静かに目を覚ます。
心が何も言わない。騒ぎ立てない。
こんな日が来るなんて、夢にも思わなかった。
朝起きた瞬間から、ずっと心の叫びを聞き続けていたからだ。
あれはどうする?
それはどうにかしなければ!
それよりもこれを先に終わらせなきゃいけないだろう!
追い立てられるように起きる。
心の声を落ち着かせるために、ありとあらゆる言い訳を考える。
または一緒になってうろたえる。
それがだんだん静かになっていき、ある時からピタッと聞こえなくなった。
その延長で一日穏やかなままだ。
コースを知らなかったら、私の心は今も騒ぎ立てていたことだろう。
本当に感謝する。
朝起きた瞬間からずっと心の叫びがあったのは、自分の罪悪感から来たものだった。
こうでなければいけないのに、こうでない自分。
たとえどんな小さな罪の意識でも、それは私を罰するための材料にしていた。
自分に罪を(問題)を見つけて、それを罰する。
あるいは、兄弟(他人)に罪を見つけて、それをジャッジする。
実はどちらも同じものだった。
兄弟へのジャッジは、元を正せば自分へのジャッジ。
自分の中に密かにあると信じている罪を自分の中に見たくないので、それを兄弟に見る。
そしてそれを非難することで自分は無罪でいられると信じているだけなのだ。
だが非難して自分は無垢だと信じても、心のどこかで自分を傷つけている。
だから自分を責めていることに変わりはないのだった。
自我は私たちに「お前にも兄弟にも全員に罪がある!」と言い、
そのために罰を与えねば罪は消えないのだという。
そうやって私たちは無意識に自分に苦しみという罰を与えて、
自分が罪から逃れられると信じている。
コースはその自我の力動を説明すると同時に、そんなものはない!と宣言する。
罪など存在しない。
自我など存在しない。
そして世界はない!と。
「この世は幻想だ」という漠然とした教えを、
どうして幻想なのかと畳み掛けるようにこれでもかと説明する。
圧巻の説得力!
しかし単なる知識を頭に入れるレベルではなく、体験を通して知らされる。
日々の生活の中で、自分の考えが次第に変化していくことに驚かされる。
学びは、体験を通さないとわからないことを知った。
それを私のペースに合わせて教えてくる。
これには本当にびっくりする。すぐ近くに何かがいるとしか思えなくなるからだ。
私のすべてを愛をもって見守り、私のペースにあわせて、そっと体験させる。
劇的なものではなく、ほんの一瞬1秒にも満たない瞬間にそれはやってくる。
そしてそのかすかな一歩一歩に、深い理解をうながしてくる。
今も私は神の中にいる。
その心地よさの中で、罪でできた具象の世界にフォーカスしている。
しかしその中にどっぷり巻き込まれていない自分がいる。
そっと目を閉じると、抽象の世界が広がる。
私はそこにいる。
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