はないことにも気がついた。
私はそこに罪を見ていた。罪だと信じていたから、恐れていたのだ。
だがお金がないことは罪ではない。
お金には、ある方が正しくて、ない方が間違っているという、
なんか知らんが漠然とした解釈がくっついている。
「お金がないのは首がないのと同じ」という言葉があるぐらい(笑)。
ある方が正しいのであれば、じゃあどこまであれば「正しい」のか。
人によって違うだろうが、その上限にはキリがない。
あればあるほど良くて、あればあるほどもっと欲しいし、
あればあったで、今度はそれを誰かに奪われないかと恐れ始める。
「お金」という概念がつれてくる恐怖は計り知れない。
これこそ自我の領域そのもの。
その中に取り込まれていた自分に気がついた。
お金が重要であり、お金に自分が価値を置いている限り、この恐怖から逃れることはない。
いつまでもそのループの中で生きることになる。
私はお金を神にしていた。
お金を神にして信仰していたのだ。
それに気づいた時、とても愉快になった。
私は自分がお金に与えていた信念を赦し取り下げ、聖霊に渡した。
おかしくて、嬉しくて、幸せになった。
支援金の申請も、選挙の一票も、愉快で動いた。
行為は同じでも、この動機はこの世のルールの上に乗っかったものではなかった。
この世のルールは常に変化し、価値とされていたものがある日突然無価値にもなる。
常に揺れ動くものを自分の源とするなら、さながら砂上の城を建てるようなもの。
だからいつも心は不安なのだ。
だけど常にあるもの、不変のものを自分の源とするなら、その源は不動。
揺るぎないものになる。
苦悩は常に変化する具象。
苦痛の中を見ればそこには必ず具体的な何かがある。
その具象を飛び越えて、抽象の形のないものに心が触れた時、
それが愉快に思えたのだろうか。
巷のざわざわしたものをポーンと飛び越えたところにある垂直の流れ。
そこは明るくて軽くて愉快。
そんなところに私はいつもいたい。
絵:「健康と生活」表紙イラスト/エストニア
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