2021年12月1日水曜日

愉快を選ぶその2

 


昨日のつづき


愉快を選ぶというのは、単に楽しいことを選ぶということでもない。


なんというか。。。心が恐れのない状態になっているというのだろうか。

真っ白で、よどみがなく、全てがクリアに見えている。。そんな感じ。



先日、国から支援金をたくさんもらった人の話を聞いた。

いいなあ。そんなにもらえて。

聞いた時はその程度だった。


だけどだんだん愉快になってきたのだ。

「そっか。私もやってみよう!」


詳しい友人に今どういう支援金があるのか聞いて、私も動き出した。

彼女は個展の準備に忙しい最中、知ってる限りの情報を与えてくれ、ラインで手取り足取り細かく教えてくれ、いろんな手続きを踏んで、彼女のおかげで申請にまでこぎつけた。本当にありがたい。



その申請手続の書類を集めている最中、私の中にあったある信念に気がついた。


「持っているお金が少ないことは、いけないこと」

「持っているお金が少ないことは、恥ずかしいこと」


そういう信念があったから、私は支援金をもらうことは恥ずかしいことだと思っていた。

ましてやそれに申請をするということは、

私は貧しいということを認めることになるのだと恐れていたのだ。


だから今年に入って、NYから仕事と入金がピタッと止まってしまったことに、

心は恐れ戸惑い、それを見ないようにしていた。



だがその信念があると気付いた時、同時にそれを持つ必要はないことにも気がついた。


私はそこに罪を見ていた。罪だと信じていたから、恐れていたのだ。

だがお金がないことは罪ではない。


お金には、ある方が正しくて、ない方が間違っているという、

なんか知らんが漠然とした解釈がくっついている。


「お金がないのは首がないのと同じ」という言葉があるぐらい(笑)。



ある方が正しいのであれば、じゃあどこまであれば「正しい」のか。

人によって違うだろうが、その上限にはキリがない。

あればあるほど良くて、あればあるほどもっと欲しいし、

あればあったで、今度はそれを誰かに奪われないかと恐れ始める。


「お金」という概念がつれてくる恐怖は計り知れない。

これこそ自我の領域そのもの。


その中に取り込まれていた自分に気がついた。

お金が重要であり、お金に自分が価値を置いている限り、この恐怖から逃れることはない。

いつまでもそのループの中で生きることになる。


私はお金を神にしていた。

お金を神にして信仰していたのだ。


それに気づいた時、とても愉快になった。

私は自分がお金に与えていた信念を赦し取り下げ、聖霊に渡した。

おかしくて、嬉しくて、幸せになった。





支援金の申請も、選挙の一票も、愉快で動いた。


行為は同じでも、この動機はこの世のルールの上に乗っかったものではなかった。


この世のルールは常に変化し、価値とされていたものがある日突然無価値にもなる。

常に揺れ動くものを自分の源とするなら、さながら砂上の城を建てるようなもの。

だからいつも心は不安なのだ。


だけど常にあるもの、不変のものを自分の源とするなら、その源は不動。

揺るぎないものになる。


苦悩は常に変化する具象。

苦痛の中を見ればそこには必ず具体的な何かがある。

その具象を飛び越えて、抽象の形のないものに心が触れた時、

それが愉快に思えたのだろうか。


巷のざわざわしたものをポーンと飛び越えたところにある垂直の流れ。


そこは明るくて軽くて愉快。

そんなところに私はいつもいたい。





絵:「健康と生活」表紙イラスト/エストニア





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