ずっと罪を見てきた。
自分の罪悪感の中でもがいていた。
自分の体への罪から、仕事への罪まで。
小さなことから大きなことまで全てに罪を見ることをしてきた。
それは自分が生きるに値しない生き物だと信じていたから、
生きるに値するには、自分をとことんまで罰しつづけ、
その結果やっと手に入れられる、
つまりここで生きていい権利だと思ってきた。
だが同時に人にも罪を見ていた。
自分に厳しいものは他人にも厳しくなる。
人の罪も見続け、その罪によって私は被害者になる。
それもまた、自分の罪への罰だと受けとっていた。
そしてその罰を受けている自分を哀れんでいた。
罪がゆえに、雨の中を道端に放り出された哀れな乞食だと嘆き、
またそんな姿の自分を愛していた。
これが狂気でなくてなんなのだろう。
私はこうやって自分を蔑み、忌み嫌い、
その苦しさを紛らわすために、
この社会を呪っていた。
コースによって、自分が何をしていたのかを教えられた。
私は罪の魅力にとりつかれていたのだった。
罪の魅力とはすなわち分離の魅力。
自分と他人を分けて見たいという欲求。
それは別の言い方をすれば、人とは違う、特別であろうという意識。
それは他人に罪があると見ようが、自分に罪があると見ようが、
同じことだった。
ここに罪がある
と宣言しているのだ。
だがコースは罪などないと宣言する。
そんなものはもともとなかったのだ。そして今もそれはない。
私は自我がささやく言葉に騙され、
「私に(あなたに)罪がある」と信じてきた。
この罪(問題)さえなくなれば、私は解放される。
私はこの世界で生きていいと言ってもらえるのだ!と。
だがその問題は、解決しても解決してもなくなりはしなかった。
いつまでもそれを発見し続けた。
まだある、まだある、まだ問題も罪悪感もあり続ける、一体どうしたらいいんだ。。。!
と、苦しみの中でもがいている時、
ふと、私は罪を見たがっているんだ!と気がついた。
昨日の話の聖霊の視点に立った瞬間だった。
罪の世界を、罪だけを見てきた私を、外から見たのだった。
その時私は初めて、罪にどれだけ魅了されてきたのかを知る。
自分の身体的問題から、親の問題、他人の問題、社会の問題、、、。
自分が見るあらゆるものの中に、問題という対象を見つけることに忙しくしていたのだ、、、!
あらゆるものとは、物理的に見えているものはもちろん、
自分の思考、それによって立ち現れてくる感情。
全ては対象。対象とは自分の外に見ている現象。
その見えてくるものたちの中に、
常に罪/問題を見つけ、
それを解決することが、
私が解放される唯一の手段だと信じてきたのだ。
だがそれこそが自我が用いる手段だった。
ずっとこの世界に注目させ続けたいのだ。
なぜなら、この世界自体が自我によって作られたものだから。
社会に常に問題が生じるのも、その問題を見つけ、解決するために取り組んでほしいから。
そうやっていつまでもこの世界を維持させ続けることが狙い。
だからブッダは、この世界に注目するなと言った。これは夢でしかない。幻なのだと。
問題に取り組んで、問題を解決した瞬間、私たちは開放感を味わう。
その開放感が喜びにつながるので、私たちはそれを追い求める。
だからこそ、罪を探す。
でもそうじゃなかった。
一瞬の解放による喜びは、自我が与える飴と鞭。
99%の努力に、1%のご褒美をもらえるような、
そんな小さな喜びを得るために努力することではなかった。
この世界には、苦痛を何一つ解決できるものはない。
自我はこう言う。
「探せよ。されど見つけることなかれ」
私は罪を見ることをもうやめようと決めた。
罪や問題に気がつくたびに、今、自分は自我の視点に立っていることに気づき、
立ち止まり、
これを聖霊と共に見たいという意欲をそっと持つ。
問題を解決しようとしている自分に気づき、
「私には何もわからない」と、一歩退き、
聖霊の視点を教えてほしいと頼む。
教えてほしいと頼むと、答えてくれるかどうかは問題ではない。
言葉で帰ってくることは滅多にない。
けれども違う視点が起こり始める。
自我と共に、自我と一緒に考えてきた私が、
別の視点を知りたいと切に願い始めた。
この頃光でものを見るようにしている。
山や高速道路の巨大な柱を光で見る。
それまで重たい感覚だった山やコンクリートの塊である柱が、
急に軽く見える。
それは今まで物理的にものを見ているから、重さを感じていたのだと知った。
自分も兄弟も光で見る。
それが聖霊の見ている視点だと知る。
喜びが満ちてくる。
罪を見ている頃は感じもしなかった喜び。
ただ何もしないでそこにいるだけで、
喜びが溢れてくる。
絵:「秋山」