スーパーからの帰り道、あたまの中があん団子でいっぱいになっている。
自転車で坂をえっちらおっちら上がりながら、
「帰ったらあん団子が待っている。。。あんだんご、あんだんご。。」
とひとりごとをいう。
まるで今のつらさを、あん団子と言うごほうびでまぎらわすかのように。
帰ってお茶とあん団子で一服。
は~~~おつかれ。幸せなひと時。
幸せなひと時もつかの間、次の幸せのために、私は心を動かす。5時に飲む麦汁タイムだ。そのまえにあれとこれをやって、それからあれやって。。。と。
人はつねに何かの幸せのために、なにかをやる。
そしてその幸せが達成されたら、また次の幸せのためになにかをやる。
それが繰り返されている。
私たちは幸せを手にするためには、必ず何かをしなければいけないと信じて疑わない。そしてその幸せの時間は、大した時間ではない。あん団子を食べ終わったら終わり。ものの5分で消える。
お風呂で極楽極楽~~といっても、ものの10分くらいで、そのまま1時間も入っていたら、地獄地獄~~になってしまう。(人によって時間差はあれども)
必死で働いて、家を一軒買っても、幸せ感は一ヶ月ぐらいではないだろうか。あとはそれが当り前になって、美しさをキープするためやメンテナンスでたいへん。
なんだかね。
ずーっとこうやって、短い幸せ感をおっかけてるんかね。わしら。それが人生ってものさーと、物知り顔で言うんかね。
好きなものが手に入ったとき、なりたいと思っていたものになれた時、そのとき幸せを感じるのはその満足感からだ。満足感とは何も欠けたものがない、何も追いかけていない状態のこと。
心が何も欲していないとき、空の雲が一瞬晴れて、青空が見える。そこには変わらなく輝く太陽があり、私たちはそれを浴びて幸せ感を味わうのだ。
だから幸せは、あん団子がもたらしたものでも、麦汁がもたらしたものでも、お湯がもたらしたものでも、一軒家がもたらしたものでもない。
その時、心が何も求めていない(雲が消える)ことによって現れる幸福感(太陽)なのだ。
本当は、私たちの背後につねにある青空と太陽。それを曇らせているのは、私たちの心。。。
いつも晴れ渡った空に太陽を浴びて幸福だった幼かった私。その後ありとあらゆる雲をつくり出して来た50数年。どっぷりと厚い雲に覆われている。年がいけば行くほどに、こうあらねばならないという雲の層が厚くなる。
つねに「何かをしよう」という衝動は自我の働き。それはいつも「なにかが欠けているから、それを補わねば!という焦りから来る。その衝動は止めようとしても、ますます強くなる。だからただそれに気がついて、ほっぽっちょく。
その自我の雲に気がつきながら、雲の厚さが減って行くのにも気がつく。
やがて少しずつ雲の合間から太陽の光が見え始めるのかなあ~。
などと、あん団子を食べ終わって、しみじみする。
ちゃんちゃん。
「江戸めしのススメ」MF新書表紙イラスト