2020年8月23日日曜日

お山を感じる

 


いつもの散歩コースに、少し高いところから山を見渡せる場所がある。


一個のそびえ立つ山があるのではなく、なだらかな山脈が東から西に流れていく。


山は戦後無造作に植林されたところと、そうでないところに常緑樹と広葉樹が混在してる。


冬から春になる頃、山桜などの広葉樹が、茶色からだんだんと淡い色を帯び出し、

ピンク色に変わり、山が笑い出す。

それはまるで着物の帯の柄のよう。


晴れた日はそれがクリアに見え、また雨の日は水墨画のような幻想の世界へと誘う。

季節ごとに、天候ごとに、刻一刻と変わっていくその山を眺めるのが大好きだ。


今は夏真っ盛りでいちめん緑一色。

だけどそういう時こそ、木々がそれぞれの個性を発揮する。


杉のようにしゅんしゅんと上に向かって鋭利な姿を見せるものもあれば、

モワモワと横にまあるく広がっているものもある。


私は動物の毛を眺めるようにその山肌を眺める。

手を伸ばせば、その触覚を楽しめそうだ。


そっと腕を伸ばして、大きな手で、その木々たちを撫でる。

杉のチクチク、ケヤキのふわふわ、もみの木のゴワゴワ。。。目で見ながら、心はかれら触っている。


木々たちもどこか自分たちが触られているのを楽しんでいるかのよう。。



その時ふと思った。

私はただ目の前の山を見ているのではないのだ。その山と向かい合っているのだ。


私は山を見て、「ああ、お山だ」と思い、

山は私を見て、「ああ、君がいる」と思う。

ここに山と私のコミュニケーションがある。


それは五感でわかるものでなく、思考でもなく、感情でもない。

だけど確かに、胸のあたりでひびきあい、感じあって、交流しあっている何かがある。


そして私の中に、なんとも言えない喜びと、安堵と、平和が膨れてくる。


お山は確かに私を見つめてくれている。

目があるわけでも、顔があるわけでも、脳みそがあるわけでもない。


なのにその存在は私を知っている。

私を受け入れてくれている。

私に答えてくれている。

そして私を愛してくれている!



ひょっとしたら私はその山の背後を感じているのかもしれない。


「これはお山だ」と頭では思う。

しかし本当はその山がたち現れる前の、何かを感じているのだ。


私という仮の姿と、山という仮の姿の背後には、私たちが共有する何かがある。

いわば仮面を通して互いに感応しあっているのだ。


そう思うとゾクゾクした。


(私も愛してるよ!!!)


心の中で、お山に向かって大声で叫んだ。






2020年8月20日木曜日

旅先の朝のような

 


朝、目を覚ますと、庭に朝日が差し込んでいた。


窓を開けてまだ赤いお日様を眺める。この時間の太陽は目に痛くない。

全身に朝日を浴びる。


川の音、鈴虫の声、鳥の声。。

いつもの日常なのになんだか違う感覚。なんだろう?

ああ、そうだ。旅先の朝の感じ。

知らない土地で迎えた朝の、なんとも言えない清々しい気持ち。


いつもの庭なのに。

何かが違う、この感じは何?


あ、過去が消えている。。。



私というものが背負ったあらゆるアイデンティティ、名前、性別、年齢、住んでいる場所、肩書き、考え、癖、日頃の想い、そして体の記憶までが、すっぽり抜けて、ただここにいる。


旅先の朝の、清々しいけれどなんとも心もとないこの感じは、

「ここはどこ?私は誰?」

といういつもの私が消えた時の、心もとなさなのだったのか。

それと同時に、すべての日常のいざこざをすっかり置いてきた軽さ。

それが心地よくもあり、心もとなさであり。。。



一瞬、体の痛みを感じて、日常に引き戻された。恐れが私の中に入り込んだ。

アイデンティティがどっと押し寄せてくる。

過去は恐れを伴っているのだ。


私はそっと恐れを赦した。





今パソコンに向かってこれを書いている私に、過去は戻ってきている。

名前、アイデンティティ、いつもの思い。。。

それでもさっきまでの朝の感覚は忘れていない。


過去を忘れた私のあの軽さ。ただそこにあるだけのもの。

朝の空気と、光の感じと、それを味わっている何か。



「私」は過去でできている。

過去の寄せ集めが私だ。


過去が消えたら、それはこの私ではなく、とても軽い何か。


とても平和で、静かな喜びがあり、自由だ。









2020年8月18日火曜日

男と女のあい〜だ〜には〜♪


 

ずーーっと、自分の罪悪感と戦ってきた。これでもかーこれでもかーと。


我ながらすごいと思う。この集中力。これが仕事にも生かされてたら今頃、、、とは思わないけどね。


とかく私は専売特許のように、「罪悪感を持つ女」を演じてきた。



最初はわかりやすい大きな罪悪感と戦っていた。

それが成敗されると、徐々にそのスケールは小さくなっていき、

もっと微妙な罪悪感と戦い、

そして最後は「これはなに?」というぐらい微細な罪悪感と戦いだした。


それまで罪悪感は言葉に変換できた。

「これはこれこれこういうような意味の罪悪感」というふうに。

ところが今回のそれはまったく言葉に変換できず、全身にざわざわとした、ちりめんビブラートのような振動を感じ続けるだけになった。

も、もうお手上げだ。。。

そんな時ある人との出会いで、罪悪感に対する見方が変わっていく。



この世界は罪悪感でできている。

それは事実。だけどその仕組みをしっかりと知るだけでいい。


これは必須科目。どうしても知らねばならない。

それを見ることはこの世界のほころびに気がつくようなもの。

それを見ないでいることは、無意識の罪悪感の中で、いくらでも自我の隠れる場所を作る。


しかし冒頭の私のように、その罪悪感を解体し続けることではない。

罪悪感によってこの世界が作られていることを知ることは、それがなければこの世界も存在しないという事。
この世界が夢、幻ならば、その幻の中の罪悪感など、もともとありもしないというところに戻っていく必要があるのだ。


わたしが罪悪感を消そうとすることは、逆にそれを「ある、絶対あるのだ!」と存在させ続けていたことだった。

それは、見れば見るほどそれを実在させる恐れと似ている。





罪悪感とは罪を見ること。

自分や人の中に罪を見て、それを裁くこと。


私は「罪悪感を持つ女」を演じてきたが、それとは反対に、「人に罪悪感を見る男」っちゅうのんもあるが、本当はその人も無意識で自分を裁いている。どのみち自分の中の罪悪感を見ることになる。

私の場合はその直進型。人に罪を見る人はブーメラン型。


罪を見ることは、この世界はいつまでも恐ろしい世界に見える。


人や自分に罪がなくなったら、平和な世界が生まれるのではなく、

「罪などないと知ること」が心の平和をもたらす。


心に平和が戻り始めた時、硬く高く隔てられた城壁のような人との壁は、

夏の麻の暖簾のようにやさしくなっていく。






自分がいかに罪を見ようとしていたことか。。そうやって自分と他人を分離したがっていたのだ。

私とあなたは違う!と。


それから私は自分の中や人の行為に罪を見つけても、それを追いかけるのをやめていった。

まもなくそれに同調するように、ゆっくりとまわりが穏やかになっていった。


そういう現象を見るうち、私と人はまったく同じなのではないか?と思い始める。

「他人は自分を写し出す鏡」とはそういうことだったのか。



ということは、あなたに罪があると見ると、私に罪があると見ることになり、

あなたが間違っていると思うということは、私も間違っているということになる。

しかしあなたが正しいと思う時、私もまた正しいのだ。



自我は私に「そうは言っても、あっちがおかしい。なぜなら。。」と畳み掛けるように言ってくる。

しかしたとえそれが正しいとして、一体それがなんだろう。

せいぜい自分がいい気分になるだけだ。そこになんの和解もない。


男と女の間には~深くて暗い~川がある~♪(古すぎる!知ってる人いるんやろか?)



しかし渡れぬ川はなかった。もともと川などなかったのだ。

お互いが違うと主張すれば、そこに深い川ができ、

お互いが同じだと思えば、そこに草原が出現する。



長いこと惹きつけられていた、私にとっての罪悪感の魅力は、その力を失った。






2020年8月15日土曜日

あこがれた空海さん

 



小学生から中学生まで、高知は室戸に住んでいたので、

空海が悟りををひらいた御厨人窟にはよく行った。


お遍路さんがチリンチリンと鈴を鳴らしながら歩くのをよく見かけたし、父にドライブがてら室戸岬灯台と第24番札所の最御崎寺にしょっちゅう連れて行かれた。


そんなこともあって、個人的に空海さんのことは大好きだった。

調べれば調べるほど、スーパースターなお方。ますます憧れた。




そしてそれとは対照的な最澄さん。エリートで鳴り物入りで遣唐使として唐の国に赴いた。時を同じくしてたたき上げの空海も。


最澄さんは天台の経文をごっそり。そして密教をちょろっと。

空海さんは、「これからは密教が主流だ!」と、その時代流行りの密教を第一人者である恵果阿闍梨という偉いお坊さんにわずか半年で授かり「早く帰国して密教を広めよ」と言われてごっそりと持って帰ってきた。


空海さんが持って帰ってきた密教は、加持祈祷を中心とするもの。彼はそれを自然の中に仏を見るという風に思想を膨らませた。神や仏に願えば、戦争や病苦のない平和な国家が保たれるとすれば、密教は鎮護国家思想にうってつけの仏法だった。




でもそこで思う。

そもそもブッダはどう言ってたんだっけ。

この世は夢、幻である。迷いの心がこの世界を作っている

迷いのない心で見れば、悟りを得るだろうと。


空海は、加持祈祷によって、この世を良くしていこうとしていた。この世が良くなれば、国家も人々も幸せになるだろう。ブッダは心だけを見ようとしていたが、空海は目に見える現象を変えようとしていた。いやいや。そもそも諸国を巡って橋梁、ため池などの治水工事や貧民救済に力を入れていたお方やからなあ。




今の引き寄せの法則や自己啓発に似てると思った。

この世でよりよく生きるために、どうするか。そのためにありとあらゆることをやる。空海が時の権力者に人気だったはずだ。


最澄はというと、不思議なことに今の日本の仏教界のほとんどの宗派が、彼が開いた比叡山延暦寺から現れている。


空海はスーパースターだったがゆえに、今でもオンリーワン。高野山の奥の院で今も生きておられる。
かたや最澄は、天台宗の開祖という立場にありながら、仏教界をリードしているにも関わらず、7歳年下の空海の弟子となるなど、ちょっと空海さんとは違う度量の広さがかいま見れる。

そういう風に、すべてを飲み込んで受け入れていったところから、新たな思想を生まれさせる土壌となったのかもしれない。



現代では世界的に禅がブーム。個人の心に帰っていく禅の思想から、マンドフルネスや非二元への移行など、巡り巡ってかつてブッダが教えを説いていた方向に向かっているように見えるのが興味深い。






2020年8月13日木曜日

川にどんぶらこ

 



おとついの続き。


心の中を流れる言葉の中に、いつも引っかかるものがある。

引っかかるものを整理してみると、いくつかの項目に分かれる。


将来の不安、過去の汚点、経済問題、等々あるけれど、ある特定の人物に向けられるっていうのがある。その特定の人物を川の流れに見つけるやいなや、それに飛びついて掴んで噛み付く。んでいつの間にか一緒に流されていく(笑)。


そういうことを何度か繰り返すうち、

「これ、私の自我の温床になってる。。。」と、初めて気がつく。

その特定の人物を思い出すと、即座に私の怒りや恐れが芋づる式に引っ張り出されて、泥沼状態となっている自分に気がつくと、これまたなんとかそれを鎮めようと格闘する。。。


こういう一連のパターンを見つけると、そもそもその人物でなくてもいいのだとわかってくる。

AさんでもBさんでもCさんでも誰でもいいのだ。

自我は私が不幸におちいるためにはなんだって使う。

ただその時の私の旬に合わせて、

「ほら、お嬢さん、この桃今食べごろだよ~美味しいよ~~」

と、目の前にどんぶらこと桃を流してくるのだ。


川で洗濯していたおばあさんは、その美味しそうな桃をむんずとつかみ、ガブッとやる。

そのとたん、桃から生まれた桃太郎が、おばあさんの恐れを引き起こすのだ(話ぜんぜんちゃうやろ)。




この恐れや不安が、この世界を実在させている。ブッダはこの世界は幻想だと見破った。そしてこの世界があると思わせているのは「苦」だと。


私が今食べている桃は「苦」だ。自我から受け取った苦を本物だと信じて、それと格闘していたのだ。


しかし私はそれを別のものに変えることができる。なぜならその川も桃も作り出したのは私だから。こっちの意志でいかようにでも変えられるというのは救いではないだろうか。


私はそれを自我からの視点ではなく、聖霊の目で見る。

聖霊の視点とは、分離を見ない視点。自我はその反対で分離を見る視点。

もともと私たちが持っていたのは、あなたも私も一緒という聖霊の視点。しかし自我の視点はあなたと私は違うという。この視点により、私たちは互いが分離するこの世界を作った。しかし同時に苦も生まれた。





おばあさんが川で洗濯をしていると、

目の前を美味しそうな桃がどんぶらこと流れてきた。

おばあさんはそれをそっと両手ですくい上げ、

その美しいすがたを愛で、

甘い匂いを嗅ぎ、

お山に感謝を捧げた。

そのとたん、お山も桃もおばあさんも一つになり、

天から大きな声が降り注いだ。

「ありがとう」



川を眺める。

心の中を見るように。


心地よい風が頬を撫でていった。





写真/海沼武史

2020年8月11日火曜日

川の流れのように〜

 


山の林道を散歩。

途中、川に足をつけてじっと目をつぶり、流れるあらゆる音に耳を傾けていた。

せせらぎの音、蝉の声、時々鳥が鳴きながら通り過ぎる。


川の水の音は、ぽちょぽちょ、サラサラ、ざあざあ、ポコポコ、ちょろちょろ、ザップンザップン、、、。いろんな音を奏でる。


これ、心の中の声と似てるなあ。


私たちの心の中に聞こえる声を観察していると、絶えず喋っている。

ちょっとのぞいてみるとすぐわかる。一瞬も黙っていない。

ああじゃない、こうじゃないと、絶えず喋っている。


昔禅寺で坐禅を組んだ時、心がどれだけ言葉の中にいるのか知り、沈黙とは程遠い自分を知ることになった。


流れてくるあらゆる言葉の中に、今旬である内容を見つけると、すかさずそれを掴んで、その言葉とともに一緒に流されていく。

だいたい掴むのは問題。楽しいことなんかほぼ掴まない。


私たちは、考えたら問題は解決されると思っている。学校のテスト問題のように。

そやけど現実はそんな風にうまくはいかない。


どちらかが正しければ、もう一方が間違っているってことになる。ということは、どっちかが嫌な気分になる。ケンカはお互いがどっちも正しいと言い続けて、両方が幸せ~な気分でうまく収まる答えなどない。


自我は考えたら、答えが出ると思ってる。

そやろか?よく考えたら、今まで一度もできなかった。もうストップ。自我に答えは聞かない。


川を流れるものは私のものじゃない。

頭の中を流れてくるこの声は私の声じゃない。


自我が私に「ほれほれ。掴むんだぞう~」と、仕掛けてくるトラップみたいなもんだ。今まで散々掴んできた。それに振り回されてきた。

確かに掴んだ時は一瞬楽しいが、そのあとはただ苦しいばかりだった。その苦しさを繰り返すのはもうたくさん。


だから川を流れる葉っぱを眺めるように、心の声もただ眺める。

眺めているうちに、消えていく。
どんなにいろんな言葉が表れようとも、それを掴まなければ
流れていく。

それはただやって来ては去って行く、幻のようなもんだった。



あれから心の中で美空ひばりの歌が流れる。


「あ~あ~ 川の流れのよ~に~ おだ~や~かに~

ただ見つめて~ いたい~。。。」

(チョット違いました)