2020年3月22日日曜日

不思議な子に出会った





いつもの散歩コースの途中に幼児園がある。
その幼児園の隅っこで、池もないのに空中に釣り糸を垂れている男の子を見た。
その先っちょには、数本束ねた草。草で何を釣ろうというのか。

「何を釣るの?」声をかけた。
男の子は、前歯のない歯を見せて、にま~~っと笑った。

屈託のない笑顔。見知らぬ人に警戒する様子もない。彼は黙ってすっと向こうを指差した。その先にあるのは民家。彼はその草で何を釣ろうとしていたのかわからなかった。よく見ると耳に補聴器のようなものがついている。

私は「いいもの釣れるといいね」そう言い残して手をふった。彼も嬉しそうにバイバイと手をふった。
その時、数日前に幼児園の脇の道で、唐突に私に手をふってくれた子が、彼だったことに気づいた。

三度目に彼と再会したのは、散歩コースの途中の坂道。お母さんとおんぶされた弟さんと三人。遠くにもかかわらず彼はすぐに私に気がついて、手をふった。

それから私たち四人は、出会うとなんとなくいっしょに散歩するようになった。彼は私と会うたび、前歯のない歯を大きく見せて、笑ってくれる。
歩きながら彼に話しかけようとしてはたと止まる。
そうだ、言葉は聞こえないんだ。


私たちはコミュニケーションに言葉を使う。「どう?元気?今日、何した?」
そんな普通の会話ができないもどかしさがあった。
しかし彼の中にそんなもどかしさなどない。前を歩きながら私をふり返って笑う。車を指差して笑う。それだけで充足しているように見えた。

考えてみれば、私たちの感覚を五つに分けるというのもおかしな話だ。
彼を五感の一つが足りない人と言えるのだろうか。人の感覚はひょっとしたら、六感も七感も、下手したら、百感もあるのかもしれない。宇宙人が見たら、地球人はなんて感覚の少ない種族なんだと思っているかもしれない。さらに言えば、彼は五感以上のものを持ち合わせているのかもしれないのに、私たち大人が知っている五感のみに焦点を当て、足りているとか足りていないというレッテルを張る。

なんてことをブツブツ考えながら、いっしょに歩く。彼はそんな私におかまいなし。ただただ黙っていっしょに歩く喜びを感じている。

そのとき私の中に別の感覚が生まれた。
私たちに会話は必要だろうか。

言葉があると、私たちはその言葉に頼る。その場をなんとなくしのぐアイテムにもする。
そうやって、私たちは互いを言葉で埋めようとしているのではないか。だが言葉でそれを埋めようとすればするほど、そこに微妙な言葉の捉え方の違いを感じ、さらに互いの違いを知り始めるのではないだろうか。
夫婦がいい例。どれだけ会話をしても埋まらない何かを感じる。五感を使えば使うほど、遠くなる。


私は彼のことが大好きだ。そして彼も私のことが大好きだ。
互いに目を合わせれば、それが即感じられる。
それだけでいい。それこそが会話なのだ。

いっしょに何かをしようか?と提案する必要も、何かをあげる必要もない。
ただそのままで、何もしなくて、ただそこにいるだけで喜びがある。
何もいらない。五感を使う必要もない。存在と存在が互いの喜びを分かち合って、またさらに喜び合っている。



私は小学生の時、知的障害のある子供たちのクラスを覗くのが好きだった。普通のクラスでは毎日毎日何かを教えられて、さらにそれをちゃんと学んだかどうだかテストされる。クラスの他の生徒たちからどんどん離されていく自分を感じいたたまれなくなる。
そのクラスは、そこでうんこもおしっこもしちゃうけれど、何かわからない温かいものが流れていた。いつもみんな笑っていた。私のクラスからはじょじょに笑いが消えていたというのに。


なぜ人は、褒められなければいけないのだろう。
なぜ人は褒められるために何かをしなければいけないのだろう。

成績が良くなって先生や親に褒められて、その人の居場所を作ることは、他人がルールの基盤になっている。それはどこか心を苦しくさせる。なぜならその人には、何もせずにそのままでいてはいけないという無言の圧力が忍び込んでくるからだ。

耳が聞こえるようになって、一般人と同じになって、初めて一人前になるとはどういうことだろうか。

彼は音のない世界で何かを感じている。
音のない世界がどれだけ心に静寂をもたらすことか、私は一度だけ体験したことがある。あの静寂さは何物にも代え難いものだった。

自我の言葉は音だ。心は言葉という音であふれている。
声は容赦なく私たちに「これが問題だ」と次々に苦しみを与えてくる。今の彼にはその苦しみはない。だが耳が聞こえるようになり、言葉を知り、一人前になり、そして私たちと同じように苦しみも知り始めるのだろうか。


彼の人を疑わない屈託のない笑顔はその静寂さからきているのかもしれない。ただこの世界を見て、その美しさを味わっている。そんなふうに見えた。

「彼に、美しいものキレイなものを見せてあげてください」
人のお子さんに、そんなおこがましいことを言える立場ではないと思いながら、つい口から出てしまった。

彼の意識は今、目の前に展開するものを私たち以上に感じているにちがいない。その視覚のすべてに、たくさんの美しいものを注ぎ込むことは、これからの彼の人生に喜びの基盤ができるのではないだろうか。その喜びは彼に世界を乗り切る力を与えてくれるだろうと思った。

そして三月半ば、彼は幼児園を卒業していった。



後日、親子三人でうちを訪ねてくれた。
彼が来月からろう学校に入学するため、家族みんなで引っ越すのだそう。
短い、ほんの数分いっしょに散歩をするというおつきあいだったけれども、私の中にとても大きなものを残してくれた彼。

なんの言葉も交わさずに、ただそこにいっしょにいる。
何もしなくてもいい。
ただそこにいるだけで、心が通う。

そんな体験を彼は私に与えてくれた。

この体験がどれだけ私に気づきを与えてくれたことか。
この出会いを心から感謝します。
ありがとう、ぼく。

最後に彼が手渡してくれたお母さん手作りのゆずジャム。とても美味しかった。
彼はそれをいつも心から楽しんでいることだろう。

その喜びが、人から人へと、空から空へと伝播して、
世界に広がっていきますように。


2020年3月7日土曜日

この世の幸せはちょーみじかっ





幸せとは何か?
って考える。

小さいとき読んだおとぎ話。
「王子様とお姫様は結婚をして、ずーーっと幸せに暮らしましたとさ。ちゃんちゃん」
と、こうなるもんだと思っていたが、
実際はそうはならなかった。

「旦那と私は一緒になりましたが、末長くしょっちゅうケンカをしましたとさ。ちゃんちゃん」
まさにちゃんちゃん、だ。



幸せはどうも短い。
ケーキ食べたとき幸せ、そやけど食べ終わるとおしまい。
学校に合格した。やった!って思うのはその時だけ。あとは勉強で苦しい。
仕事が来た!やった!って思うけど、そのあとはプレッシャーで苦しむ。
お金が入った!やった!って思うけど、今度は減っていくのが恐ろしい。
麦汁で一杯目はうまいが、だんだん腹一杯になる。

なったことないが、有名人になったとしても、社長になったとしても、権力持ったとしても、
一瞬嬉しいけど、その後はそれを維持するために、売り上げを伸ばすために、汚名を被らないために、ひたすら奔走することになる。

おとぎ話で読んだ「ずっと幸せ」なーんてどこにもなかったのだ!
なんだこのやろう。



この世の幸せは、何かをすることによって得られている。
何かをする。
つまり何かを「しなければ」幸せは得られない、という暗黙の条件が引っ付いていたのだ。

あゆみちゃんは綺麗なおべべを着ないと幸せな気分になれない。
哲次くんは100点満点をとって幸せになる。

幸せは「ただそこにぼーっとしてて、得られるもの」ではなかったのだ。
私なんか、窓の外見てぼーっとしてたら、先生に怒られた。

常に誰かの賞賛を浴びないと幸せはやってこない。
つまり誰かに都合のいいようにならないと褒められないのだ。
私なんか、海の岩に跳ねる、すっごく気に入った波の絵を描いたのに、先生に怒られた。



話がズレた。そこじゃない。

幸せは「何かをする」ことによって得られている。
それは逆に言えば、「何もしないと」幸せは得られない、ということを暗示している。

つまりつねに何かをしなければ私は幸せじゃないと無意識に思っているのだ。だからフェイスブックが流行る。リア充が流行る。つねに何かをしている私をアピールできる場所だからだ。

することによって得られる。
それは時間を意味している。



うちの近所にイーアス高尾ってのがある。イーアスは、良い明日って意味だ(と思う)
良い明日の高尾って意味だ。それはそれで良い名前だ。私も個人的に好きな場所だ。


で問題は、私たちは明日や未来を、希望や夢というふうにとらえて、
「良きことが来るところ」と思っているフシがある。
それのどこが問題なのだ?

未来は幸せの象徴。明日こそ、私は幸せになれる!という思い。素敵じゃないか。
しかしその言葉をナナメ読みすると、「今は幸せじゃない」と言ってるのだ。
今は幸せじゃないから、明日こそ幸せになろう!と言っている。

んで、その明日になると、その明日が今日になっても、また明日こそ幸せになろう!という。
これじゃいつまでたっても今幸せにはなれないじゃないかー。
私たちは知らない間に未来に幸せを求め、今を違うとしていたのだ。


これが「することによって得られる幸せ」。
何もしなければ幸せはやってこないという代物。しかもそれは超短い。だからまた別の幸せを求めて、何かをやろうとし続けるのだ。

これを探したら、あれを見つけたら、、、そうやって私はここにはない何かを求め、それをあと押しをする心のおしゃべりに気がついた。
「まだ何か足りないのだ、さあ、探すのだ」と私をそそのかす声を。

その声に気がついた時、初めてその声を外に聞いた。
「これは私の声ではない。。。。
私を突き動かすその声は私を破壊にしか導かない。。。」


私はその声を通り越して、その向こうに降りていった。。

そのおしゃべりのずっと下の方に、静かな海があった。
海の波がいつもざわめいている表層から遠く離れた、そのずっと下の方に、なにものにも影響されない平安があった。

することではなく、あること。
そういう言葉がよぎる。

仕事の手を止めて、目を閉じる。
何かになろうとも、何かを考えようとも、何かを見つけ出そうともしない。
ただそのままで、じっとする。
誰でもないもののままで。



小さい時、何かになれとか、何かをせよと言われるのではなく、
あなたはそのままでいいと言われたなら、
その子は、きっとただそのままで心は平和だろう。

6歳の時、塀の上に登って向こうに見える水平線を眺めていたひとりの少女のように。















2020年3月2日月曜日

こんぴらさんに行ってきた




ひょんな縁で、近所のこんぴらさんに行って来た。
高知生まれなので、何度か琴平の金刀比羅宮に連れて行かれた記憶がある。

地元のおじさんに聞いて、正規のルートじゃなく、ナビにも載ってないけもの道みたいな山の急斜面に沿って上がっていく。
「本当につくんだろうか。。。」
「これ、やばくね?」いちいち独り言が出る。
いやいや。地元の人に聞いた道だ。これで間違いはない。。。か。。?
疑いと信頼が行ったり来たり。
尾根道を上ったり下がったりしながら、正規の道を上ってくる方々を見つけほっとする。

ゼーゼーいいながらたどり着くと、そこには山の頂上の小さな空間にひっそりと建った浅川金刀比羅神社。周りを木々に囲まれ、そこに神社があるなんて誰もわからないだろう。


「一度おいでください」
そうおっしゃったのは、不思議な縁でここの神主になられた方。女性の神主さんなんて初めてだあ。
私が描いた『古事記のものがたり』の表紙の絵が縁で、フェイスブックで知り合った。

「毎月第一日曜日はピクニック。毎月10日に月例祭を行います。よかったらお越しください」

今日はそのピクニックの日。
来られる方々が一人一品づつ持ち寄って、そこで楽しい時間を過ごすのだ。私はそのシステムがわからなかったので手ぶらで来た。それでも歓迎してくださる。
氏子でもなければ、日本人でなくてもいい。ただそこに来た人をもてなす心の広さがあった。

私はその後ダンナとの約束があったので失礼したが、高尾駅に向かう尾根道で、自転車で上がってくるおじさま達に出会った。
「神社まであとどのくらいですか?」
「あと十分もないですよ」
この尾根沿いで狭い、しかも急な坂道を自転車で。。。。ものすごいなあと感心する。


翌日、フェイスブックで昨日のピクニックの様子が載っていた。あの狭い空間にじつにたくさんの人!
神主さんの彼女も、「自粛ムード溢れる中、こんな会を催していいのだろうか、何より人が集まるのだろうかと思ってましたが、いつも以上の大賑わい!」とびっくりされていた。
「コロナ予防は、みんなで、バカになることだ〜!」
そう言って、みんなは幸せの渦の中にいたようだ。



宗教の世界から離れてしばらく経つ。
あれだけ聖地巡り、神社仏閣巡りをしてきた私は今は町内会の御神事に参加するだけ。どこの神社仏閣、聖地にもいかなくなった。それは外に自分の幸せを探しにいかなくなったからだった。

昨日は祝詞をあげていただきながら、お祓いをしていただきながら、温かいものを感じていた。



形ではないのだ。
最近はそう思えるようになってきている。
大事なのは思い。人々が幸せになるようにという思い、それだけでいいのだ。
それがどんな形を取ろうとも。

フェイスブックに写った人々を見ながら、熱いものがこみ上げてくる。なんと幸せそうな人々の顔、顔、顔。
この幸せは、それぞれが自分たちの街に持ち帰って、広がっていくのだろう。


コロナの一件は、人々の恐れがどんなふうに蔓延していくのかを教えてくれている。
しかしその反対に、幸せな心はどんなものも通り過ぎていく強さを持っている。
免疫力とはすなわち、幸せな心そのものではないだろうか。

昨日は大事なものを教えてもらった。
ありがとうございます。



絵:『古事記のものがたり』表紙イラスト