2010年2月25日木曜日

狭いニッポンそんなに急いでどこへ行く



先日、髪を切った。
シャンプーしていない私の髪をおそるおそるお湯で洗うお姉ちゃん。
「ホントにシャンプーしてないんですかあ?」
「うん。かれこれ11ヶ月」
「え〜〜〜〜。臭くないですかあ?」
「臭い?」と私。
するとクンクンと私の頭の匂いを嗅ぎ、
「うん、ちょっと頭皮の匂いがするけど、そんなににおわない」
「それが私のフェロモンさ」と開き直ると、
「え〜〜〜、かあ〜〜っこいい!」だと。
自分の頭皮の匂いをフェロモンといいはなつ客も客だが、それにかっこいいとこたえる美容師のねえちゃんもすごい。
約1年間も洗っていない髪を切らされる美容師さんもたいへんだ。まあ世の中には変なヤツがいるもんだが、この変なヤツも半年に一回ぐらいしかやって来ないんだから勘弁してもらおう。

でもこれだって思い込みなのだ。江戸時代に毎日シャンプーしていた人がいるか?
現代はなぜか髪はシャンプーしないといけないという思い込みができてしまった。だから私を気持ちの悪い客だと思う。でもこの世がシャンプーしなくてもオッケーってな思い込みだったら、美容師さんはおっかなびっくり私の髪に触れないだろう。
もし世の中が「ウイルスがうつるから、人が人に触れてはいけません」というおふれが出たら、人は触れなくなる。「ふれあい広場」なんて公共事業の広場にそんな名前はつけなくなる。まだこの世は人と人とがふれあってなんぼ的な共通の意識があるからそんな名前も成立するのだ。でもすでに除菌という発想がある。それはそのうち触らない方向に向かう事を暗示している。「袖触れ合うも他生の縁」という粋なことばも「袖触れ合えば多少の菌」という警告のことばに変わってしまうかもしれない(笑いごとではないのだ)。

私は最初は石けんなし生活で、「何だ、石けんっていらないじゃん」っていうか、むしろ人の身体にとって邪魔なものだと気がついた。その後草ぼうぼう畑で、農薬は愚か、肥料さえもいらないじゃん、という事に気がつく。有機肥料もいらないどころか、それが野菜にとって、ひいてはニンゲンにとってマイナスの要因を作っている。植物はすべてのものを土壌から吸い上げる。それは農薬も化学肥料も有機肥料もだ。それをたっぷり蓄えた野菜を私たちは食べている。

その結果、ほんとうはニンゲンも自然もあるがままの姿のままですべてが整うようになっているのではないのか?という発想にいたる。「野人エッセイす」の野人さんが言うように、これからはマイナス思考でいく時代なのだと思う。今まで、あれもあった方がいいんじゃないか、これもあったほうがいいんじゃないか、じゃあ、ついでにこれもこれも必要だと、プラス思考ばっかりでやって来たのが現代人なのではないだろうか。その結果、自然からとおーくかけ離れた姿になってしまった。そのプラス思考のおかげで、心の中はいつも「この菌がコワい、あの人がコワい、この国がコワい」と恐怖で頭が渦巻いている。その結果、心のおしゃべりが止まらないのだ。いつの間にか人は自分の心の牢獄にはまってしまっている。今の世の中の不幸や残虐性を、政治やシステムのせいにしてほうけている場合ではないのだ。外に原因を求めても何も動かない。隣の人の指一つ動かせないんだから。まず自分の中に勝手に作ってしまっている「こうじゃなきゃいけない」という思い込みに気がつく事だ。

ひょっとしたら、現代人は「自由という幻想を与えられた奴隷」なんじゃないだろうか。
一所懸命働くと、おいしいものも食べられるし、いい車も買えるし、一軒家も建てられる。それに第一、人とも差別化を図れるし、ちょっとした優越感にも浸れる。でもそれを維持するためには、いつまでも一所懸命働いてね。という自由だ。眼の前にニンジンをぶら下げられてひた走る馬みたいだ。知らないうちに思い込まされた現代の価値観というニンジンを追いかけてはしり続ける馬車馬だ。人はそれを奴隷と思ってはいない。しかしこれが本当の自由だろうか。自分の意志のもとで働いているんだ、どこが奴隷だと怒られそうだ。でもその動機はどこからくる?モチベーションをくれたものは何?
何の交流もない村の中で生きたなら、そんな発想はなかったはずだ。そのきっかけをくれたのは、メディアじゃないのか。テレビ?雑誌?新聞?インターネット?
このまま目の前の理想の姿を目指してひた走って、その行き着くところはいったいどこなのだ。心の葛藤にさいなまれながら老いて病気になって、まわりに嫌な顔されて、自分で自分も嫌になる。身も心もぼろぼろになるとはこの事だ。

ダンナが言う。
「1日8時間労働はきついよ」
本当に人はそれだけ働かないと生きていけないのか。デザイナーの世界はもっと長い。帰りは毎日終電だ。
「狭いニッポンそんなに急いでどこへ行く」というコピーがうたわれたのは、何年前だったろう。今はその何十倍もの早さで事が進んでいる。

おーい、ニッポン、どこまで行くきだあ?


絵:「モンスター列伝」本田宗一郎

2010年2月20日土曜日

行列のできる畑




ここん所の雪で畑にも顔を出していない。ひさしぶりに行ってみると、鳥の集団に出くわした。ヒヨドリが私の姿を見つけたとたん、わあ〜っとクモの子をちらすように飛び立った。あとにはむざんな野菜の姿が。ブロッコリーの葉っぱはその面影もなく、白菜もあたまをかじられている。青々としたタアサイもかじられていない葉っぱがない。ノラボウは大きくなる途中で全滅。ゆっくり育ったホウレンソウもしっかり味見をされている。特にうまく巻かなかった白菜。これは見事にバラのように広がって、しかも美しい緑色の葉っぱをしていたが、すべて食べられてしまっていた。巻かれた白菜よりもバラのように広がった緑菜(緑色の白菜)の方がお好きらしい。しっかり根元まで食べられていた。しかもそこにはおびただしい糞、糞、糞!ヒヨドリの糞ってでっかいのねん。
これ以上食べられたら私たちの食い分が消えてしまうので、残りのぼろぼろになった白菜をかろうじて収穫。でも少しだけヒヨドリちゃんの分の白菜も残しておいた。

夜、今日の話をダンナにすると、
「そりゃあ、えいもんもらったじゃないか」
「へ?」
「たんまり栄養もらったじゃん」

ああそうか、ヒヨドリの糞だ。そうだ。自然界はニンゲンが手を入れなくても自家栽培をしている。木や草や木の実。ほっておいても自然が豊かに育つのは、その循環だ。草が根っこを枯らしそこに空間が出来る。そこに微生物が住み土壌を豊かにする。時々野生動物がうんこをして有機物を注入。そうやってますます土壌は豊かになっていく。まさにウチの畑は、その自然界の栄養をたんまりもらっちゃったのだ。

「ねえさん、団子うまかったよ。ここにお代をおいておくぜ」
旅人は峠の茶屋で一杯の茶と団子を楽しんで、そこに銭をおいて懐に手をつっこんでまた旅立っていく(木枯し紋次郎か?)。
まさにこれではないか。
「ねえさん、白菜うまかったぜ。ここにお代をおいておくぜ」
そういってヒヨドリはプリッとうんこをおいていくのだ。

峠の茶屋のねえさんはそのお代でまたうまい団子を作り、高尾の畑のねえさんは、そのお代(糞)で、うまい白菜をまた作るのだ。


ありのままの姿とはこういうことをいうにちがいない。
近所の畑は「鳥の被害」を削除するために野菜にビニールや不織布をかける。鳥からはお駄賃がもらえないので、自分で肥料を買って来て自分で入れる。それだけ手間がかかる。だが草ぼうぼう畑は、草や虫や動物たちが持って来てくれる栄養で手間いらず。野菜は自然と同じ方法で根を張り自ら大きくなる。この力はそれを食べるものに、とてつもないエネルギーを与えている。
白菜は元々巻く野菜ではなかったという。本来はバラの花のように広がるのだそうだ。だからあの状態の白菜はうまかったのだ。ヒヨドリはそれを知っている。

食われてしまうのはくやしいけれど、そうやって自然界はプレゼントをおいていく。これを繰り返しながら、きっとますますうまい野菜に育っていくんだろう。
まさに行列のできる畑になるのだ。(動物たちが畑の前で行列作って待ってんのか?)


絵:「モンスター列伝」土光敏夫(こなきじじい)

2010年2月18日木曜日

みんなで渡れば




ニンゲンとしての理想は前回書いた「あるべき姿」だけじゃないとしても、たいがいはそっちの方向にみんなの顔が向いているのは確かである。それはおかしいと思わないか。人は全くそれぞれ違う個性を持っているのに、目指すべき方向が同じとは。
漠然とした一方方向にみんな引っ張られているのは「みんなが言うんだからまちがいない」とか「赤信号みんなで渡ればコワくない」的な心が動いている。
だがみんな個性が違う。個性が違うのに同じ姿を求める不自然さ。
星の形をした人に、四角い箱の中にはまりなさいといっているようなもんだ。とうぜん葛藤が起こる。

「先生、わたしは四角の箱にはまりません」と言うと先生は、
「つくし君、はまらなくて当然だ。君は星の形をしている。だが人生は葛藤の連続なのだよ」
といわれると、そんなもんか、葛藤するのが人生なのかと鵜呑みにしてしまう。で、その四角い箱をじーっとながめて入ろうと、あの手この手を考えるが、やっぱりはまらない自分にイライラするのだ。

昔、ある有名なイラストレーターがこういった。
「絵は描き続けなければいけないんだ。描いて描いて、また描いて。手を止めてはいけない。腕が鈍るのだ。仕事がないときもひたすら描き続ける。そうして自分の絵が出来上がってくるのだ」

純粋無垢な私は、そうか、描いて描いて描き続けなければいけないのだ、と思い込んだ。ところが、いざスケッチブックを前にすると、はて、私は何を描けばいいんだ?と腕組みをする。しかたがないので目の前にあるコーヒーカップを描いてみる。つまらない。花を買って来て描いてみる。でもあの花の美しさはどうにもこうにも私が描いて描けるものではない。そのうち描けない自分にイラだって、私には才能がないんだ、と思い込んでしまう。ところが仕事はそんな才能のない私にやってくる。描きながら「才能がないんだから、私」と思い続ける。暇になると何か描かなければ腕が落ちる、と必死になって描こうとする。でもたいてい1時間でいやになる。ほげーっとしていると、仕事の電話。仕事の絵を描く。また自分の絵が描けない。暇になって、描こうとする。でも30分も続かない。ああ、描き続けなければいけないのにと、もんもんする。
というのが、なんと20年以上続いてしまった。
今頃になってやっと気がつく。別に描き続けなければいけない、なんてことないんじゃないのか?と。彼のように描いてないのに、ここまでこれたのはどーゆーこっちゃ。私は私の描き方があるんじゃないのか?と。やっとだ。今頃。(あほちゃうか)

つまり、有名イラストレーターさんのいうことを、自分の中で勝手に「法律」にしてしまっていたのだ。権威のある人のいうことはまちがいないと。描いて描いて描き続けていれば、彼のようになれると思い込んでいたのだ。でもああいう言い方をしたのは、ひょっとしたら彼は書き続ける事が単に好きだっただけじゃないのか?描いている時間がことのほか快感だっただけなのかもしれない。

近所に絵描きさんがいる。
野生動物の絵を描かせれば、本当にかわいい。彼は写真を見て動物を描けない。山の中に夜寝泊まりをしながら、動物たちを追いかける。その仕草動作を、その目で見てスケッチしないといけないそうだ。絵描きはそうあるべきかな?ともおもう。でも私にはできない。依頼があれば、とっとと写真を見て描いてしまう。それでいいのだ。人それぞれなのだ。彼は山に分け入ってその目でその動物たちを見てその場で生き生きとした姿を描きつける事がことのほか好きなのだ。私は違う、それだけだ。

人は無意識に誰かの模倣をしなければいけないとおもいこんでいないか。それは保険でもある。こうやっていれば、安心。だってそうやって成功した人がいるんだもんと。しかしそれは成功したその人自身から出て来た方法であって、それを別の人がやったからってそうなる決まりはない。私は彼の方法をマネすることによって、自分に保証を与えていただけだった事に気がついた。だがその保証は単に心の安心を与えているだけで、その反面そこに葛藤が始まる。それは自分から生み出された方法ではなかったからだ。むしろその保証は手かせ足かせになっていたのだ。

私ははじめて自分は四角い箱には入らないという事を決めた。星は星のカタチのままでいいのだ。そのまま腕を四方八方に(人迷惑なぐらい)広げて、星たる私を生きるのだ。



絵:「モンスター列伝」/渋沢栄一「千手観音」

2010年2月16日火曜日

脅される教え




「こうしなければ、こうなる」
という考えは、日本人の頭の中でぎっちりつまっている。

「がんばらなければ、試験に落ちる」「がんばらなければ、出世できない」「がんばらなければ、課長に怒られる」「がんばらばければ、仕事にありつけない」「がんばらなければ、病気になる」「がんばらなければ、病気が治らない」「がんばらなければ、女房にきらわれる」「がんばらなければ、子供にバカにされる」「がんばらなければ、まわりに白い目で見られる」「がんばらなければ、がんばれない」(なんじゃそりゃ)
もう、ほとんど強迫観念。「がんばらなければ、病気が治らない」って、病人が何をどうがんばるのじゃ。

これをずーーーーーっと、日本人はやってきている。
そこには、こうしなければ、あなたはとんでもないことになりますよという、条件づけがある。だから何か問題が起こると、「なにかしなければ!」と条件反射のように思ってしまうのだ。

最初に理想の「あるべき姿」があり、がんばらないとその理想の姿になれない。するとあなたは人生の落伍者になるのですよ。それでもいいのですか?
と、脅されているのだ。だれに?さあ。
でもそのあるべき姿は、成功して成功してそのまた先も成功して生きていき続けていかなければいけない、きょーれつにいばらの道なのだ。それはその万に一つの、いや億単位に一つの生き方を無理矢理強要するような教えだと思わないかい?誰もそんな離れ業できない。なのにそれを心のどこかで自分に強要しているのだ。

これではその理想の姿を(無意識に)心に置いて、それと今の自分を比べてしまい、悲観的になるのは当たり前だと思うなあ。
しかもその悲観的な心の状態でずっと居続けるのはむずかしい。だもんでその心のはけ口を人に向けたり、自分をいじめたり、はたまた自分のすごいところを見つけたりするのだ。で、ぶつぶつとおしゃべりがはじまり、ドーダ理論が炸裂し、その悦楽の中に埋没していく。。。。

たぶん、そのあるべき姿ばかりを追い求めるのは、自分の今現実の姿を見ることがコワいのだろうと推測する。自分の今の状況をちらっと横目で見ては、
「はっ!いけない、いけない。あんなものを見てはいけない。ああ、こうならなくちゃ、ああならなくちゃ。。。」とドタバタしているのがホントのところじゃなかろーか。

たしかにがんばってきたから、今の日本がある。それはまちがいないと思う。あっちの国、こっちの国の優れたところを見つけては、追いつけ追い越せでやって来た。けど気がついたら、いろんな意味で一等賞になっちゃっているのよ、日本。ところがビンボー癖が骨の髄までしみこんじゃっているのか、その現実に日本人自身が気がついていない。いつまでたっても遅れているとおもいこんでいる。でも理想の姿の国ってあるべき姿の国ってどこにあるの?みんないいところもあれば悪いところもある。
たぶん、その理想の国はここにあるんじゃないかなあ。もう目指すものは外にはないようにおもうのだ。それは国も、そして個人も。
あるべき姿を追い求めるのではなくて、あるがままの姿をまず見ることが必要だと思うんだな。これは結構勇気がいるぜ。


絵:「モンスター列伝」/児玉誉士夫(妖怪カネナメ)

2010年2月15日月曜日

あるべき姿?




人が心の中でおしゃべりをするとき、その心の後ろには「ニンゲンこうあるべき」という条件のようなものが基準になっている。
「あたしってすごい」のも、すごいなりの何かの基準があるに違いない。悲しいことだって「これが悲しいことだ」という何かの基準がある。傷つくのも、キレるのも、「ほんとはこうあるべき」なことが、違う風になってしまったから、キレるのだ。おしゃべりのうしろには、基準になる何かが常にあるということだ。じゃあ、そのこうあるべき基準とは何?

いい大学に入って、いい会社に就職をして、お給料はいっぱい、いいところのきれいなお嫁さんをもらって、マイホームをもって、子供もいい学校に入れて、家族円満。今のところこういうのが理想の姿とされているだろう。ところがみんながそうなるわけがない。いい大学に入るには受験勉強、他の人よりも成績が抜きん出ないといけない。そこで競争がはじまる。大学に入る人がいれば、入れない人もいる。就職も同じ。勝ち組負け組という言葉も出るほどそこには人生に「成功」する人もいれば「失敗」する人もいる。その成功とはどこかのいい大学に入ることなのだ。たかがどこかの。たかがどこかの、というなかれ。そこには「ニンゲン成功するべき」といういつの間にか刷り込まれた法律があるのだ。ほら、そこに条件付けがある。合格しないといけないし、ビジネス戦争に勝てないといけない。負けると「負け組」というレッテルを貼られる。じゃあ、大学受験にも成功し、ビジネス戦争にも大成功を修めたとしよう。でも奥さんとトラブルになるかもしれない。病気になるかもしれない。するとそこにも条件がある。「ニンゲン元気であるべき」「ニンゲン夫婦円満であるべき」
その「あるべき姿」に自分がならないと、人はジレンマを感じ始める。そしてブツブツとおしゃべりが始まる。「こうであるべき」姿にほど遠い自分。人生に失敗したと思う自分。職場の同僚を見て嫉妬や憎悪が次第にわき起こってくる自分。またそんな自分にも腹が立つ自分。悶々とした気分のまま家に帰れば、素っ気ない子供や奥さんにもムカつく。「あのやろ、俺がいない間に俺のことを粗大ゴミとか子供に吹き込んでいるにちがいない。。。」

ではその「あるべき姿」とはいったいなんなのだ?
「ボクちゃん、いい大学に行って、いいところに就職しなさい。そうすれば、ママはとってもうれしいわ」「今うんとがんばるのよ。するとあとで楽になるのよ。いいことがあるのよ。ママは悪いことは言わないわ。がんばれ。がんばれ」
で、そう言われると、いい大学にいけないと、ママを不幸せにさせてしまうし、がんばらないと、あとで苦しい思いをする。と思ってしまわないだろうか。

そこらへんからすでに洗脳が始まっている。そのママは、「お受験」がいいことだと思っている。がんばればがんばるだけそれなりに進むと思っている。そのアイディアはどこからくる?自分の中から自然に溢れ出るアイディアではないだろうな。きっとどこかで誰かに言われたことだ。「まあ、ケイコさん、マナブ君をお受験させないの?そんなことしたら、ひどい学校にあなたの愛するマナブ君をいかせることになるのよ。そこでいじめに遭うかもしれないわよ。最近は殺人なんかもあるのよ。いいところにいかせるのはあなたの責任よ」とかなんとかいって、脅されたのだ。
そのケイコさんに向かって親切にアドヴァイスしたお友達も、やっぱり誰かにアドヴァイス(脅された)されたのだ。
人を支配するには恐怖で支配するのが一番手っ取り早い。「あなた、こうなるかもしれないわよ」と脅すのがいい。人はその恐怖におののいて、さっさとうごきはじめる。ニュースやコマーシャルがよく使う手だ。「それでいいのですか、あなた。そのうちとんでもない病気になりますよ」とか「地球にやさしくしないと、あなたはニンゲンではありませんよ」とね。
これがホントによく効くんだ、特にまじめな日本人には。


絵:「モンスター列伝」/正力松太郎

2010年2月12日金曜日

おしゃべり、とめますか?




べつに心の中がおしゃべりすることが悪いことではない。その心の仕組みを知ると、その言葉にあおられてドタバタしている自分に気がつく事が大事なのだ。しかもそのドタバタはちっとも意味がなく、ドタバタしようがしまいが、問題の解決にもならず、むしろその解決から「あ~れ~」って、遠ざかる役割をするとすれば、おしゃべりに気がつくことは、無駄じゃないでしょ?

頭の中のおしゃべりは、ものごとをなんでもかんでも大それたことに感じてしまう肥料を与えてしまうのだ。ちっこい問題でも、おしゃべりという化学肥料をかけると、うりゃあ~って、巨大な問題にまで急激に成長してくれるのだ。野菜なら食っちゃえばすむけど、大きな問題にしちゃうと、自分で自分につぶされかねないからね。

傷ついたり、ムカついたり、キレたり、ひきこもったりするのは、ひとえにこのおしゃべりがバクソウしているものと思われる。
誰かに何気なくいわれた言葉にひっかかって、その言葉を繰り返し頭の中で反芻し、
「あのやろ、あんなこといいやがった。ああ、そう言えば、この間もこんなこといわれた。あっ、あんなことも俺様にしやがった。あいつは俺のこと苦しめてややろうと思っているに違いない。ああそうだ、きっとそうだ。あのいつもへらへらしているあの顔は、ひょっとしたらいつも心の中で俺のことバカにしているのかもしれねえ。俺のことをなめていやがるんだ。許せねえ。俺だって黙ってるわけじゃないぞ。今に見てろ、あいつをぎゃふんと言わせてやる。ぶっころしてやる!」とまで発展させる要素を持っている。
その友だちは「おもち、食べる?」って聞いただけかもしれないのに。

おしゃべりの種類は人それぞれまったく違う。私は自分の失敗ばかりを追いかけて反芻してバタバタしている。ある人は、人の悪いところばかりを見ている。あいつのあそこが悪いここがよくないと、色々見つけてはそれを何度も反芻していつもおこっている。またある人は「あたしってすごい」ということばかりをみつけて悦に入る人もいる。

そうやって心の中でおしゃべりをすることを、じつは人は楽しんでいるということなのだ。これは意識もしない間に行われている。人生を苦悩する行為をまさか楽しんでやっているとは誰も思わないだろう。でもそのことに気がつくということが大事なのだ。

もちろん「あたしってすごい」っていうことを見つけるのは楽しいに決まっている。だが自分の失敗をわざわざ見つけるのはつらいことのように思うが、よくよく自分の心理を追っかけてみると、実はそうすることによって楽しんでいる自分に気がつくのだ。自分を嫌悪して監視することで、いい人間であるような気がして安心をする。「ここまで監視しているから、まだだいじょーぶ」と。
社会のことをいつも怒っている人だってそうだ。人の悪いところを探してはムカついている人もそうだ。怒りながら、自分をいつのまにか高みに置くことが出来る。悲しい出来事を見つけては人生を憂いている人だってそうだ。自己憐憫して自分をかわいがることが出来る。この世が怖いと引きこもっている人もそうだ。引きこもれる理由が大義名分によって作られる。

おしゃべりは思考の習慣性であり、心の陶酔なのだ。だがその陶酔によって、知らない間に自分自身の身体を重くしたり、やる気をなくさせたり、あるいはつぶしてしまっているかもしれないのだ。


絵:「モンスター列伝」/井深大

2010年2月9日火曜日

大根ジャングル




去年の秋に「ちょっと遅いかな~」と思いつつ、ムリヤリ蒔いた練馬大根の種。今年の寒さにしっかりやられて、葉っぱが黄色くなって地面に張り付いている。マビキしようと引っ張ってもいつの間にか地面深く根が伸びていて、びくともしない。タイマンな私はそのまま放っておいた。すると隣同士で葉っぱが絡み合い、ひしめき合い、地面一杯に広がった。ぱっとみると、単なる黄色くなった草の畝だ。このままあったかくなってどうなるんだろう?とほっておいたが、昨日好奇心で一本無理矢理引き抜いてみようと思った。

ちょっと土の下をまさぐった。すると大根のまわりに穴があいている。
「げ。モグラでも穴ほったか?」
不安がよぎる。大根にそって下に土を掘り進む。15センチ白いおみ足が出て来た。別にモグラに横っ腹を食われているふうでもない。わたしは両手でむんずと大根の襟元をつかんで、ゆっくりと左に回しながら引き上げる。

ぬけた!全長50センチ。太さ7センチくらいのひょろひょっろ〜っとしたおみ足。大根め。この寒空にもめげず、ゆっくり育っているではないか。かわいいやつ。
私は次の大根ぬきに挑戦。土の中に手を突っ込むと、これまた穴があいている。「あれ〜?ここにもモグラの通り道?」
だがその次の大根の横の土に穴があいているのを知る。だが誰にも食われていない。

実はそれは穴ではなかった。大根のまわりは土でぎっちり一杯ではなく、フワフワとゆるゆるとほろほろになった土でくるまれていたのだ。真綿のような土?そんな感じ。だからこの寒空で雪が降っても、表面は葉っぱで覆い尽くされ冷気を寄せ付けず、また土の下は真綿のようになって、温かさを保っていたのではないだろうか。そしてそのゆるゆるとした空間の中で、これから温かくなるに向けて、思いっきり太ってやろうと密かに企てをしていたのではないか。
そんな大根たちのしたたかさと、自然が作り上げる英知にちょっくらびっくりしたのであった。

図らずもその前日に、近所の農家のおじさんにぼそっといわれた。
「畑は耕さないとな。耕さないと」

でもこんな自然の姿を前にして、耕す必要などあるのだろうか。人が耕したとしても、あれほど柔らかい、真綿よりも柔らかい状態に土を耕すことが出来るだろうか。私は無理だと思う。これはまさに自然が自分たちの子孫を確実に残していくための英知であり、土やその他のものたちとの、まったく人間の考えを超えたところにある大いなる営みなのだ。

虫が食った、鳥が食った、病気になった、と何かが起こったときすぐ何かやらなければいけないと思い込むのが人間。けれどもきっとその虫が食うには、病気になるにはなるだけの理由がそこにあるのだ。これはイケナイこと、と思い込んでいるが、ほんとうは食われたことが悪いわけでも、病気になったことが悪いわけでもないのではないか。食われることによって正常に戻る何かが、そして病気になることによって正常に戻る何かが働いているような気がしてならない。

今、ひさしぶりに胃がいたい。普通なら何かしなければと思う。一般的には胃腸薬飲んでみたりする。しかし身体が痛さによって、何かを教えているとしたら?
身体にしてみたら、
「ちょっとちょっとおー、あんた最近食べ過ぎだよ。あたしがちょっくら今治してんだから、その間食べないでよね」
なんて言えないもんだから、「痛み」でそれを知らせるというのが、身体からのコミュニケーションの伝達法だったりして。痛みを感じれば、人間誰だって「へ?何かある?」と身体のことに気がつく。ある種の緊張感を与えるのだ。「かゆい」ぐらいだったらスルーされちゃうじゃあないか。痛みで危機感をあおっておき、ちょっと緊張して固まっている(本人が)ところで、その間にせっせと治す作業に入る。
だとしたら、そのまま身体にまかせて治してもらっているのが一番いい方法なのではないだろうか。

人間はそんなに弱くない。今まで何百万年も生きて来たのだ。その身体の機能は自然のそれとまったく同じなのでないのか。人間がよけいなこと考えて心配してお馬鹿なことばっかりするから、
「あ〜あ、また治さなきゃイケナイじゃん。もお〜」
とその度ごとに、せっせこせっせこと人間が蒔いた問題の種をだま〜って、調節してくれているのではないだろうか。

そう思うと、人間がやることは
「ありがとう、野菜さん。ありがとう、身体さん。よろしくね」
と、心から思うことだけでいいんじゃないかと思うのであった。


絵:「モンスター列伝」中内功

2010年2月6日土曜日

おしゃべり、してますか?




あなたは頭ん中がおしゃべりしてますか?
一人で勝手におしゃべりしてますか?それを意識的に止めてみたことありますか?

まず、たいていは自分がおしゃべりしていることに気がついてない。それもひっきりなしに。
「そんなことはない」というあなた、試しにいっぺん自分の頭の中の声をじっとだまって聞いてみそ。するとでてくるでてくるありんこの行列のよう。空を見ては「いい天気だな」といい、歩いている人を見ては「変なおばさん」といい、ニュースを聞いては「あの政治家はあーだこーだ」と言い、ダンナのおならを聞いては「このくそオヤジ」といい、しゃべり続ける内容が見当たらなくなると、今度は歌を歌い出す始末。

何かに夢中になると無心になるというではないか。じゃ絵を描いているとき無心になるかと思いきや、さにあらず。ひたすらしゃべり続けている。(つまり夢中になっていないと言うことか)なにをそんなにしゃべることがあるのか。そのしゃべっている内容とはこれまた下らんことばかりなのだ。そこまでしゃべっているんだから、ちったあ頭が良くなっているかと思う。でもなっているとは思えない。いっぺん意識すると、どんだけ~ってぐらい頭の中は言葉だらけなのだ。

よーく観察してみると、ある種のパターンの言葉があるのに気がつく。それは人によってまったく違う。
私の場合は、
「ヤべえ」
「せんといかん(しなければいけない)」
「しまった」
「がんばれ、つくしちゃん」
そんな種類の言葉であふれている。よく考えたら、そんな言葉ばっかりしゃべっていて、頭が良くなるわけがないではないか。頭がよくなるっちゅうのんは、もっと知的な内容を考えてこそだ。「ヤベエ」は知的ではない。つまりだらだらと垂れ流しのように言葉が出て来ているのだ。べつに「考えている」わけではないのだ。ではなぜ人は垂れ流しのように言葉をしゃべっているのか。
どうもおしゃべりすることで、自分を確認しているようなのだな。自分と言う存在を。

試しにしゃべるのをやめてみる。私は息止めるみたいに「ふんむっ!」って止めないと止まらない。ま、止められるのはせいぜい5秒ぐらいだな。でも秒数数えているから、やっぱししゃべっている(笑)。
こうやってひっきりなしに心の中でしゃべっていると、自然とその人の性格に影響を与えているのではないだろうか。で、そのしゃべっている内容にある種のパターン、つまり何度も繰り返し語られている言葉があるとしたら、それがその人のだいたいの性格をあらわしているといえる。

私は自分のパターンの言葉を観察した。「ヤバい」「せんといかん」「しまった」は、自分がやった行為、又はやらなかった行為に対しておっかなびっくり反応をしているようだ。そして後悔をしている。で、「がんばれ、つくしちゃん」は、その後悔をしたことに動揺して、ナントカ気を静めたり、落ち込んだ自分を奮起するように自分に発破をかけているのだ。最初にびくっとする反応がある。そしてそれを解決する方法をがんばれと自分に言い聞かせることで解決(?)へと導いている。しかしいつのまにかそれをいうことによって、問題がおさまった気になっているだけで、また同じことをするのだ。それはいわば、繰り返しからくる一種の酔っぱらい、又は快楽の瞬間。そう言ったことで自分の心が落ち着いて納得をしていると言う気になっているだけで、行った行為への解決にはなっていない。だからまた同じお馬鹿な行為を繰り返してしまうのだ。
つまりおしゃべりは、ある種の快楽なのだ。


絵:モンスター列伝「松下幸之助」/花咲かじじい

2010年2月4日木曜日

変わること




インターネットは実に面白い。
いろいろさぐると、世界で報道されているニュースが、日本のテレビで言っている事と内容がかけ離れていたり、まったく正反対の事を言っていたり、又は、世界的な大事なニュースもまったくスルーされていたりすることがわかる。インターネットの情報がすべて正しいわけではない。むしろ多いに間違っているだろう。しかしその両者を引いて見ても、日本のテレビは何かおかしい。
そういうことに対して、ネット上では大いに怒り、なじり、嫌みを言う。この世界を変えなければイケナイのだ。今こそチェンジなのだ!と。

そういうものを見るとだいたい二つに分かれる。
1:政治や世の中のシステムに対して戦う。デモを決行する。意見を言う。
2:やっても同じ穴のムジナ。反抗すればそれこそ、向こうの思うつぼ。だからなにもしない。

ここまでは今まで世の中に対して行うよくあるパターン。
んで、最近は、政治的な事と、スピリチュアルがくっついたアイディアもある。

3:この世はあなたの心の現れたもの、戦争が起こるのもあなたの心の中にあるものが現れているのだ。だからあなたが変われば世界は変わるのだ。
と、いうもの。

人を変えるのは難しい。
「君、左向け」といっても、人はそう簡単に左に向いてくれない。ところが「私、左向け」といえば、「はい」と素直に左に向いてくれるのだ。なんて簡単なのだ。自分さえ変わればいいのだ。自分が平和的になれば、世界は平和になるのだ。なんで今まで気がつかなかったのだ。ああ、そうだ。私が変わればいいんだ!バンザイ!これですべて解決だ!
と、よろこんでいる。そして日々、おだやか〜に、人にやさしく生きてみる。ところがいつまでたっても世の中は変わらない。だんだんイライラしてくる。「おかしいな。なんで世の中は変わらないんだ?おれがこんなに平和な気持ちになっているのに」と思い始め、そのうち性格が前と変わらなくなってくる。
というか、はじめっから何も変わっちゃいない。ただ、人にやさしいフリをしただけだ。フリなもんだから、いつまでも長続きしない。しまいにこうしなきゃああしなきゃと言う強迫観念になって来て、そうなれない自分にいらだち、自分が嫌いになり、落ち込んじゃって、そのうち「こうなったのも世の中のせいだ」と思い始める。んで、どこかで天変地異が起こればいいとか、こんな世の中なくなっちまえばいいとか思い、そのはけ口をネットではらす。
今の人々の心はこんな感じなのではないだろうか。


自分を変える?変えればいいだけの事だ?んなの、とっくに言われている事だ。それはずーーーーーーーーーーっと、何千年何万年も前からあらゆる教典にズーーーーッとそのための方法論を書き込まれて来たのだ。なのに何ーーーーんにも変わってないのだ。

自分が変わること。
そっからがいっちばん大変な事なのだ。私ら人類は、たった一人の自分さえも操れないのだ。一番厄介なもの「自分」をかかえこんでいるのだ。その問題を見ないで、世の中のシステムをいくら変えても、やがて同じ問題に突き当たる。それは未熟な人間が作り上げたシステムだからだ。出来上がったところから、大いに矛盾をはらんでいる。

インターネットで知らされる内容と、テレビの内容が違う事を見るにつけ、その大きなこの世の矛盾を「はっは〜ん、全然違う事言ってるじゃん」と冷静に見る事ができる。そういう意味でこの情報公開は面白い現実を人間に突きつけてくれる。あらゆる情報は正しくない。視点によって見え方は変わる。
だがそんなものなのだ。人間は主観で生きている。ジャーナリストが言う事が「正しい」はずはない。すべてはその人のその立場で視点でものを見るからだ。「正しい」とはなんだ?こっちから見れば正しく見えるものも、あっちから見れば正しくない。ということは、いくらこの世の矛盾をつこうが、システムの問題を追及しようが、人間自身が生きる事を解き放ってくれる環境は、外からは作れないと言う事なのだ。ゲームで脳のトレーニングをして活性化させようと、マシーンで電気ショックをあてようと、黒酢のサプリを飲もうと、健康茶を飲もうと、解放されないのだ。

自分が変われるただ一つの方法は、自分の内がわを見るということ。「なんだ、そんなこと」っていう?これがねー、すごいことなのだ。ちょー地味でありながら、ちょーおもしろい。それは誰に聴くでもなく、セミナーに通うことでもない。まったく超個人的な行動。外にはもう何も求められない。もう外を青い鳥を追いかけて、ぷらぷら旅に出ているばやいではないのだ。外に自分が探す鳥はいない。
自分が自分の声に耳を傾ける。自分が何をしゃべっているのか、何を見たとき、どう感じているのか、どう歩いているのか、どう人を見ているのか。自分というものを、これはいいとか悪いとか言う判断を下すのではなく、たんたんと観察する。
どうやらそこにすべての秘密があるようなのだ。


絵:「この列車がすごい!」メディアファクトリー新書表紙/好評発売中!

2010年2月2日火曜日

シン。。。




昨日夜から高尾は雨から雪に変わって、夜中降っていたもよう。朝起きると美しい光景が広がっていた。今朝の8時。雪はすべての音を消してしまう。風もぴくりとも吹かない。あたりはシンとしずまりかえっている。時々野鳥がピーッと鳴く。それだけが、この世がまだ存在している感覚を呼び戻してくれる。

生まれてから、たった一度だけ、音がない世界に入った事がある。それはアメリカの西に位置するデスバレーにいったときの事だ。デスバレーはスタートレックの火星として撮影されていたくらい不思議な場所。地球とは思えないような砂だらけの場所、塩が固まってとげとげになった悪魔のゴルフコースと呼ばれる場所、ベイントロックと言われる色とりどり岩が広がる場所。でも中でも圧巻なのは「The Racetrack」と言う場所。ここは悪魔のゴルフコースと違ってまったくマイナーなところ。ほとんど誰も行かない。しかもそこにいくには、ぼっこぼこの悪道路を車を延々と走らせなければいけない。私はそこの写真を見たとき、行きたいと思った。

ラスベガスで、デュランゴというでっかいアメ車を借りて、その地へひた走る。
その場所は元々沼地だったのではないだろうか。延々と広がる真っ平らな大地。からからに乾いてひび割れた美しい模様が広がる。その上を何個かの小さな小石がぽつんぽつんと存在している。その石たちは自分で好き勝手に移動したらしい。その移動のあとが、浅い溝のみちになって彼らのあとに続いている。あるものはまっすぐ、あるものは途中でカクンと折れる。たぶん気分を変えたかったのだ。不思議な事に、みんな思い思いの方向に向かって進んでいる。風で吹かれて動かされたのか?石が風で動く?では方向がバラバラなのはなぜだ?
いったいどうやって移動したのか、地質学者にも今もって判らないそうだ。
でもふと思った。かつてそこは湖か沼地だったころに、誰かが遊んで泳ぎながら転がしたのではないか。だが、何の生物の痕跡もない場所で、いったい誰が?


そこに立ったとき、私は啞然とした。
そこは生命の息吹も何一つ感じられない、まったく音の存在しない場所だったのだ。風もぴくりとも吹かない。空気が動かない。私の耳は無意識に何かの音を探していた。しかしそこでは自分の心臓の音さえも聞こえなかった。
私はまっすぐ中心に向かって歩いていった。真っ平らな大地のど真ん中にまっくろい岩が一つ鎮座していた。まるで「私がここの持ち主だ」といわんばかりに。その岩にさわってみる。やわらかであたたかかった。その岩に腰掛けながら、ここはインディアンの聖地なのだろうと感じた。
と、私はいきなり地面に張り付きたくなった。そのまま地面に転がった。
何の音も聞こえない。心は不安になるのかと思いきや、言葉にならないあたたかいものにつつまれていた。私はそのなんとも言えない心の高揚を押さえる事ができなかった。だがどうやってそれを表現していいのかわからない。ただそのなにかを感じるままに、時間の経つのを忘れていた。
人は自分の外に対象物を見つけたとたん、自分とそれを分裂させるのではないだろうか。音のない世界に入った私は、自分と何かを分裂させるための対象物を見つけられなかった。そして、私は自分が消えていくのを感じた。はたして自分は人間なのか、それともその場所そのものなのか。。。
私は本当にここにいるのか?ゴロゴロとその場で転がってみる。まるで自分の存在を確かめるかのように。

人は五感でこの世を感じる。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。しかしこの場所で感じたものは、五感以外の別の感覚を使っている。それこそが、まさに第六感目なのではないのか?「シックスセンス」と言う映画があったが、第六感はなにもお化けを見る事だけじゃない。それも含まれる、もっと大きなものなのだ。周波数で行くともっと高い振動で回転しているなにかなのだ。それを感じ取る嗅覚が人間には備わっていると確信する。それは「ほら、なにかいつもとちがう空気感じゃない?」とか「きもちいいねえ〜。なんともいえないねえ」とか「ここ、いやだわ」とかいう、理屈じゃない何か。それは決して、言葉にはならないものなのだ。

シン。。。。という音のない世界では、聴覚が使えない。だがそのもっと奥にある何かを人間は感じ取る。それは自分と対象物の境を取り払う感覚なのかもしれない。五感はまさに物質的世界を司る感覚器官。その感覚は自分と対象物を違うものだと分け隔てる。
しかし実は人間はそれ以上の感覚を使って今この瞬間も生きているのだとおもう。物質だけではないものをすでに感じながら。それはずっと前から知っている感覚なのだ。


絵:「けんぽ」表紙/節分