2012年1月30日月曜日

それ、図星

他人に何か言われて、ドキっとしたり、動揺したり、このやろーとおもったりするのは、それが図星なのだ。

動揺するから「あのやろー、あんなこといいやがった、ゆるせねえ」となる。かくしてそのときから、その相手の事を心の中であーだこーだといいがかりをつける。相手には聞こえてないのに。

相手に聞こえてないのに、心でいいがかリをつけてもしょーがないじゃないか。効き目全くなし。しかし気がついたら、心の中で延々とやっている。
なんでや?
ようは自分が自分を納得させたいのだ。
なんでや?
動揺してるから。
なんでや?
それ、図星だったから。その図星を認めたくないのだ。

その動揺をなんとか止めたい。だからあのヤロこのヤロと言い続けて相手を罵倒し、自分は悪くない、相手が悪いのだ。あんな事言うあいつが悪いのだ、と、自分を正当化しようとしているだけだ。

でも最初の発端は、図星な事言われた、というだけなのであった。

「こっ、、、ここは人には見られてねえよなあ。バレてねえよなあ」
とひた隠しにしている事が、
「あなたはこうですよね」なんていわれて、
「ばっ、、、ばれてる!」
とあせった。もしくは、それも意識にのぼっていないくらいなんだが、なにか、こう、感情にひっかかることをいわれたのだ。
もし見当はずれな事を言われていたなら「へ?」で終わりなのだ。
だけど引っかかるっちゅうことは、そこになにかあるっちゅうことなのだ。

認めちゃえばいいのだ。ああ、私はそうなのだな。そんなところがあるな。とその部分を静かに認めればいいだけのことなのだ。
「お前に言われたくない」というプライドが自分を苦しくさせる。苦しいからそこから逃げようとする。でもどっちみち逃げ切れない。だってそれ自分だもん。相手から逃げる事じゃない。

静かに自分を見る。
言われた部分をジッと観察する。恥ずかしいけどそこから逃げない。ガマンするのはそこだけだ。その感情が震える中にとどまる。相手を罵倒しない。自分の感情だけを見る。
すると、何かがすーっとほどけてくる。なんだ、そんなに重要な事じゃなかったんだ。そうか、ここか、そういう事だったんだ。なら次から気をつけよう。そんなふうになってくる。そこには他人への非難も、自分への非難もない。

他人は、自分が傷つくためにいるんじゃない。
自分に気がつくために、他人がいるんだ。

2012年1月28日土曜日

今を生きる

今朝、ここら辺は揺れました。
「ひゃあ〜、ついにきたか!?」
ズズズズ〜〜〜ン、という地響きと揺れ。お、これは近い。富士山辺りだな。テレビつけると、山梨県東部。ここらは地続きだから直接感じるのだ。


さて、そんな「今を生きる」。
よく聞く言葉だ。使い慣れた使い古された言葉だ。
刹那を生きるともいう。
この刹那とは、0.75秒くらいの時間のことだそうな。その一瞬一瞬を生きるという。
しかしこの刹那(せつな)は、なんとなく、せつない、という言葉ににてるから、刹那に生きるとは、なんとな〜く、せつなく生きる、なんてニュアンスで受け取られて、生きるって、せつないことよねえ〜、なんてふうになる。

ま、それはさておき、今を生きるってだいじなことよねえとおもうんだが、さて、心の中は今を生きてるんだろうか。
じつはほとんど、過去と未来で満たされているんじゃないだろうか。
心はいつも何かを考えようと探している。何か自分にマイブームな事。

例えば心配事。
あれが心配、と思っている思考は、過去にその心配事が起ったか、聞いた事がある、知っている。これ、すでに知っている事だから過去。そして心配しているその心は、未来にその心配事が起ったらどーしよー、と思考している。これからおこる可能性の事、つまり未来。

さっき地震があった。
311の再来じゃないか!?なんて心配する。ほら、過去と未来。今を生きてはいない。今は?地震はない。それだけだ。だが、心は何かいつもつかんでいようとする。なぜか。
手持ち無沙汰だから。

しばらく地震の事で心配すると、だんだん飽きてきて、いつも考えているマイブーム心配事に移行する。。。。。
おい、いつ今を生きてるんじゃあー!

例えば楽しかった事。
「あ、あったあった。楽しかった事。ディズニーランド楽しかったなあ。また行きたいなあ。行くためにはお金がいるなあ。あ、行くお金ない。。。やばい。仕事しないと。し、仕事探さないと。。。。私このまま仕事なくなったらどーする?路頭に迷う。ああ、ホームレス。。。いやだ。いっ、いやだ。あんな姿になるなんて。。」
楽しかった事も過去。過去を未来に再現しようとする。再現のために何かしようとする。結局、過去に見聞きした事を思い出し、未来を喜んだりうれいたりして、いそがしい。
おいっ、いつ今を生きてるんじゃあー!

心はいつもなんかを探している。
心が空っぽになると不安になるので、なんかないかと探す。でも知っている事しか知らないので、結局過去の事ばっかりしか思い出さない。すると心は過去を思い出しては未来を想定するというベルトコンベアーに乗る。

結果、心の中はほとんど過去と未来でいっぱいになって、現在がちょろしかないことになる。
とゆーことはなにか。今を生きるって、あほになれっちゅことかいの。

そっ、そーかもしれん。

2012年1月23日月曜日

人間は肉食?菜食?

やまんばが石けんなしで多大なる影響を受けた野人さんは、
「人間は肉食動物だから、野菜なんぞクワンでよろしい」
という(細かい理論はわすれたが、おおすじにおいてそーゆーことらしい)。

んで、インボーロンものを翻訳しておられるタメキヨさんは、
「人間、肉など食ってはいかん。ケンコー的な野菜を食って、科学的なもんなど口に入れてはいかんし、科学的なもんを身体に取り込んでもいかん」
とおっしゃられる。

どっちも健康そうなお二人である(笑)。

野人さんもタメキヨさんのブログもとーっても参考になって、やまんばが大好きなお二人であるが、ここまで正反対の意見をいただくと、どっちがいいねん!といいたくなる。
んでやまんばは、このまっぷたつに割れる意見を、足して二で割ったなら(なんでやねん)、ようするにどっちでもええっちゅうことかいの、と推測するわけである。


物質の中を分解すると、原子があって、その中心に原子核があって、そのまわりを数個の陽子とか、中性子とかのちっこいもんがぐるぐる回っているらしい。(くわしいことはわからんが、そーゆーあたりらしい)ほんでその回ってる空間というのがものすごーく広く、実はその原子のほとんどの面積を占めていて、それがぎゅーっと集まって物質になっているから、もともと物質というものはほとんどからっぽらしい。
と、ゆーことは、肉食っても、野菜食っても、ほとんどからっぽなもんを食っているという事だ。でも、食えば腹は満たされるわけだ。なんでや?人間は空気を食って腹を腫らせているという事か。


ちっちゃい時から「飯を食わんと死ぬぞ」といわれてきたわけだ。「水は2日飲まないと死ぬぞ」と教えられて来たわけだ。
だから飲んで食う。それだけなんじゃないか?
ひょっとしたら、食わんでも生きられるんかもしれん。現に仙人はかすみ食って生きてるし(そこじゃねえだろ)。

ようするに、心が満たされるんじゃないだろか。
「食べると生きられる」という信心と、「これが身体にイイ」という信心が合体すると、「ああ、私ってケンコー的」と、心が満たされる。これが一番重要なポイントじゃないだろか。物質的な事よりも、心が身体に影響をあたえているのだ。

物質の中の原子核や陽子以外の空間の部分は、ひょっとしたら思考や精神や信心や心が占めているんではないだろか。

と、すると、野人さんのように肉食でも生きられるし、タメキヨさんのように菜食でも生きられるのだ。

人間は臨機応変なのだ。

2012年1月21日土曜日

その場でぼてっと落ちて子孫繁栄

寒空の中、秋ジャガイモをほりおこした。
秋ジャガを育てるのは難しいらしい。夏に植えておいたのだが、案の定、種芋もそのままに、横にちっこいちっこい新ジャガが2個くっついているなどの、情けなーい結果に。

ちっこいイモは毒だとか言われるので、食わずにそのまま種芋にしちゃえ!で、収穫ほとんどゼロ。夏に入れた種芋も腐る事なくそのまんまの姿でいるので、それも突っ込んでおく事にする。(単に種芋増やしただけだ)

里芋も畑全部にフェンスを張り巡らしたおかげか、それともイノちゃんの興味をそそらないイモだったのか、被害はなかった。でもほんとに興味をそそられたら、奴らは身体を張ってフェンスを突き破ってくる。が、それもなし。
「くんくん。ふっ、なんだちっこいイモしかついてねえじゃねえか。そんなもののためにオレ様はリスキーな事はしないんだぜ」と無視されたか。

里芋もちっこいのんがぽろぽろついているだけだったが、聞く所によると、親イモをそのまま種芋にするとおっきいイモが出来る(!)という話。いやしいやまんばは、その手を使う事に。里芋をほりおこすたびに、小イモ(子イモじゃなくてちっこいイモ)だけ収穫。残りの親イモは、そのまま上下を逆さまにして同じ穴に突っ込んだ。

えびイモとか京イモとか呼ばれるヤツも植えておいたんだが、超ちっこいのんがくっついていいるだけ。だもんで、なかったことにして、そのまんまにしておく。2年越しのえびイモは果たしてどーなるのか、実験。

畑のあっちこっちからジャガイモが出来る。かつてそこでジャガイモを作ってあったところだ。多分掘り忘れたちっこいこぼれイモからでているようす。だがそのイモの方が、新たに植えた秋ジャガイモより収穫が多いのだ。
これって連作じゃねえか!連作の方が収穫が多い?土寄せもされず、いる事さえ無視されて、ほったらかされたジャガイモちゃん。なぜにそっちがわんさか出来る?
「お〜い、わたし、ここにいるよ〜!」と、うったえているのか?
いやいや、そーやってそだてた(?ちがうだろ)ほうが、いっぱい出来るんだぜ、と教えてくれているのかもしれん。

考えたら、植物は自ら種を飛ばして移動するものと、そこでぼてっと落ちておっきくなるものがある。鳥さんやリスさんに運んでもらう手もある。
しかし、大根や小松菜など畑の野菜の種は、あんまり鳥さんやリスさんに運んでもらう種じゃない。と、いうことは、その場でぼてっと落ちて、またはその土の中で移動もせず、育つことが出来て子孫を繁栄する事が出来るってことじゃねえだろか。

たんじゅん農法の林さんはいう。
「何でも連作していいが、豆類だけは連作するな」
豆はハトが大好きだ。豆は移動する手段を持っている。
と、いうことは、基本「あたし連作きらい」ってことじゃないだろうか。

おお、豆以外、連作しまくるどー!

(あれ?落花生はどーなる?あれは地面の中に出来るから鳥には食われん。という事は、連作できるのか。いや、モグラが持っていく?モグラさん、落花生好き?)

2012年1月18日水曜日

ジョーシキを疑え

石けんなくても生きられる。肥料なしでも野菜は育つ。

そんなことを体験してくると、世の中のジョーシキを疑いはじめちゃうのだ。必要必要と言われているもの、こうしなきゃいけないと言われているのも、ほんとにそーなのか。

暴飲暴食はダメ、肉食はダメ、酒タバコはダメ、甘いものはダメ、合成保存料はダメ、合成着色料もダメ。
しちゃあいけないのに、やっちゃうから、ほら、あんた病気になった、といわれる。
だけど目の前に肉汁したたる焼肉をうまそーに食うシーンを連日見せつけられる。新聞の折り込みにも雑誌の広告にもうまそーなもの、心奪われるものを山ほど見せつけておいて
「あんた、こーんなもの食っちゃったら、とんでもないですよ」
と後ろからささやかれる。これは馬の前にぶら下げられたニンジン状態。ストレスはたまる一方。

食え食え、ほらもっと食え、といいつつ、早期発見早期治療という。
その誘惑に負けて食べて、メタボ検診にいくと「はい、メタボです」といわれる。「ほかにこんなのが見つかりました」と見せられる。「はい、あなたは病気です」とくる。
なんかベルトコンベヤーに乗せられてないか?

ああ、オレは酒飲み過ぎたから病気になったんだとか、ああ、タバコ吸い過ぎたから肺がんになったんだと思い込む。けど私の友だちはタバコは一切やらないのに最近肺がんになった。彼女は30年前にちょこっといっとき吸ったタバコが原因だと言う。ほんとかなあ。。。

そう思い込まされているだけなんじゃないか。あれが悪いこれが悪い。止めときゃいいのにやっちゃったから、ああ、やっぱしそーなった。。。
と、おもいこまされてるんじゃねえのかい。

そのおろおろ、イライラ、どきどき、するその動揺がストレスを生んで病気を作っちゃうんじゃねえか?
だいたいそのおろおろ、どきどきさせられるのは、「こーしろ、あーしろ」「そうしないとあんた、どーなっても知らんでえ。そのうち病気になるでえ」と脅されて来たからなんじゃないか?


病気は物質的な原因というよりは、もっとその動揺している「心」に原因があるんではないかとおもうのだ。

その動揺させる原因は、この世のジョーシキ、
こうあるべき、
理想の姿、
理想の食事、
理想のダンナ、
理想の仕事、
理想の人生のカタチ、
そんなガッチリ組み込まれた条件づけと、目の前に存在している現実の自分の姿を比べて作られる葛藤なのだ。

では、そのジョーシキは絶対的に正しいのか?
そのジョーシキに全員が合わせなくてはいけない法律でもあるのか?

2012年1月17日火曜日

老いてけ堀


ちいさいとき、親に「年いくことは悪いことなんだよ」
なんて教わった事あった?
ない。

ないのにもかかわらず、なんだか年がいくこと、老いることはいけないことのようなニュアンスがある。私たちの心の中にもバッチリ「年だけは取りたくない」という思いがヘドロのように横たわっている。

コマーシャルは歌う「マイナス5才肌」「いつまでも若々しく」
こーゆーコトバがあちこちに溢れていて、老いることはいいこと、と思っている人はあんましいないだろう。
このやまんば、実は日頃「早く年いきた~い。おばあちゃんになりた~い。もっと白髪が増えて欲しー」というほど年いくことに憧れたのに、いざ自分が年いったという実感をしてしまうとうろたえた。

れーせーにかんがえたら、だれだって年がいって老いて死ぬ。100%みんな死ぬ。みんな老いていく。その事実を知っているくせに「年だけは取りたくない」という。そんなむちゃな。
そのむちゃさが、現実と理想のギャップを作り、人に焦りをもたらす。
だいたいなんで年いくことは当たり前の事なのに、なぜそれを認めようとしないのか。


もしも世の中が「老いるってすてきなことよね」と認識されていたらどうなっただろうか。シワが出来ると「あっ!アタシ、ついにシワが出来た!バンザ~イ!」という世の中だったらどうだったんだろう。
「おめでとう、シワ!」ってみんなでお祝いしてくれたなら。。。

アンアンやノンノで、老いの美の特集組んだり、コマーシャルが「プラス5才肌」とか「今よりもっと多いシワをあなたに!」と、シワ作りに励むクリームを売っていたらどーなっただろうか。価値とするものが今とまるで違っていたら。。。

この世はもっと気楽で明るく生きられていたんじゃないだろうか。
なんでもかんでも、あれだめ、これだめっていってるの、つらくなるいっぽうじゃあねえかあよお。

絵:「消えた戦国武将」MF新書表紙 
一晩でボッコリ消えてしまったお城「帰雲城」の謎に迫る!!しかもその場所は謎の飛騨国の近く。。。。う〜ん、もとオカルト歴史もの大好きなやまんばはそそられるのだあ〜!

2012年1月14日土曜日

不快によって生まれる自分

私たちが初めて「自分」というものを意識した時はいつだろう。
自分と他人がいて、自分の外に社会というものがある、と意識した時は。

それは、痛い思いしたときや、おこられたときじゃなかっただろうか。

しあわせ〜なきぶんになっているとき、人は自分と他人というふうにわけて考えただろうか。満ち足りた気分になっている時、自分と他人という分裂の意識はない。むしろ横にいるねえちゃんも自分も区別はなく、みんないっしょくたにしあわせ〜となっていたんじゃなかろうか。

という事は、初めて自分と他人という区別が出来た瞬間というものは、ネガティブな事、不快なことが起った瞬間に「突き放された」という感情を持って生まれた認識ではなかったか。

自分というものを意識するきっかけが、不快なものによって生まれるって、なんだかなあ〜。

そう考えると、不快によって芽生えた(または生み出された?)自己というものは、果たして本当に存在するもんなんだろうか。

単なる気のせいだったりして。

2012年1月13日金曜日

灯油おじさんとの会話

「宝くじあたった?」
「うん。ぜーんぜんだめ。300円あたったかな」と私。
「あ、おれとおんなじだ。この商売からおさらばだ!とおもったんですがねえ。まだ地道にやれってことですかね。今年もよろしく」
灯油販売のおじさんはそういった。

年末に近所のくじ引きがかなりの確率であたるもんだから、
「あんた、宝くじでも買ったら?」
なんて八百屋のおばちゃんに言われてチョーシに乗った。

ほや!この勢いに乗ってどどーんと3億円当てたるでえ~と、3000円握りしめて買いにいったのが年末。暮れ押し迫ってネットで当選番号見たら、引っかかりもしなければ、かすりもしない。はるかとーくの方に当たり番号はあった。お情けの300円はあたったけど。。。

その暮れの掃除の最中に、いつもの灯油おじさんに灯油代金を払っているとき、財布の中に宝くじがあるのを見つけられちゃった。
「あ、あんたも宝くじ買ったねえ。おれも買っちゃった。あたるといいねえ~」

おじさんは東北の方から毎年出稼ぎにやってくる。10月から3月ぐらいまで灯油を売りにここら辺りにやってくる。その間お母ちゃんにも会えなくて寂しいそうだ。そんなつらい商売は宝くじでも当ててドドーンとお母ちゃんと一緒に優雅に暮らしたいもんだ。

ま、二人とも地道にかせいで生きなさい、といわれてんだろな。
だけど、そのどどーんの宝くじ、当たった人いるんかなあ。あった事ないなあ。みんな黙ってんのかな?
ひょっとしたら、あのおじさん、あたってたりして。。。

2012年1月12日木曜日

記憶を使う

記憶。

私たちが記憶を使うのはいつだろうか。
いつ、と言ったところで過去の事を思い出す。ほら、記憶を使っている。
記憶はいたるところで使われる。朝、お味噌汁作るのも記憶を使うし、朝、服を着る時も記憶を使う。
「えっと、これは後ろでこっちが前。これはセーターで肌の上に直接着るもんじゃない。パンツは頭にかぶるもんではなくて。。」と。
使ってる使ってる。

記憶って便利だなあ。記憶があると家に帰る事も出来るし、パンを作る事も出来る。毒のある植物を食べない事も出来る。記憶って生きるための必須アイテムだな。

でももひとつ別の種類の記憶もある。
誰かに怒られた事。誰かを傷つけた事。嬉しかった記憶もあるし、かなしかった記憶もある。
「あんときあーだった、こーだった」
と、使う。
目の前のパンツをかぶるかどうかの問題ではなくて、目の前にないパンツの事を考える。
「あんときパンツを頭にかぶったから笑われた」とか。
するとそのとき赤面した事や、後悔した事や、かなしかった事や、走ってその場から逃げたかった事なども記憶を使っているときくっついてきたりする。

パンツをはく行為は5秒ぐらいで済むし、パンツをはく行為に「パンツ、パンツ、パンツ。。。」と心でいう事もないが、パンツによって引き起こされた、もうひとつの種類の記憶は、風が吹いたら桶屋が儲かるとか、ワラシベ長者のごとく、どんどん突き進んで巨大な話になる!(さっさとパンツはいて仕事にいきなさい)

どうも記憶には、こういった物質的な種類のものと抽象的な種類のものがあるようだ。それがぐちゃぐちゃに混同されて使われているのが私たちの記憶じゃなかろうか。

抽象的な記憶の方は、あんまりうれしくない。
嬉しい記憶はいいけど、だいたいにおいてかなしかった事や、苦しかった事や、頭に来た事なんかを思い出すために使っているんだもの。そーすると、あんまし心にいい影響は与えん気がする。

だいたいそのつらかった記憶は何の役に立つのだ?それを思い出してはきらいなヤツの事思い出したり、自分のおろかさを見せつけられたりしてバタバタするのがおちなのだ。そんな記憶を使えば使うほど、人生やになっちゃう。

やまんばは、家に帰るのを迷わないための記憶の方を使いたい。
パンツをはく。家に帰る。パンを焼く。おしまい。それ以上でもそれ以下でもない。シンプルな心の中のままでいる。心の中をコトバだらけにしない。
なんておもうのでした。

パンこねこねマシーンが欲しい

近所の友だちからラフランスをもらった。
初めて洋梨というものをNYでたべたとき、こりゃフルーツのお菓子だなあとコーフンしたもんだった。
そのラフランスで、デニッシュを作る。デニッシュ生地にバニラビーンズが入ったカスタードクリームをしぼり、その上に乗っけて焼く。うんめえなあ。天才かな、わし。

しばらく前に自然発酵種でパンを焼く事にこっていたが、あまりのスローペースに少々疲れた。そのうち発酵種が冷蔵庫の中でしゅるしゅるしぼんでいって、でろんと死んでしまったのでやめた。今はあんちょこなイースト菌でほいほいと作っている。冬は発酵が遅いから、生イーストを使っちゃう。

前は発酵機なるものを自分で作ってその中で発酵させていたが、案外室温でも十分発酵するのを発見する。夜のうちに仕込んでおけば、寝ている間に室温で発酵が進む。しかしこの場合、イースト菌をうんと減らす。ゆ~っくり発酵する方法で行くのだ。その方がうまいともいう。二次発酵も室温で時間を長くおくとちゃんと発酵する。だからずっと発酵機を使わなかった。(ひょっとしたら、部屋の中がすでにパンの発酵菌で充満しているのか!?)
しかしこのところの寒さで発酵が遅い。今朝なんか、マイナス6度!!!なので今はこたつ発酵~。足の臭さも一緒に入ってますます発酵する(うそ)。

年末はシュトーレンなるものも作ってみた。
何でもクリスマスにクリスチャンが食うもんらしい。そのカタチはキリストさんのお布団なのだそうな。じつはやまんば食った事がない。だもんで一体どんなものなのかカイモクケントーがつかない。とりあえず「ヒィリップビゴのパン」のレシピどおりに作る。

これがとんでもない面倒くさい生地だった。ぐちゃぐちゃの生地をこねるのも大変だったし、材料も色々必要だし、前もっての準備がいるし、ひーひーぜーぜーつくってみた。さて。なんだ。パネトーネのかったいバージョンじゃないやんけ。こんなんだったら、パネトーネの方がうんとうまいわい。
誰かうまいシュトーレンたべさせておくれ。

最近、生地をこねこねするのがメンドーになった。パネトーネやブリオッシュなんかのやまんばがだ~い好きな生地は、ホントーに扱いづらい生地なのだ。ほんならパン屋で買って食った方が速い。だけど、いったんパンを自分で作っちゃうと、パン屋で買って来てもなんか人工的な味がする。有名なパン屋さんで買って来ても口に入れた瞬間うまいが、そのあとの持続性がない。シュルっとうまみが消えてしまうのだ。表の看板が目立つが、中に入ると、すぐ店の裏にでちゃうような感覚。

ああ、そろそろパンこねこねマシーン買っちゃおっかなあ~。

2012年1月9日月曜日

プラネタリウムでコンサート



プラネタリウムって不思議な世界ですよね。
今、世界一おっきいつくばのプラネタリウムで『アイヌの星』という映像が上映されています。そのバック音楽をリウカカントが盛り上げています。今回、はじめてその場所でリウカカントのコンサートを開催します。
お近くの人はぜひ映像と生ライブにお出かけください。
くわしくはここ

ちなみにこのポスターの絵はつくしが手がけております。
水に映らないシカの存在は一体何!?

2012年1月7日土曜日

枕詞「年いったから」




先日ひさしぶりに髪を切りにいった。
明るい店内にでかい鏡が設置されており、その前に座るとドドーンとやまんばの姿が映し出された。

げげーーーーっ。フケてる。
やまんばは化粧をしないので、家に化粧台というものがない。だから自分の顔は風呂場で湯気の中で見るか、べんじょのとなりの薄暗い鏡に映る自分しか知らない。
これでもかというぐらいの明るさの中で自分の顔を見たのは久しぶりであった。額にシワ、眼の下はツキノワグマが出来て、おちくぼんでいる。口の横にホウレイ線もバッチリ、右のでっかいシミも相変わらず存在を誇示している。

み、見れない。。。自分の顔を直視できない。。。
わしはこんな顔を日頃世の中にさらしておるのか。。ああっ、ご近所のみなさま、ご迷惑をおかけしております。
髪を切ってもらっている間、ちらっちらっとおののきながら自分の顔を見る。
見るたび「ああ、年いったなあ。年いったなあ。。」と心がつぶやいていた。

ふと、いつも母がその言葉を吐いているのを思い出した。
「あたし、年いったから動けんなったがあよ」「あたし、年いったから描けんなったがあよ」「あたし、年いったから歩けんなったがあよ」「あたし、年いったから。。。」と、枕詞のようにくっついて来る。

そのつど「おかあさん、そんなにしょっちゅう『年いったから』っていいなや。ゆうたらもっと年いくで」と、怒ったもんだった。
ああ、今になってその気持ち分る〜。老けた自分を見ると言葉自動発令機が『年いったから〜』と出て来るのだ。

なんでその言葉が出るのだ?
それは醜くなった自分を見て、「年がいったせい」にしようとしているのではないか。
ゲゲゲーっ、フケた。どないしょー。。。
よし、そーか。
それは年がいったから老けた事にしよう。そう。わたしは年がいったから老けたのだ。しゃあない。うん。これが自然の原理だ。自然の成り行きだ。しゃあない、しゃあない。なっ、やまんば。そーだろ。

と、ゆーふーに、自分で自分を説得してるんじゃないだろか。

ほんでもってその言葉をわざわざ人に言うのは、一種の照れ隠し。
「いんやあ〜、みにくいねえあたし。まっ、年いっちゃったからねえ。これはしゃあないのよ。うん。こらえてね。わっはっは」
と、ハズカシーのをわらってごまかしている。(誰を?早い話が自分を)

どっちにしろ「年がいったから」という枕詞は、自分に向けて発している言葉だな。
あせる自分があせらないようにと、あせって説得している。その現実を見るのはおそろしーから、なにかしなきゃいけないとおろおろする。ほーじゅんやどもほるんりんくるがはやるのは、この心理にうまく乗ったお仕事なんだろな。
やっぱわしらって「若いって素晴らしい」って思い込まされているから「老けている=悪」と刷り込まれてるんだろうな。やまんばもまんまとそれにのっかっちゃっているのだ。

でも他人は案外その、ほかの人が老けていくことなど気にしてなかったり(興味がなかったり?)するのだ(笑)。



絵:MF新書「暴言で読む日本史」こりゃまた別の視点からの日本史。おもろいで〜。

2012年1月4日水曜日

ちっとも変わんないニンゲン種

きのうテレビで古代発掘ものの番組をやっていた。

どれもこれも何一つ真新しーモノもなく、タレントが「へー」とか「すげー」とか、思ってもいないくせにリアクションを重ねるつまらない番組を最後まで見てしまったではないか!どーしてくれる!(って、自分で見てんじゃねえか)

見終わったあとで、ダンナが
「昔っからヒトって同じことやってたのね」という。

王様が死ぬと、誰かを一緒に巻き添えにする。
生きていた頃の生活のままあの世に行こうとする。
金銀財宝を一緒に埋める。

今の権力者はそんなこと人権問題でできないけど、気持ちは変わんないだろうな。

昔っからあの世があると思っている。死んだあとが恐い。一人じゃ寂しい。一番大事な金属はなぜか鉄でも鉛でもなくて金。


5000年前の人間は、未来に思いをはせ、こうおもったかもしんない。
「5000年後は、いったい人類はどう変わっているのだろう。その時は、わしらがめっちゃんここわい死というものは、とっくに解決されているはずだ!」


さて、5000年後。
おんなじじゃねえかい!

2012年1月2日月曜日

おせち食った?

新しい年が明けました。

みなさま、きっとおいしいおせちを堪能された事でしょう。
昨日は、昼間っから大手を振って酒をたんまり飲むことをゆるされるという不思議な一日です。やまんばも昼間っから高知のうんま〜いお酒を飲んで酔っぱらっておりました。酔っぱらって外を歩いていると、地面が揺れているようでした。家がギシギシ音がして「ひえ〜、わしが歩くと、家がきしむんかな」よく見ると電線まで揺れている。「わし、どんだけ太っちゃったんだ?」
すると近所のおじさんがあわてて家から出てきて、
「今揺れたねえ」
すんません。わしが揺らしました。(ちがうやろ)


ところでおせちって不思議なものです。
ひとつの箱の中にたくさんのおいしいものがつめこまれて、それぞれに、それを食べる意味があるのです。
黒豆は一年、マメマメしく働くように。数の子は、子孫繁栄。田作りは豊作。かまぼこはめでたい彩り。伊達巻きは知識や文化の発展。昆布巻きは喜ぶ。エビは長寿。お煮しめの里芋は子宝。レンコンは穴から先を見通せるように。クワイは出世。ごぼうは地にしっかりと根をはるために。
一年の計は元旦にあり。これらを食ったらもう今年一年こわいもんなしじゃあ〜!

やまんばはこういうものを約50回食べ続けた。さて、その通りになったのか?ちっともなっちょらへんがな。
レンコン食って先が見通せたら、こわいもんはない。数の子は山ほど食ったが、子は出来んかった。エ〜ン。おせちの魔法はどこにある?

元旦にレンコン食ってほんとに先が見通せてたら、きっと日本人はもっと凄いところに行っているに違いない。だけど現実はあんまり遠くにいってない。ならそれを食べる意味はあるんかいな。。。

たぶん、その気になるだけなんだろな。
レンコン食って先が見通せる気になる!黒豆食ってマメマメしく働ける気になる!数の子食って子孫繁栄な気分になる!

ということは、
「おせち食って、今年一年イケテル気分になる!」ということか。