「いつか歩けるようになったら、私は幸せになれる」
母の言葉がふいに思い出された。
未来のどこかに幸せを設定する私たち。
それは希望の言葉のように聞こえる。
いつかこうなったら、私は幸せ。。。
「これ、私もやっている。。。」
母と同じように私も心のどこかでそう望んでいる自分に気がついた。
いつかこうなってくれたら、私の人生は完璧。
いつかって、いつだろう。。。?
それはある意味、心の平安の保険になる。いつかこうなるだろう。だから今は我慢我慢。
そのかすかな望みを支えに日々苦しみの中で生きる。
時間はいつも今しかない。
未来のどこかに想定することは、一生来ないことを意味している。そしてこうなったら幸せだという信念は、今は幸せではないと宣言していることでもある。
つまり母も私も一生来ない幸せを待ち続けるということになるのだ。。。
それに気づいた時ショックだった。
同時に私は形にとらわれていることに気がついた。
こういう形が幸せの印。
今はこうでない。つまりは今は不幸せだと。
やってこない時間と、叶えられない形。私は二重の不幸のなかにいる。
形を追い求める限り、私に幸せはやってこない。
私は形の中に完璧さを求めていた。
そうじゃなかった。
形の中に答えはないのだ。形は常に変化する。一瞬その形が留められたとしても、次の瞬間また別の形に変わっていく。そうして私はまた不幸の中に埋没していく。この繰り返し。
形などなんの意味もない。
形を追いかけていたから苦しんでいたんだ。
形じゃない。形じゃない。形を見るな!
私はすでに完璧の中にいる、、、!
目の前のものは、ただ流れて変化しているだけのもの。
そこにアイデンティティを持つんじゃない。
この世界には、何の価値もないただ目の前を通り過ぎる変化があるだけだ。
それをただ見ている時、私の中に罪の意識が消えていた。
この罪の意識こそが、この世界にいる人間なのだと思わせるトリックだった。
だから絶えず心に罪を思い起こさせる考えが浮かんでいたのだ。
この世界が絶えず本物だと思い込ませる誘惑。
そして人はその中の主人公になって参加し続ける。
だが私はこの空間の中にいない。
私は人ではなかった。
目の前の形は実在するものではなく、
心に浮かぶ罪を思い起こさせる思考も嘘八百。
その思考によって呼び起こされる感情もまた全くのデタラメ。
それを知るのはとても愉快だ。
この世界を含んだ大きな着ぐるみを脱いだ瞬間があった。
絵:ミステリー表紙イラスト
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