2023年8月30日水曜日

罪は単なる間違いというコース

 




私は罪深いと思い続けて半世紀(笑)。


コースを学び始めてから、なんで私にこんなにも罪悪感があるのかを教えてもらった。

罪悪感についてこれほど丁寧に説明してくれている本は、世界中探してもないだろう。

読むほどに、なるほどなるほど。そうか!と納得し、うなずく。


しかしその「罪」が、単なる「間違い」だったというのがコースの考え。


「はい~?罪が単なる間違いだとお?!

んなことあるわけない。ないない。罪は罪だろ!」


と、テキストに書かれてあることに抵抗し、そっちへの考えへの移行がなかなかできずにいた。


それが今は少しずつそっちへの移行が起こっている。

それは非常にありがたく、毎瞬の不快に気がつき、そこにある信念を見つけ、聖霊に手渡して行く過程は嬉しい。渡すほどに軽くなっていく自分を知るからだ。



私はどうして罪という重々しいものが、単なる間違いへと変わっていったのか、あまり自覚がなかった。でも罪悪感を自覚したら、逆にそれに囚われてしまって、そこから出られなくなるようなことも起こる。ミイラ探しにいったら、自分がミイラになっちゃった、みたいな?

それでなんとなく思い出したことがあるので、書いてみる。




罪と罰はセットになっている。

罪というものは意識されなくても、心の中にあるものは外に現れてくるので、自然と罰を欲する。


ほら、嫌なことが起こると一瞬心が「私、なんか悪いことした?!」

って思いがよぎるじゃない。あれ。


隠し持っていても、「私はどっかで、知らないうちに悪いことしちゃっている」という思いがあるからなのだ。


嫌な出来事だけじゃない。

一瞬くるイヤ~な思い。

これも罰の一つ。


「罪」から「単なる間違い」への移行は、この嫌~な出来事が「これ、自分への罰じゃね?」と気づいたことだ。


つまり無意識的に自分を罰することを望んでいるわけ。

なんでこんなことするかというと、「罪を償えば、刑が軽くなる」というこの世界の法則を自分に与えているから。


そして犠牲の精神。

ちょっとでも苦労をした方が、あとあといいことがやってくる♪的なやつ。


これはどっちも閻魔様がいるという仮定だ。

閻魔様は、自我が作り出した偽物の神様。

その神様のご機嫌を取りながら生きろというのがこの世界の考え。




その考えに合わせて生きることは、つねに自分を罰する方向になる。


時々、いきなり、ひょんな事で、嫌な出来事がくる。そういう人生。

それはベースにあるのが、自分は有罪だという隠し持った信念があるからだ。


そういう考えがある限り、ずっと怯えて生きることになる。

いつかどこかで、とんでもないことが起こるぞ。。。ひえ~。。と。



「私は私を罰している!」

と気がついた。


「なんやこれ!いらんいらん。こんな考え!」

と思った時に、その理由が見えた。


罪だ。。。。



それまで、私は私のどこかで、自分には罪があるということを、

なんか、、、美徳のような?感じでとらえていた。。。


真面目で、謙遜して、生きてる、、、。

あ。そうだ、真摯なぶ厚い信仰心をもった修道女みたいな、、、。

そして罪を感じているのはとてもいいことのような、

そんな気持ちだったことに気がついたのだ!


コースのいう「罪の魅力」がそれなんだろうか。SMチックなやつ。

自分をムチ打って神にこう、みたいな?


「罪」がもたらす結果/影響をはっきり見たときかもしれない。


そこら辺りからだと思う。

嫌なことなんか、もういらん。こりごり。

嫌なことで罰与えたって、罪が消えるわけじゃない!


罪があると主張するのは自我。

そこにおったら、死ぬまで罪びとだ。




罪に価値を見出していた自分に気がつき、そこにいる意味はないと知ったのだ。


選べることができるとはすごいことじゃないだろうか。

自分で有罪か無罪かを選べる。


どっちに価値があるかを見たのだ。


無罪であるなら、なんの罰も与えることはない。

自分が無罪であるなら、当然兄弟も無罪だ。

そこにはなんの攻撃も防衛もない。



自分が罪を選ばないことで、

自然と罪は単なる間違いなのだと信じられるようになってきた。





絵:MF新書表紙イラスト




2023年8月27日日曜日

不安行きのチケット

 


この頃、朝起きてやって来る不安感。

これ、なんの意味もないんじゃね?と思い始めた。

朝だけじゃない。昼間も、夕方も、夜も、不意にやって来る不安感。


どうも単なる自我からの誘惑に思えてきた。



昔だったら、不安感がやって来ると、

「ん!?これはひょっとしたら、何か嫌なことが起こる前兆のサインをくれているんではないか???」

と、その不安感に感謝したもんだ(笑)。


その後、すぐやってきたのか、何週間後にやってきたのか定かではないが、不安的中な出来事が起こる。

「ほーら!ほらほら!やっぱし、あの時の不安はこれだったのよー!」

と、どこか満足げだ。


そうやって、私は不安をあおる思いを、もしかしたらこの能力を高めていったら、そのうち預言者みたいになり、自分にやって来る不幸を全面的に回避できるかもしれない!とかなんとか思ってた。


で、今。

これはどうも全く意味のないもんなんじゃないか?と。

そう思って色々確認したら、勝手にビビって、勝手に右往左往させられているだけだと気づく。


その不安感が、この世界でどうにかして、どうにか対処しようとさせるささやき。

これって完全にこの世界の中でウロウロさせるためのものじゃないか。どこが預言者やねん!


不安の内容は、体、お金、人。形は少々違っていても、どれもこの中に当てはまる。

もしこうなったら、もしああなったら。そればっかり。

過去のことを思い出し、未来を不安がる。


この状態は、過去と同じ未来を作り上げる。

過去の延長線上に未来を求めるからだ。


私はもう過去の延長線上の未来なんかいらない。

だってこちとら62歳。だいたいのパターンは見えている。

つまらん。実につまらん。



この不意に起こる不安は、過去と同じ未来へのお誘いだ。

「こっちよ~。こっち。あなたの行く道はこっち~。

ほらほら、過去から続く未来への線路が目の前にあるでしょ~。

それに乗っかってこれからも行きましょうね~」




それを選ばないとどうなるのか。

線路がない。


不安行きのチケットを買わないでいるとは、

全く線路がない、草っ原の上に立つってことだ。


それは「今」というところに立つことだ。

どっちに向かっているのかもサッパリわからないところだ。



「あなたが計画した牢獄から解放される道が一つあり、それが唯一の道である。

それはあなたが作り出さなかった計画に従うことである」






絵:ミステリー表紙イラスト




2023年8月26日土曜日

「真の赦し」を考える


 

「真の赦し」についてずっと考えている。



通常の許しは、彼らがやったことに対して、心が広いから許してやるというものだ。

しかしこれは本当に許したことになるのだろうか。

なぜなら、既に罪があると断定した上で許すことは、

つまりなかったことにすることは、できないからだ。

そしてその許しの仕方は、必ず罰を要求する。

それがこの世界の罪と罰のあり方だ。



しかし「真の赦し」とは、本当は彼らが何もしていなかったからこそ、赦すことだ。

このことの意味が、最初は全くわからなかった。しかし徐々に腑に落ちてくる。



実は最初に罪を作り上げたのは私なのだ。


私の心に「罪」を隠し持っているがゆえに、それを兄弟に見る。これを投影という。

自分の中にある信念が、兄弟をそう見る。


原因はこの私の心にある。


罪があるとおもっているから、その形を作り出す。

そしてその形のせいで私は不快だと思っている。

それを外に見て、その外にあるもののせいにしていたのだ。




すべての責任は私にある。

私がそれを作り出したからだ。

でもそれは私には罪があると思っていたからこそ、作り上げたもの。


だからこそ、兄弟のことは一切責めない。

その責めないところにとどまる。


そのとどまった瞬間が、自我から聖霊への視点の転換地点。


聖霊を選ぶ時、「私に罪がある」から、「私に罪はない」へと入れ替わる。


すると罪によって「作られた」原因である形は、罪がないという原因のない状態になり、

形は維持されず消えていく。


これが「彼らが何もしていなかった」というところにたどり着く。



罪があるということが、形を作り上げ、

罪がないということが、形なきものに変えていく。


罪のないものが、どう赦されるというのだろうか。

赦すもクソもない。


こうやって兄弟は解放される。


兄弟を罪という鎖で縛っていたのは他でもないこの私。

その鎖を見ることは、ただ聖霊に渡されるためにある。


私と、兄弟を苦しめ続けていた「有罪」という鎖(闇)は、

「無罪」という光にあたり、消えていく。




絵「coopけんぽ」表紙イラスト






2023年8月12日土曜日

聖霊のビジョン


 

ああ、私は人を全然信用してない!

そう思った時、私が隠し持っている信念を教えられた。


「私は人を信用していない」

という信念を聖霊に渡して、訂正をお願いした。


しかしその後、これって相当根深い信念だよな。

簡単に聖霊に渡して消えていくものなんだろうか?


そもそもこの信用していないというのは全てに通じていて、

元々は一番自分自身を信用していないことなんじゃないか。



これは他の信念と同じレベルじゃないぞ。

聖霊さん、これをどう見ればいいの?


その時、先日一瞬見た光景を思い出した。

目の前に現れている光景は、本当のものじゃないと感じたあの瞬間のことを。


そこで気がついたのだった。


この目の前にあること、

もしくは今頭に描いている人のことを信用していないと思うこと自体が、

私が自我の視点で見ているということだ。


自我は常に裁きの目で見る。


ということは、私は今その自我の知覚の目で見ているわけで、

その目で見ている限り、絶対に人を信頼することなどできない!


であるならば、その視点は使わない。

その見えているものを通り過ぎて、聖霊の視点で見ようと試みる。


聖霊のビジョンは赦しの目。全てを暖かく包み込む心眼。



私は知覚で捉えられる兄弟の姿を通り越して、

その先にある本当のものを捉えようとする。


見るなのか、観るなのか、捉えようとするのか、よくわからない。

しかしその向こう側を見ようとする試みが大事なのだ。

その時、たしかに自我の場所にはまったく立っていないのだから。



そうトライすることによって、

徐々に兄弟が何をやっているのか、どう言ったのか、

などが、だんだん霞み始め、その本質だけに到達する。



それまでの解釈は跡形もなく消え、

そこに喜びと、拡張されて行く愛だけが残った。





絵:「hair」