ふいに浮かぶ考え。
「今頃、かーちゃんどうしているんだろう。。?」
次に浮かぶイメージは、惨めな姿で生きている母。
心はゾッとして、一気に意気消沈する。
こういう考えは、今まで何億回出てきたことだろう。
あるとき、その考えが出てくるときのパターンが見えた。
なんとそれは、
私が幸せな気分でいるときなのだ。。。!
美味しいものを食べているとき、穏やかな気分の時、お風呂で「極楽極楽」を味わっている時などなど。
そんな幸福感を味わっている時、すかさずやってくる「母のこと」。
とたんにさっきまであった幸せ感があっというまに消え去り、心に罪悪感の風が吹きすさぶ。
ヒュ~ルリ~~~ヒュ~ルリ~ララ~~~
(ここは『越冬つばめ』で歌ってください)
ん?なんかこれはどうもおかしい。。。
何億回もそれを繰り返したのち、その正体にやっと気づく。
そうなのだ。
私は幸せであってはいけないのだ。
幸せを感じてはいけない。なぜなら母のことをほったらかしにしているという大いなる罪がそこにあるのだから!!!
でも何もできない私。。。
その私にまた罪の意識を感じ、罪に罪が重なって、今世紀最大の大悪党にしてしまう。
こうなってくるともう震えが止まらない。
あったかい湯船の中にいるはずの私は、東南アジアではなくオホーツク海に投げ出されたつばめになってしまううう。。。
「私は幸せになってはいけない」
この考えが自分の中にしっかりと居座っていたのだ。
だから幸せを感じたとたんに、「母のこと」を思い出して、幸せをやめさせる。。。!
唖然とした。
こんなことを自分にやっている。
それをやっている意味はなんだ?
罪を思い出し、罪悪感に浸り、自分に罰を与えている。
幸せになるなんてもってのほか。
常に不幸せな気分でいなくてはならない。なぜなら私は罪人だから。
自分の罪の償いは、罰を与えること、不幸せになること。
幸せでないことで、少しでも罪を償えると信じているのだ。
神様。私は不幸という罰を自分で受けます。
だからこれから先、嫌なこと(罰)が起こらないようにしてください、と訴えている。
一体誰にそうしているのか。
自分が作った「罰を与える神」に。
この「罪がある→罰を受ける→無罪放免になる」
という流れは、いつまでも消えることがない。
不幸になって(罰を受けることによって)ホッとする。
また幸せを感じたら自ら不幸になってホッとする。
そしてまた忘れた頃に。。。。。。
というルーティーンをやっていたのだ。何億回も。。。。
これを逆の立場で考えてみる。
私が母にそう思われ続けていたとしたら。。。
私はちっとも嬉しくない!
ってことは彼女にとっても嬉しくないし、迷惑な話だ。いやじつに失敬な話だ。
ようするに、母を使って自分が不幸を演じることによって、
自分の未来の不安からちょっとでも逃れられるかもしれないという、
何ともちょこざいな作戦なのだった。
母かんけーないやん。
美談のように見せかけた猿芝居。
これこそが、自我が私たちにやらせていること。
恐れを抱かせ、幸せを感じさせなくさせている。
私の場合は「母」というキーワードを使って、私に恐れを思い起こさせていた。
人によってそのキーワードは違うだろう。
そのキーワードをふっと耳元で囁くだけでいい。
それだけで一気に気分は恐れと罪悪感に苛まれる。
そうやって自我は、私たちに気づかれないままそこにい続けることができる。
だが気づくことができる。
それは私たちが自我ではないから。
いつも不幸な気分になる時、いつも恐れを抱くパターンに気づく時、
そこにヒントがある。
いつもの恐れに入らなくていいヒントがある。
それは自分で見つけることができる。
その後、
いつものように幸せを感じた瞬間、「母のこと」が頭に浮かんでも、
私はそれに反応しなくなった。
すると猿芝居は雲散霧消し、心を震わせる事もなくなった。
かくして越冬つばめは歌われなくなった。
そうするうち、幸せを感じると、その幸せは持続するようになった。
幸せは幸せを呼び、ますます幸せになっていく。
お風呂の極楽は、ますます上昇する。
自分で自分にかけていた鎖(呪い)は、とっくに外れていた。
かかっていると思い込んでいただけなのだった。
幸せや喜びは、私たちの本質。
めいっぱい受け取っていいのだよ、ワトソン君。