2025年6月30日月曜日

ただいま〜!


 

昨日映画「リバー、流れないでよ」を見た。


京都の貴船の料亭を舞台にしたタイムループ物語だ。

たった2分間だけがずっと繰り返すというコメディ。


3分の2まで見て、2分間を繰り返している話に飽きてしまった。


映画を見るのをやめた後で、

これ私に起こっていることなんかもなあと思った。

輪廻転生って、こういうことなんかもと。



こっから先はまともな人はスルーしてください。

私の妄想劇が始まります。


私はなんども生まれ変わっていると思っている。

原始時代にいた私がいて、縄文時代に生きてた私がいて、江戸時代にいた私がいて、

ある時はインド人、ある時はイタリア人と、勝手に思っている。


でもそもそも原始時代はあったんだろうか。江戸時代もあったんだろうか。

縄文土器が出てきたからあったと思っている。

江戸時代の巻物が出てきたからあったと思っている。


でも本当にあったのか?

だって教科書に出てたもん!

でも教科書だって私が見たいように作ったのかもしれない。


そう思うとリニア式に時間の流れに沿って

過去から未来に流れてるって考えが怪しくなってくる。


ひょっとしたら、今人間として生きている私っていうものも、

あの映画のように2分間の人生を繰り返しているだけだったりしたら?


2分間じゃないけど、朝起きて夜寝るまでのドラマ。

18時間くらい?

それをただ繰り返しているだけだったりして。


昨日と今日は出来事が違うし、

ちょっとづつ老けていってる自分を見て、

時間が過ぎているように思える。


でもそれも単なる記憶。

記憶があるから、少しづつ進んでいって、変化している、、、、だから時間はあると。


ひょっとしたら、時間は私の中にしかなかったりして。


幼い頃、この目の前に見えている世界は、

私が見るからあるのだと思っていた。

見えてない部分は存在しないと。


だから私の後ろはないのだ。

どうにかしてその「無」を目撃してやろうと、

ものすごいスピードで振り返って「無」を見ようとしたが、

無はすばやく消えて後ろの風景が広がっていた。

ほら、世界はあるだろ?と言わんばかりに。


それと同じだ。時間も私の中にしかない。

私の中で時間と空間はひたすら輪廻しているのだ。

あの映画の2分間は、私の1日だ。





この世界に気を取られて、それしかないと思い込んで、

その中でどうにかして賢い生き方をしようと懸命に努力する。

でもこの世界は知れば知るほど地獄だ。

母は死ぬような思いで子を産み、

その子もまた泣きながら生まれてくる。

この世界にやってくること自体が苦しいものだということを暗示しているかのような現象だ。


頭は完全にこの世界の法則にのっとって考えている。

私たちは自分の人生がどうなるべきかを知っていると思っている。

だからこそ、この世界をずっとループしているのだ。

同じ時間をひたすら繰り返すという輪廻転生。


あの映画を見たとき、面白くないと思った。

たった2分間をひたすら繰り返す。

それがどれほど退屈か。

あの映画は意図せずしてそれを教えてくれていた。


同じ感覚、同じ考えでこの世界で生きている限り、

そのループから離れることがない。


「もう、こんな繰り返しはたくさんだ。。。」

そう思い始めたとき、


この世界に同調することができなくなってくる。


そうすると、目の前に見えている世界ではないところに心が向かい始める。

五感を越えて、思考を越えて、感情も越えて、

今にいる。


今は時間ではない。

今の中に全ての秘密がある。


ただ、今にいる。

今に帰る。



「ただいま〜」


放蕩息子は、本当の自分を思い出して家に帰る。


「おかえり〜」


本当の自分が笑顔で迎え入れる。




さて、あとであの映画の最後を見ることにしよう。








和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです


2025年6月26日木曜日

心を見るプロセス

「夜の梅」和紙、水彩

 

コースの難しさは、自分の心を見るということだろう。


私たちには罪悪感がある。

だがその罪は存在しない。

私たちに罪などないのだ。

そのことを思い出すために学ぶ。

ざっくりいうとこんな感じ。


だがそれにはプロセスがある。



私たちには罪悪感というものがあると言われても、まずピンとこない。

罪と聞くと、人殺しとか物を盗んだとか、

明らかに「犯罪」と言われるものを想像する。

でも心の片隅に「ひょっとして人を傷つけてしまったことも入る?」

という思いもちらっとはよぎるが、

「そんなことは私はしていない!」と蓋をする。


ところが人生を生きていくうちにどうしても解決しない問題がやってくる。

解決できるはずだ、解決できて当たり前であったはずなのに、

解決できないところに行き着く。

自分が無能であると証明されたような気分になる。

人はそんな時相当落ち込む。鬱になったりする。


外にあるものを解決さえできれば、この苦しみは消えるはずなのに、

その外のものをどうやっても解決できないところに来る。

または解決できたはずなのに、ちっとも心が晴れない。


そこで「どうしてだ!?」と、内側に向かい始める。

その時が心を見るきっかけになる。


そしてある時から、自分の中に罪悪感がある、

またはどうしようもなく自己嫌悪や自己否定してしまう自分がいることに気付く。

それを意識し始めると、息するように自分を責めている自分を知る。


自己嫌悪や自己否定は自分に罪があるという思いからくる。

罪を感じていないものが自分を否定するだろうか。

自分は何かわからないけれど、いたっていないものがある、

許されざるものがある!という強い思いが自分を痛めつけようとする。


そんな自分に気がつくと苦しさが増す。

自己否定をやめようとすればするほど、

責めることがやめられない自分をさらに責める。


この責め苦に耐えられなくなってから、

自分には罪はないということを本気で欲するようになる。


「自分には罪はないんだよな?マジでそうなんだよな?

それなら救われる。ああ、本当にそうであってほしい!」



それまでは罪はないと言われても、

もともと罪なんか感じてないから、

ないって言われれば、そういうことじゃん。

もともとないんだから、なぜそれをわざわざ知る必要ある?

だってないんだから。

とたかをくくっていた。


ところが心を深く見れば見るほど、罪を隠し持っていたことに気付き、

その罪がゆえに恐れ、怒り、人をさばき、

そして自分をさばき続けていたことがわかってくる。


そしてこの時真摯に神を求める。

今までの考え方ではない、別の道があるのかもしれない。

そこに解放があるのかもしれないと。


そして罪ではない、もう一つの道、無罪の道へと心が向かい始める。


これは意欲の問題だ。

そっちに向かうという意思を持つ。



今まではそんなこと考えもしないで、

心がいうことをそのまま鵜呑みにしてきたから、

道には深いワダチが出来ている。

放っておいたらいつもの方向へスーッと進んでいく。

嘆き、悲しみ、怒り、惨めになり、ガタガタ震え。。。


でも途中で気がつく。

ああ、こっちじゃなかった。

もう一つの道だ。


そっちじゃない!こっちだ!

そのワダチがある道から外れる意志を持つ。



心は形にとらわれて判断し、恐れの中に埋没する。

形にとらわれ、形の中で判断し、変えようとしていた形の世界。

その世界から飛ぶ。

それは形のない世界。


ワダチに引き込まれては戻り、また引き込まれてはまた戻る。

行きつ戻りつが繰り返される。

ちっとも進んでいないように感じる。


また前と同じ状態だ。。。

何も学んでいない。。。

それを責める自分をまた見つけ、また責める。。。


だが心は確実にもう一つの道に向かって進んでいる。


誰かが、何かが近くにいる。

すぐ近くで見守っている。


そこだ。そうだ。そのまま進んでいいよ。



最初は知識として知り、訓練して次第に自分のものにしていく。

それは一人ではやっていない。

何かわからないものと一緒に歩んでいる。



時々静けさがやってくる。

ふいに喜びがやってくる。

罪などなかったことに、だんだん気がつき始める。

安堵の思いが心を満たす。



形の世界ではないもう一つの世界が、

心の中に広がり始める。









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2025年6月23日月曜日

安らぎを求める

暑い〜。アイスクリーム食いたい〜。illustrated by Tsukushi

 

みんな安らぎを求めている。


それは何かを得ることによって得られるものだと信じている。


お金があれば安らぎが得られる、

毎月決まった収入があれば安らぎが得られる、

あの人が変わってくれれば安らぎが得られる、

もっといい仕事があれば安らぎが得られる、

この痛みさえなくなってくれれば安らぎが得られる、

今アイスクリームが食べられれば安らぎが得られる(それは今の私)、、、


なくすことでも、手に入れることでも、消えてくれることでも、

なんでもいい。

今のこの状況が、何かしらの形で変われば、私は安らぎを得られる。




私もアメリカからの送金がずっと滞っていて、

あのお金さえ入れば私は安らぎを得られると思った。

半年間の格闘の後、確かに送金されたが、安らぎはほんの一瞬だけだった。


でも心のどこかでは知っていた。

入っても一瞬ホッとするだけだよな。


案の定、一瞬ホッとしただけだった(笑)。

そしてまた次のお金にフォーカスする。




私たちは形を求めてさまよう。

あの形、この形、もっといい形。


それは「この世界には私が安らぎを得られるものがある」と信じているからだ。

だがそれは一瞬の安堵で終わっていく。

そしてその求める心は止むことがない。


駄菓子店を別のところに向けると、、、


もとい。

だが、視点を別のところに向けると、

今この瞬間に安らぎがある。


今という瞬間に目を向けると、何の恐れもなく、ただそこに今がある。


と、次の瞬間、声が聞こえる。


「ぼーっとしてる場合か!」


「今この瞬間に動かないでどうする!

今やらないで、いつやるんだ?

お前の未来は今何をやるかで決まってくるんだ!

ぼーっとするな!」


いつやるの?

今でしょ!



その今やることとは、


今この時を味わうことだ。


あしたのジョーの言葉

「明日のためにその1」

ではなく、「今」のために今がある。




自我の声は大きい。

大声で怒鳴ってくる。

何をしてるんだ!動け!何かをやれ!


その声は私の味方。ずっとそうだった。

その声のおかげでここまでこれたから、あなたは私の味方。。。。


じゃねえし!


キリのないラットレースをやらされているだけだった。



あれやれ、これやれ、そうじゃないだろう!ダメじゃないか!

その大声を聞いている、あなたは誰なのだろう。



私がそのことに気がついたのは、もう十数年も前のこと。

私を罵倒する、徹底的に否定するその声、

よく聞くと矛盾だらけのその説教に気がついてからも

その声が正しいと信じて生きてきた。


奇跡のコースを知り、その声の意味を知り始めたが、それでもまだ信じてきた。

今でも本気で全面的に「それは間違っている」とは思えない私がいる。

気がつけばその声に巻き込まれてオロオロしている。


でもこの世界に安らぎを求めることは不可能だとも気づき始めている。





頭に聞こえる、自分を全否定してくる声を聞くと、

世界は私を罪人だと証明してくれる世界だ。


自分が肉体という檻に閉じ込められた罪人で、

時間と空間という監獄の中で、

自分に鞭打って犠牲を払って生きていかねばならないという刑に処している。

そして最後は死という安楽をもらう世界。




それを聞いているのは誰か。

それを見ているのは誰か。

その聞いている存在、

見ている側、

そのものこそが本来の私。



形のあるものにだけフォーカスされていた心を、

形のないものに移行する。


森に入った時、森いっぱいに広がる私の心は何か。

広がるものはなんだろう。



頭に聞こえる大声は「恐れ」を呼び起こす。

森いっぱいに広がる心は「愛」を呼び起こす。


心はどっちに向いている?

どっちにも向くことができる。


向くことができる「私」を知る。









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