2021年9月26日日曜日

ヒュ〜ルリ〜〜〜ヒュ〜ルリ〜ララ〜〜〜

 


ふいに浮かぶ考え。


「今頃、かーちゃんどうしているんだろう。。?」

次に浮かぶイメージは、惨めな姿で生きている母。

心はゾッとして、一気に意気消沈する。


こういう考えは、今まで何億回出てきたことだろう。

あるとき、その考えが出てくるときのパターンが見えた。


なんとそれは、

私が幸せな気分でいるときなのだ。。。!


美味しいものを食べているとき、穏やかな気分の時、お風呂で「極楽極楽」を味わっている時などなど。

そんな幸福感を味わっている時、すかさずやってくる「母のこと」。

とたんにさっきまであった幸せ感があっというまに消え去り、心に罪悪感の風が吹きすさぶ。

ヒュ~ルリ~~~ヒュ~ルリ~ララ~~~

(ここは『越冬つばめ』で歌ってください)


ん?なんかこれはどうもおかしい。。。

何億回もそれを繰り返したのち、その正体にやっと気づく。


そうなのだ。

私は幸せであってはいけないのだ。

幸せを感じてはいけない。なぜなら母のことをほったらかしにしているという大いなる罪がそこにあるのだから!!!

でも何もできない私。。。

その私にまた罪の意識を感じ、罪に罪が重なって、今世紀最大の大悪党にしてしまう。

こうなってくるともう震えが止まらない。

あったかい湯船の中にいるはずの私は、東南アジアではなくオホーツク海に投げ出されたつばめになってしまううう。。。



「私は幸せになってはいけない」

この考えが自分の中にしっかりと居座っていたのだ。

だから幸せを感じたとたんに、「母のこと」を思い出して、幸せをやめさせる。。。!


唖然とした。

こんなことを自分にやっている。

それをやっている意味はなんだ?



罪を思い出し、罪悪感に浸り、自分に罰を与えている。

幸せになるなんてもってのほか。

常に不幸せな気分でいなくてはならない。なぜなら私は罪人だから。


自分の罪の償いは、罰を与えること、不幸せになること。

幸せでないことで、少しでも罪を償えると信じているのだ。


神様。私は不幸という罰を自分で受けます。

だからこれから先、嫌なこと(罰)が起こらないようにしてください、と訴えている。


一体誰にそうしているのか。

自分が作った「罰を与える神」に。


この「罪がある→罰を受ける→無罪放免になる」

という流れは、いつまでも消えることがない。


不幸になって(罰を受けることによって)ホッとする。

また幸せを感じたら自ら不幸になってホッとする。

そしてまた忘れた頃に。。。。。。


というルーティーンをやっていたのだ。何億回も。。。。



これを逆の立場で考えてみる。

私が母にそう思われ続けていたとしたら。。。

私はちっとも嬉しくない!


ってことは彼女にとっても嬉しくないし、迷惑な話だ。いやじつに失敬な話だ。


ようするに、母を使って自分が不幸を演じることによって、

自分の未来の不安からちょっとでも逃れられるかもしれないという、

何ともちょこざいな作戦なのだった。


母かんけーないやん。

美談のように見せかけた猿芝居。




これこそが、自我が私たちにやらせていること。

恐れを抱かせ、幸せを感じさせなくさせている。

私の場合は「母」というキーワードを使って、私に恐れを思い起こさせていた。

人によってそのキーワードは違うだろう。


そのキーワードをふっと耳元で囁くだけでいい。

それだけで一気に気分は恐れと罪悪感に苛まれる。

そうやって自我は、私たちに気づかれないままそこにい続けることができる。


だが気づくことができる。

それは私たちが自我ではないから。


いつも不幸な気分になる時、いつも恐れを抱くパターンに気づく時、

そこにヒントがある。

いつもの恐れに入らなくていいヒントがある。

それは自分で見つけることができる。





その後、

いつものように幸せを感じた瞬間、「母のこと」が頭に浮かんでも、

私はそれに反応しなくなった。


すると猿芝居は雲散霧消し、心を震わせる事もなくなった。

かくして越冬つばめは歌われなくなった。




そうするうち、幸せを感じると、その幸せは持続するようになった。

幸せは幸せを呼び、ますます幸せになっていく。

お風呂の極楽は、ますます上昇する。


自分で自分にかけていた鎖(呪い)は、とっくに外れていた。

かかっていると思い込んでいただけなのだった。



幸せや喜びは、私たちの本質。

めいっぱい受け取っていいのだよ、ワトソン君。





絵:「居酒屋のつまみを劇的に旨くする技術」表紙イラスト



2021年9月25日土曜日

ニヤニヤする


 


コース/A Course In Miraclesを学ぶ仲間がいる。


それはとてもありがたいことなんだけど、コースの言葉使いは独特で、

言葉の解釈の違いで、会話がずれていくことがある。

相手を否定せず咎めず話そうとするが、だんだんちぐはぐになっていく。


例えば、意識、赦し、罪悪感。

よく使われる用語だが、これがとても難しい。

互いの認識の違いで全くちがう話になってしまう。



昨日もそんな仲間と楽しい時間を過ごして帰ってきたが、

夜中になって苦しくなってきた。


言葉にならない言葉の嵐が私を襲う。

聖霊に聞く。


この苦しさは私が間違った方向を選択しているからだ。

私には何もわかりません。

あなたの見方、考え方を教えてください。


布団の中で小さくなって、吹きすさぶ言葉の嵐に乗らず、ただ耐えていた。



夢を見た。


家の外から、私を大声で何度も呼ぶ声がした。

玄関に出てみると、どこかで会ったような会わないような、でもなぜか知っている女性が立っていた。


彼女は満面の笑顔で私に会いに来てくれていた。

その顔は、会えてよかった!あなたが大好き!と、私を全面的に受け入れてくれている顔だ。

たくさんの人がうちに向かって歩いてくる。その背後には大きなトラック。

野外音楽のステージができるトラックのようだった。

その中からもわらわらと次々にやってくる。


そしてその中で知っている顔を見つける。久しぶりに見たその彼の顔はとても清々しかった。


突然家の中からダンナが走り出てきて、彼をがっちり抱き寄せた。

「よくきてくれた!」

二人のダイレクトな愛の交流にまわりも微笑む。


その後ろに私の知り合いがいっぱいいる。お互い知っているはずのないもの通しが、まるで昔からの友達のように一緒に。

大勢の人に囲まれて、私はこの上なく嬉しくなった。

互いに何も語り合わないのに、とても大きな愛の感覚に満ち溢れていた。


「言葉なんていらないのだ。。!」

と感じた時、昨日会った友達のことを思い出した。


ああそうだ。言葉があるから人はそこに違いを見つけ、その違いで戦い合うのだ。。。!!!





昨日のコーヒーショップでのシーンを思い出した。


ある出来事があって、私は彼女にコーヒーをご馳走になったのだが、ある時からどうしようもなく心が幸せでいっぱいになった。楽しくて嬉しくて、大声で叫びたいくらい彼女のことが大好きだと感じていた。

なぜか言葉は出てこず、私はただただニヤニヤしているだけだった。


夢を通して、そのシーンに繋がった。


コースのゴールは心が幸せになることだ。

その幸せになるための学びなのに、互いの言葉の認識の違いでぎくしゃくしている。

これは本末転倒だ。


こんなことは、コースの学習者の間でよく起こっていることなのではないだろうか。

幸せになるためなのに、その教えの微妙な認識の違いで葛藤を起こし、
逆に関係を悪化させてしまうことなどが。




私たちの本質は喜びだ。

その喜びが自我という厚い雲に覆われて見えなくなっている。その煙幕を少しづつ消していくために日々の実践がある。自我が作り出した大量の言葉を消していくために。


でもそれを訂正し消していくために、その自我が作り出した言葉を使うことになる。いわばもろ刃の剣。

だからこそ、慎重に扱わないといけないんだな。


大事なことを教えてもらった。

本当に兄弟は救世主だ。




言葉が消えた瞬間、私たちは繋がっていることに気づく。

すでにたったひとつの愛であったことを思い出す。

そこに常に触れていたいと思う。




絵:「健康と生活」表紙イラスト






2021年9月22日水曜日

幸せベタ

 


今朝ダンナの前を通り抜ける時、ダンナの口がとんがっているのに気がついた。

あの口の時は、彼の心の中にお茶目な気持ちがある時だ。



この頃彼は、謎の体の症状に心をわずらわされている。

1日のうち、頭の中はほぼそのことに没頭している。

だからいま彼の心はとても泣きべそをかいている。


私たちは、幸せは何かをやったり、何かを得たりして幸せになるもんだと思っている。

だからこそ、常に何かを外に探している。

あれを食べたら、あそこに行ったら、あれを克服したら、私は幸せになるんだって。


だから彼の目下の目的はそれを治すこと!

それに集中しまくっていた。


だけど行かんせん、そう簡単には治ってくれない。

少しでも治る兆しが見えればいいが、うんともすんとも動かない。

今日も今日とて、一人ジトーッとあらぬ方向を見つめていた。


そんな矢先、そのトンガリ口を発見した。


彼は今お茶目な気分になってる。

そんなときは、子供っぽい楽しい気分になっているぞ。



でも彼はそのことに気がついていない。

彼は今喜びの中にいるにも関わらず、それに気がついていなかった。


そうなのだ。

幸せはいつも私たちの中にある。

それなのに幸せを外に求めている。


何かを治したら、何かを得たら、、、。

そうやって、外に聞こえる大きな声を聞いて、意識を外に外に向けて探している。



私たちは幸せベタなのだ。

いつもここにある幸せを見つけることができない。

口をとんがらして、お茶目なことを考えて子供のように喜んでいる自分に気がつかないのだ。


そんな話を彼に振ってみた。


黙って二階に上がっていった彼が、しばらくたって下に降りてきた。


顔が完全にお茶目モードになっている。


「ダーリンちゃん!(私のこと)今日もうんこが出た!幸せだ!

なんだなんだ。いっぱい幸せってあるじゃないか!

嫌なことって、ほんのちょっとだけだ。

それなのにそこにばっかり集中して、オレは不幸になっていた。

ここは幸せだらけじゃないか!」


そういって意気揚々と仕事に出かけて行った。




絵:「森の気配」



2021年9月21日火曜日

どっちでもいい

 


知り合いの絵描きさんから、

近所のカフェで個展をやるというお知らせをもらい出かける。


歩いて30分ほどで着いたら、カフェのオーナーさんに

「あれっ?今帰ったばっかりだよ。会わなかった?」

ここは一本道だから、会わないはずはない。


「じゃあ、バスで帰っちゃったんだね~」

いつもは歩いて帰る人なのに、その日に限って、バスで帰られたようだ。


彼の力みのないゆったりとした絵に感銘を受けながら、しばし静かな時間を過ごした。

私もこんな風に力の抜けた絵を描きたいと思う。


後日いつも行く時間帯に出向いた。

この時間なら彼はきっといるだろうと思ったら、

後からカフェにやってきた、彼のご近所さんだというご婦人たちが、

「今日はお墓まいりに行くって言ってましたよ」

またすれ違い(笑)。


そして昨日、たまたまそのカフェの前を車で通り過ぎると、デッキに彼の姿が。

「あっ!」というと、彼もあっという顔をして目があった。


「止めて止めて!」と運転しているダンナを促したが、

「後ろから車が来ているから無理!」


すぐ後ろに青い車が迫ってた。

狭い道なので脇に寄ることもできず、後ろから押されるように

「あ~~~~~」と言いながら、そのまま通り過ぎてしまった(笑)。


3度もすれ違うってすごくね?

思わず車の中で大笑いをしてしまった。





私たちはいろんな解釈をする。

偶然会えると「いいことがあった」と思うし、

会えないと「残念だ~」と思うし、

その無念さから「日頃の行いが悪いのかな?」と、

まるでバチが当たったかのように解釈もする。


その解釈や判断が、私たちを苦しめる。

そういう判断をできるだけやめていこうと思っている。


判断をするとき、この状況は嫌だという抵抗がある。

すれ違いはいけない事だという判断。そこに罪悪感がある。

それが私たちを苦しめる。


だけどことは起こった。

そのことをそのまま受け止めること、つまり無抵抗であることは力が抜ける。

さらに笑いは、その場を明るくする。


笑いはそのことをそのまま受け止め、深刻さをなくす。

そのまま受け止めるって自由だ。




私はずっと自分の罪悪感に振り回されてきた。


罪悪感を感じることは、実は密かにこんなことを考えている。


自分で自分の罪に対して罪悪感を感じるということで、自らを罰しているのだから、

神様、許してください。

だからもっとひどいことは起こりませんようにと。


私は罪が実在すると信じ、

自分を鞭打ちながら、神様のご機嫌うかがいして生きる。

ほら。私は私を罰してるよ。だから許して。。。


このやり方がいかに自分を小さく弱いものにさせていたことか。


だいたい神は人に罰を与えるのだろうか。

その罰を与える神は、私たちが考えついた、心の狭い怒りを持った神。。

つまり私たちの投影が生み出した偽物の神なのではないか。



罪悪感が自分に与える罰には、何の意味もないと知り始め、

小さな罪悪感から少しづつ、自分を赦していったのだった。



あれではいけない、こうでなければならない、、

そう言い続ける罪悪感だらけの考えが、自分自身を赦すことによって、

罪悪感が消え始め、だんだん心の中が静かになっていく。



そして本当は、

ああでなくても、こうでなくてもよかったのだ。

ほんとはどっちでもいい。

そんなことに気づき始める。


どっちでもよくなかったのは、そこに恐れがあったからなのだった



恐れではなく、愛や喜びを選ぶようになると、

気楽さがふつふつと生まれてくる。


本当の神は、それを私たちに望んでいるのではないか。




絵:「秋の山」




2021年9月17日金曜日

世界は存在し始めた

 


子供の頃、目の前にいる親がハリボテに見えてた。


これは人じゃないと思えて恐ろしくて、よく母の背中に手を回し、彼女の背中を手で感じて

「ああ、これはハリボテじゃなくて、人だあ~。」

と、子供ながらに確認してホッとしたものだった。


その妄想はより膨らみ、ひょっとしたら、そこにあるものを見ているんじゃなくて、

見るからこの世界が瞬時にパッと目の前に現れるんじゃないか?と勘ぐった。


そしてまもなく量子力学を知る。

観察者と観察されるものは一つ。見るから現れる。

そんなアホな学問があるのを知る。


ウケた。

そして同時にほくそ笑んだ。

「やっぱり。。。w」


見るから現れるのは、実は「見たい」からそれを「見る」のだ。


私はこの世界を見たがっていた。

美しいものも、醜いものも、恐ろしいものも、感動的な物語も。。。



だが時々目に入ってくる情報量の多さに圧倒されて、目をつぶる時もあった。

すると一瞬のうちに暗闇になり、心が落ち着いたものだ。


最近耳の聞こえない少年と出会ったり、映画を見たりして音のない世界を思い出した。

その静寂の美しさに圧倒された。



私たちは五感があると思っている。

五感で感じるからこそ、存在するのだと思っている。それが証拠だという。

その五感を疑いもしない。


でも大昔からこの世界は夢だという教えがあった。




小さい時感じた「この世界はハリボテ」感覚。

それは本当なんだったりして。。。?


感覚としてはこんなだ。

目の前に広がっている風景。風景といっても一枚の絵。


実はこれしかなかったりして。


地球の裏側ではとか、銀河系は水星があって土星があって、、とかいうのも「うわさ」でしかない。


だが飛行機に乗って、宇宙に飛んで行って、そこにあることを確認することもできる。

だったらあるじゃないかって話じゃなくて、

見るから現れるとしたら、きっとそこに「見る」だろうから(笑)。


体の中だって、内臓があるだろう。ひらけばそこに「現れる」からだ。


でも今はない。

椅子に座っている(らしい)私の世界には、今目の前に見えるこれしかない。


そこに言葉があり、思考が現れて、その風景に臨場感が増す。


その思考には価値観があり、その価値判断によって、感情が動く。


触れば感覚があり、匂いがあり、味がある。

ますます臨場感が増す。



ほら、ここに世界は存在し始めた。





絵:ダッチバイク


2021年9月15日水曜日

私の中のぬらりひょん

 


今にあるとか、今こことか、今この瞬間に意識を持っていくとか言われる。

けれども私たちはなかなか今にいられない。



先日も電車の中で座っていた。何もすることがないので、

「よし。今にいよう」と、いてみた。


そう思って今にいようとじっとするが、どうも落ち着かない。

ここにいられないような、妙な不快感がある。


「これはなんだろう?」


あ。。。恐れだ。


言葉にもならない恐れのさざ波が、私の心にひたひたと打ち付けていた。

これは自我の思考体系だ。自我は恐れそのものなのだ。






心の中を観察することを続けていくと、

無意識にやっていたことが、だんだん意識されるようになってくる。


そうすると自分がやっている行動のほとんどの動機が、恐れからくることに気づく。

これをやっておかねばならない、こうしとくほうがいい、、、。


その行為は、一見優しさのように見えるものでさえ、自分の保身からきていることにハッとさせられる。

空気を読むこともその一つ。


私には恐れがあるのだ。。。

そう気づくことは、罪悪感を誘発してくるが、そこにはまるのではなく、

その恐れを認めることだ。





わたしたちは小さい時からなんとなく「怖がっちゃいけない」と教わってきた。


それはある意味、動物的な本能に近いのかもしれない。恐れを持つことは死を意味する。

野生動物が自分の弱っている姿を見せると捕食者に喰われるから痛みを見せないように。


そんな動物的な本能が、恐れを自覚することを拒むのかもしれない。

だから自分の中にある恐れを認めないように、見ないようにしてしまうのだ。



だがそれは自我の策略でもある。

「見るなよ。見たらとんでも無いものを見ることになるぞ」と。



しかしそれは全く逆だった。

見ることによって、隠されてきたものが明るみにされる。


恐れがあると自覚することは、押入れの中に隠すことではなく、お日様の下に持ってくること。

闇は光の中に入れてしまえば、あっという間に消える。


光に晒すとは、それを咎めることなく見ること。それは赦すことでもある。



実際、自我がやっていることは、ただ私たちを怯えさせようとしているだけだ。

恐れがあるのではなく、恐れろと吹聴しているだけなのだ。


それは私たちが恐れ、罪悪感を感じてくれればくれるほど、

この世界が実在すると、ますます信じ込ませることができる。





心の中を詳細に見ていくと、絶えず恐れのさざ波があることに気づく。

そのさざ波は個人的な恐れを思い起こさせ、不快感を感じさせ、

それを取り除くために何かしなければいけないという衝動を起こさせる。


それが今にいられない理由だ。

ただじっとしていることさえ私たちにはできない。

だから絶えず何かを見たり、何かを考えたり、何かをすることによって、

この今の不快感から逃げようとするのだ。



賢者はその「今」の秘密を知っている。

本当は今しか実在していないことを。


その実在するものを知るには、

知らん顔して居座っている恐れを認め、赦していくことなのだろう。



自我も恐れも罪悪感も実在していない。

それはさもそこの家の主のように振る舞う妖怪「ぬらりひょん」のようなもの。



私の中にいる「ぬらりひょん」を赦して解放していこう。





絵:「ぬらりひょん」