私は罪深いと思い続けて半世紀(笑)。
コースを学び始めてから、なんで私にこんなにも罪悪感があるのかを教えてもらった。
罪悪感についてこれほど丁寧に説明してくれている本は、世界中探してもないだろう。
読むほどに、なるほどなるほど。そうか!と納得し、うなずく。
しかしその「罪」が、単なる「間違い」だったというのがコースの考え。
「はい~?罪が単なる間違いだとお?!
んなことあるわけない。ないない。罪は罪だろ!」
と、テキストに書かれてあることに抵抗し、そっちへの考えへの移行がなかなかできずにいた。
それが今は少しずつそっちへの移行が起こっている。
それは非常にありがたく、毎瞬の不快に気がつき、そこにある信念を見つけ、聖霊に手渡して行く過程は嬉しい。渡すほどに軽くなっていく自分を知るからだ。
私はどうして罪という重々しいものが、単なる間違いへと変わっていったのか、あまり自覚がなかった。でも罪悪感を自覚したら、逆にそれに囚われてしまって、そこから出られなくなるようなことも起こる。ミイラ探しにいったら、自分がミイラになっちゃった、みたいな?
それでなんとなく思い出したことがあるので、書いてみる。
罪と罰はセットになっている。
罪というものは意識されなくても、心の中にあるものは外に現れてくるので、自然と罰を欲する。
ほら、嫌なことが起こると一瞬心が「私、なんか悪いことした?!」
って思いがよぎるじゃない。あれ。
隠し持っていても、「私はどっかで、知らないうちに悪いことしちゃっている」という思いがあるからなのだ。
嫌な出来事だけじゃない。
一瞬くるイヤ~な思い。
これも罰の一つ。
「罪」から「単なる間違い」への移行は、この嫌~な出来事が「これ、自分への罰じゃね?」と気づいたことだ。
つまり無意識的に自分を罰することを望んでいるわけ。
なんでこんなことするかというと、「罪を償えば、刑が軽くなる」というこの世界の法則を自分に与えているから。
そして犠牲の精神。
ちょっとでも苦労をした方が、あとあといいことがやってくる♪的なやつ。
これはどっちも閻魔様がいるという仮定だ。
閻魔様は、自我が作り出した偽物の神様。
その神様のご機嫌を取りながら生きろというのがこの世界の考え。
その考えに合わせて生きることは、つねに自分を罰する方向になる。
時々、いきなり、ひょんな事で、嫌な出来事がくる。そういう人生。
それはベースにあるのが、自分は有罪だという隠し持った信念があるからだ。
そういう考えがある限り、ずっと怯えて生きることになる。
いつかどこかで、とんでもないことが起こるぞ。。。ひえ~。。と。
「私は私を罰している!」
と気がついた。
「なんやこれ!いらんいらん。こんな考え!」
と思った時に、その理由が見えた。
罪だ。。。。
それまで、私は私のどこかで、自分には罪があるということを、
なんか、、、美徳のような?感じでとらえていた。。。
真面目で、謙遜して、生きてる、、、。
あ。そうだ、真摯なぶ厚い信仰心をもった修道女みたいな、、、。
そして罪を感じているのはとてもいいことのような、
そんな気持ちだったことに気がついたのだ!
コースのいう「罪の魅力」がそれなんだろうか。SMチックなやつ。
自分をムチ打って神にこう、みたいな?
「罪」がもたらす結果/影響をはっきり見たときかもしれない。
そこら辺りからだと思う。
嫌なことなんか、もういらん。こりごり。
嫌なことで罰与えたって、罪が消えるわけじゃない!
罪があると主張するのは自我。
そこにおったら、死ぬまで罪びとだ。
罪に価値を見出していた自分に気がつき、そこにいる意味はないと知ったのだ。
選べることができるとはすごいことじゃないだろうか。
自分で有罪か無罪かを選べる。
どっちに価値があるかを見たのだ。
無罪であるなら、なんの罰も与えることはない。
自分が無罪であるなら、当然兄弟も無罪だ。
そこにはなんの攻撃も防衛もない。
自分が罪を選ばないことで、
自然と罪は単なる間違いなのだと信じられるようになってきた。