形象がどれだけ怖いか、意識させられる。
と心が軽くなった。
しかし自我はドッキリがお好き。
私をあっというまに奈落の底に突き落とす。
ある日頼んでおいたままになっている業者さんがうちの家の前にいたので声をかけた。
「あの~どおなりました?結構あれから漏れているんですが。。。」
彼は今すごく忙しいらしく時間が取れないが、今ちょっと見てみましょうと、
サクッとスコップで土を掘り起こし、水道管の場所を探し始めた。
その矢先、スコップ、サクッ、プッシュー!と、見事な噴水が飛び出した。
「あっ。。。」
業者さん、慌てて水道の元を締めに走った。。。。
やっちゃいました。見事に水道管サクッちゃいました(笑)。
「今日はお水。。使えませんかね。。。?」
「いや。直しておきます。。。」
うちの家は古く、業者さんの持ち合わせのパイプの中に同じものが見つからず、ホームセンターに走る業者さん。そのうち冷たい雨は本降りになり、、、、
罪悪感が浮上してきた。
あの時私が声かけなければこんなことにならなかったと。
仮に水道管が治ったとしても、肝心の漏水は治ったわけではない。ただ余計な仕事が増えただけだ。それに今日は寒い。これでむき出しになった水道管が凍って破裂したら最悪の状態になる。
恐れのイメージはどんどん膨らみ、心はドンドン自分を責め始めた。
いかに知覚に囚われているかを思い知らされる。
水が漏れているところをイメージし心は震え
どうにかして漏水が完全に治ることを求める。
形が治ることを欲する。
お金が少ないことはいけないことで、お金が多いことは正しいこと。
老けて見えることはいけないことで、若く見えることが正しいこと。
形象の中にいい悪いがある。
恐れはほとんどが形の中で起こっていることに気づかされる。
形への恐れの始まりはいつだったか思い出した。
それは幼稚園の頃、夜寝る前に見ていた襖に描かれた花瓶の絵。
母は「今日はどれが怖いの?」と聞いてくれる。
「これ。。。。」
「そう、この花瓶が怖いのね」
と言って、その絵の上に四角く切った障子紙を貼り付けてくれた。
しかし明かりが消えた真っ暗な部屋の隅にかけられた濃紺の着物が、
歪んだ大きな顔に見えて、幼い私は布団の中で恐怖に震えていた。
形にはそこに必ずそれに関する観念/解釈/判断がくっついている。
だからそれを見た瞬間、いい悪いという判断が瞬時に下される。
何かを見たとき、ほんの一瞬でも心がちくっとすれば、私はそれに判断を下している。
それだけ形の中で、私はいつも判断して恐怖に震えているのだ。
いくらこの世は幻だと口で言ったところで、
気に入らない出来事が起これば即座に心は自我に引き戻される。
そしてその現象と格闘するのだ。
だが答えは、漏水を直してホッとすることではない。
形の上で解決しても、それが真の解放とは関係がない。
その漏水という現象を通して、
いかに自分がこの幻想の中でそれを本気で信じてそこで深刻に生きており、
この世界をリアルにさせているかに気づくことだ。
それを乗り越えていくのは、私一人ではできない。
自分でやろうとすることは、同じ形象の中で戦うことでしかないのだから。
静けさの中でじっとする。
目の前に手が現れた。
私はその手をとる。
私を あなたの元に 連れて行ってください
0 件のコメント:
コメントを投稿