いつもの散歩コースの途中に幼児園がある。
その幼児園の隅っこで、池もないのに空中に釣り糸を垂れている男の子を見た。
その先っちょには、数本束ねた草。草で何を釣ろうというのか。
「何を釣るの?」声をかけた。
男の子は、前歯のない歯を見せて、にま~~っと笑った。
屈託のない笑顔。見知らぬ人に警戒する様子もない。彼は黙ってすっと向こうを指差した。その先にあるのは民家。彼はその草で何を釣ろうとしていたのかわからなかった。よく見ると耳に補聴器のようなものがついている。
私は「いいもの釣れるといいね」そう言い残して手をふった。彼も嬉しそうにバイバイと手をふった。
その時、数日前に幼児園の脇の道で、唐突に私に手をふってくれた子が、彼だったことに気づいた。
三度目に彼と再会したのは、散歩コースの途中の坂道。お母さんとおんぶされた弟さんと三人。遠くにもかかわらず彼はすぐに私に気がついて、手をふった。
それから私たち四人は、出会うとなんとなくいっしょに散歩するようになった。彼は私と会うたび、前歯のない歯を大きく見せて、笑ってくれる。
歩きながら彼に話しかけようとしてはたと止まる。
そうだ、言葉は聞こえないんだ。
私たちはコミュニケーションに言葉を使う。「どう?元気?今日、何した?」
そんな普通の会話ができないもどかしさがあった。
しかし彼の中にそんなもどかしさなどない。前を歩きながら私をふり返って笑う。車を指差して笑う。それだけで充足しているように見えた。
考えてみれば、私たちの感覚を五つに分けるというのもおかしな話だ。
彼を五感の一つが足りない人と言えるのだろうか。人の感覚はひょっとしたら、六感も七感も、下手したら、百感もあるのかもしれない。宇宙人が見たら、地球人はなんて感覚の少ない種族なんだと思っているかもしれない。さらに言えば、彼は五感以上のものを持ち合わせているのかもしれないのに、私たち大人が知っている五感のみに焦点を当て、足りているとか足りていないというレッテルを張る。
なんてことをブツブツ考えながら、いっしょに歩く。彼はそんな私におかまいなし。ただただ黙っていっしょに歩く喜びを感じている。
そのとき私の中に別の感覚が生まれた。
私たちに会話は必要だろうか。
言葉があると、私たちはその言葉に頼る。その場をなんとなくしのぐアイテムにもする。
そうやって、私たちは互いを言葉で埋めようとしているのではないか。だが言葉でそれを埋めようとすればするほど、そこに微妙な言葉の捉え方の違いを感じ、さらに互いの違いを知り始めるのではないだろうか。
夫婦がいい例。どれだけ会話をしても埋まらない何かを感じる。五感を使えば使うほど、遠くなる。
私は彼のことが大好きだ。そして彼も私のことが大好きだ。
互いに目を合わせれば、それが即感じられる。
それだけでいい。それこそが会話なのだ。
いっしょに何かをしようか?と提案する必要も、何かをあげる必要もない。
ただそのままで、何もしなくて、ただそこにいるだけで喜びがある。
何もいらない。五感を使う必要もない。存在と存在が互いの喜びを分かち合って、またさらに喜び合っている。
私は小学生の時、知的障害のある子供たちのクラスを覗くのが好きだった。普通のクラスでは毎日毎日何かを教えられて、さらにそれをちゃんと学んだかどうだかテストされる。クラスの他の生徒たちからどんどん離されていく自分を感じいたたまれなくなる。
そのクラスは、そこでうんこもおしっこもしちゃうけれど、何かわからない温かいものが流れていた。いつもみんな笑っていた。私のクラスからはじょじょに笑いが消えていたというのに。
なぜ人は、褒められなければいけないのだろう。
なぜ人は褒められるために何かをしなければいけないのだろう。
成績が良くなって先生や親に褒められて、その人の居場所を作ることは、他人がルールの基盤になっている。それはどこか心を苦しくさせる。なぜならその人には、何もせずにそのままでいてはいけないという無言の圧力が忍び込んでくるからだ。
耳が聞こえるようになって、一般人と同じになって、初めて一人前になるとはどういうことだろうか。
彼は音のない世界で何かを感じている。
音のない世界がどれだけ心に静寂をもたらすことか、私は一度だけ体験したことがある。あの静寂さは何物にも代え難いものだった。
自我の言葉は音だ。心は言葉という音であふれている。
声は容赦なく私たちに「これが問題だ」と次々に苦しみを与えてくる。今の彼にはその苦しみはない。だが耳が聞こえるようになり、言葉を知り、一人前になり、そして私たちと同じように苦しみも知り始めるのだろうか。
彼の人を疑わない屈託のない笑顔はその静寂さからきているのかもしれない。ただこの世界を見て、その美しさを味わっている。そんなふうに見えた。
「彼に、美しいものキレイなものを見せてあげてください」
人のお子さんに、そんなおこがましいことを言える立場ではないと思いながら、つい口から出てしまった。
彼の意識は今、目の前に展開するものを私たち以上に感じているにちがいない。その視覚のすべてに、たくさんの美しいものを注ぎ込むことは、これからの彼の人生に喜びの基盤ができるのではないだろうか。その喜びは彼に世界を乗り切る力を与えてくれるだろうと思った。
そして三月半ば、彼は幼児園を卒業していった。
後日、親子三人でうちを訪ねてくれた。
彼が来月からろう学校に入学するため、家族みんなで引っ越すのだそう。
彼が来月からろう学校に入学するため、家族みんなで引っ越すのだそう。
短い、ほんの数分いっしょに散歩をするというおつきあいだったけれども、私の中にとても大きなものを残してくれた彼。
なんの言葉も交わさずに、ただそこにいっしょにいる。
何もしなくてもいい。
ただそこにいるだけで、心が通う。
ただそこにいるだけで、心が通う。
そんな体験を彼は私に与えてくれた。
この体験がどれだけ私に気づきを与えてくれたことか。
この出会いを心から感謝します。
ありがとう、ぼく。
最後に彼が手渡してくれたお母さん手作りのゆずジャム。とても美味しかった。
彼はそれをいつも心から楽しんでいることだろう。
その喜びが、人から人へと、空から空へと伝播して、
世界に広がっていきますように。