2025年1月27日月曜日

私の絵について

「そして出会う」和紙、水彩



 「いいよね~。。。本当に素敵。

でも、、、高くて買えない」


すみません。高いのは自覚しています。

でもこのぐらいもらいたいのです。


この一本のカッターの線ひとつに、

この和紙を選ぶ感覚に、

私のこれまで培ってきたものが現れているからです。





和紙を使っているというちょっと特殊な技法のせいで、

絵に関わる質問で、色や制作時間を聞かれることがある。

私の心はそれを聞かれるたびにチクリと痛む。


色はだいたいは土佐和紙の職人さんが染めたものだし、

時間はものすごく早く出来上がるものもあれば、

なかなか時間がかかるものもある。


では時間がかかったものの方がいい作品かというとそうでもない。

時間といい作品は比例しない。関係がないのだ。


職人さんが染めたものを使っているのは、

私がかつてファンシーペーパーという

色がついた洋紙を切って貼るという手法を使っていた延長なのだ。


私はその時、限られた色の中でどう組み合わせをすると

どういう効果をもたらすかということを独自で学んだ。


私の絵本「ロードムービー」の中で使われた紙の種類を数えたことがある。

確か64色だったと思う。

その限られた色の選択の中で、

隣り合わせにする色や全体的に感じさせる色合いの持って行き方を学んだ。


あとで気がついたことだが、自分で色を作るということは、

無意識に自分好みの色を作り出し、パターン化する可能性があるということだ。


しかし自分で作っていない色を使ってそれを絵にしていくことは、

自分では思ってもいなかった配色や組み合わせを生む。

その偶然性の驚きは作っている側でさえも心躍らせる。


たまたま無造作に置かれた紙たちが、勝手にダンスを踊っていたのだ。

これは頭で想像する配色よりもはるかに面白い。


そして和紙に移行して状況は一変した。

ファンシーペーパーでは見出せなかった、わずかな色の違い。

緑が少し青みを帯びたり、黄色味を帯びたり、

かすかに薄かったりかすかに濃かったり。


そのかすかさを組み合わせることで生まれてくる微妙な色合いの美しさ。

あるいは微妙さと大胆さを組み合わせる面白さ。

これがあの限られた色合いの中で培われてきたものの結果だと気がついた。


さらにここ高尾に移り住んだことで、

日々目にする生き物たちの色や形の変化。

これを絵にするとどうなる?

これを和紙で作るとどうなる?

どう表現すればいい?


和紙という変幻自在の美しい素材。

和紙は紙と布の中間のようなもの。

触ってよし、眺めてよし。

手すきの和紙は軽い。柔らかく、そして強い。




「つくしの絵は、なんか物語がある」


その言葉に私は思い当たるフシがある。

絵を制作している間中、私はその中に物語を見ている。


狐のある日の様子。

一本の木の中で起こっている物語。

森に入ってきた少女のこと。


私はその物語の中で遊ぶ。喜ぶ。感じる。

きっかけは森で出会った一風景。でも一度それを絵に定着させ始めると、

まるで違う世界を紡ぎ出し始める私の心。


これは長いことイラストレーターをやってきたせいなのかもしれない。

あらゆるものや状況を描かされてきた。

描きたくないものや全く興味のないものがほとんど(笑)。


でもその中に入り頭でこねくり回している間に、

ある瞬間にそこに物語を見出すと作り始める。

そうでないと絵にならないから。


何度もスケッチし、何本も線を引きなおし、

描いては消してを繰り返すと、右手の側面が鉛筆で真っ黒になる。

その間に物語は紡がれていく。

そんな作り方を長年してきた。


幼い頃見てきた母の着物、大島紬、加賀友禅、更紗、あらゆる色の洪水。

あるいは絹の音。

ミシンの上にかけてあったゴブラン織、

祖母の居間にかかっていた大きな宗教画のタペストリー。

あるいはピラミッド、ストーンヘンジ、不思議な場所。

あるいは山で出会った天狗。


その全てが私の中に詰まっていて、そこから一本の線が現れる。










和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです


2025年1月17日金曜日

空は私

 

「秋の鬼女蘭」和紙、水彩

最近、空を見上げるのが好きだ。

夕暮れ時の西の空。山の上の空は少し黄色がかっているが、目線を少し上にやると薄ピンク色、さらに真上にやると紫がかって見える。筋状の淡い雲がたなびいて、ゆっくりと移動しながら少しずつ形を変えていく。

こうした空をじーっと見る、ゆっくりとした時間を味わうのが好きになった。


夜、「車にマスクをかけてくる」と、

車のフロントガラスに凍結防止用のカバーをかけに外に出る。


見上げるとかすかに星が見える。ここ高尾も都会と同じぐらいしか星は見えない。

星を見ている気になっていたが、星を見ているのではないと気がついた。

夜空全体を感じているのだ。


大きな大きな夜空全体。

その大きなものが私の中に浸透してくる。

降ってくるのかな?

それとも私が大きくなっていく?


大きな夜空と大きな私は一つになる。

それは昼間も同じ。

青空も、曇り空も、夜空も、全身で感じる。

全身でとらえる。

全身で受け取る。

いやそうじゃない、空は私自身だ。


私は癒される。

栄養をもらう。

命の糧をもらう。

叡智をもらう。


すると頭の中で聞こえるこの世の細かいことが、

チリジリになったり、薄くなったり、広がって溶けて消えていく。




もともと空(そら)だった私が、ある時から小さな人間になっていった。


頭の中で絶えず聞こえる声が、

「この世界を生き延びるためには」と教えてくれた。

あれに気をつけて。そうなってはダメよ。あの話は本当よ。

その声を聞いて、私はますます小さくなっていった。

小さく、苦しく、生きていくのが精一杯。。。


ある時、その声自体が私を小さくさせるのだと気がついた。

でもその確証はない。

随分遠くまで来てしまった。


どっちに向かったらいい?

本当のことを教えて。。。


長い旅の末、空があることを思い出した。


私の心の中と空が結びつき出した。


空に答えがあった。


形も五感も感情も思考も超えた何か。


そこに心を向けると、壮大な叡智が私に教えてくれる。



おかえり、つくし、と。











和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです




2025年1月16日木曜日

どなた様でしたっけ?

 

「見上げた空」和紙、水彩

ふじだな珈琲での展覧会がはじまった。

この寒い中、連日人がたくさん来てくれる。実にありがたい。


ただ一つ困ったことがある。

最近知り合った人々の顔が繋がらないのだ。


たとえばスポーツクラブで知り合った人。

いつもの場所で、いつもの服装で会うことで認識している人と、

違う場所で前触れもなく出会う。

帽子をかぶった普通の服装で会うと、

「はて?この人誰だっけ?顔は知ってる!

顔は知ってるんだ!だけど、誰ーっ!?」となる。


普段仕事着を着ている人と普段着で会うと頭が混乱する。

顔だけで認識しているのではなく、場所や服装で認識してしまっている。

特に歯医者さんは困る。目しか見えない(笑)。


先日もこんなことがあった。

イーアス高尾で声をかけられる。

「あらつくしさん、こんにちは!」

「あっ。こんにちは。えっと、えっと、誰だっけ?」

「え~~、ひど~い。私ですよ、わ、た、し!」

「顔は知ってる!わかる!でも、、、誰?」

名前を聞くも、それでもわからない。焦る。

しばらくして勤めている場所を聞いてやっと把握。


こうやって正直に聞いて把握するのは楽しい。

だけど聞くにも聞けず、頭の中でぐるぐるするのは苦しい。

しばらくしてやっとわかり、

さらにそれを悟られないようにするのは至難の業だ。


特に最近初めてあった人々が、

みんながみんな昔から知っている知り合いに見えて困る。

この人、絶対知ってる!って思っちゃう(笑)。



この際、全部正直に言っちゃおうか。

「えーと。どなた様でしたっけ?」


いい人でいたいという思いが、その言葉がなかなか言えない。

誤魔化す。


正直に聞くって勇気がいる。











和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです


2025年1月2日木曜日

お正月と喪中

「コジュケイ」和紙、水彩

 

みなさま、新年あけましておめでとうございます。


と、喪中の人が言っていいのかいけないのかわからん(笑)。


喪中ってことをいいことに、お正月的なことを一切なんもせん!

と決めてさっぱりやらないと、まあ、暇なこと暇なこと。


「暇だなあー」と鼻をほじって暇をもて遊んでいると、

「風呂掃除でもしたろかー」とか、

「冷蔵庫の整理でもするかー」とか言って、なんだか楽しげにやってしもうた。


今までは義務!神様が幸運を運んでくれないからやらねば!とか言って嫌々やっていた。

おせち料理だって、神様が幸運を運んでくれないからやらねば!とか言って、

すごいプレッシャーの中でヒーヒー言いながら嫌々やっていた。


お正月っぽいことはといえば、あんこ屋すずさんで買ったあんこで

おぜんざいを作ったことぐらい。あとはいつもの生活。


暇こいていたら、ふと知り合いが宮司をやっていらっしゃる金比羅さんに行こうと思いついた。

喪中の人がいっていいのか、いけないのかわからんが、

しれっと行ってきて、ついでに玉串を奉納してお祓いまでしてもらう(こらあー)。


空は雲ひとつない快晴。美しい青。

帰りは落ち葉がいっぱいの坂道。滑りそうでオドオドオタオタ降りてきた。


今はお隣さんからもらった干し芋をストーブで焼きながら、これを書いている。




私にとって「お正月」とはものすごく特別な行事だった。

それは母を通じて学んだことの中でも特別に大集結されたもの。

日本人として一番美しい形を生み出す瞬間。


お正月という美しい形はまた、私に恐れも生み出していた。

これをしなければ、福がやってこないという恐れ。

その恐れにがんじがらめになっていた。


それが彼女の死を通して、その「お正月」という呪いにも近い信仰の束縛が、

ふっと解かれた瞬間でもあった。



かーちゃんから、思わぬプレゼントをもらった。


そもそも、人が死ぬって汚れなのか?

死んだ人はあの世で

「お前、なに正月やって楽しんでいるんだ?俺は死んで苦しいのに!」

って、うらみつらみを言うんだろうか?


おばさんは妄想する。


天国のかーちゃんは、

「えー。なんで楽しまんが?楽しみなさい。うんと!」

って、言うんじゃね?と。


あ、干し芋食っちまった。

も一個、焼こうっと。



と言うことで、前置きが長くなりましたが、

本年もよろしくお願いいたします。







和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです