2017年6月28日水曜日

あん団子で頭がいっぱい。。。

   

スーパーからの帰り道、あたまの中があん団子でいっぱいになっている。

自転車で坂をえっちらおっちら上がりながら、
「帰ったらあん団子が待っている。。。あんだんご、あんだんご。。」
とひとりごとをいう。
まるで今のつらさを、あん団子と言うごほうびでまぎらわすかのように。

帰ってお茶とあん団子で一服。
は~~~おつかれ。幸せなひと時。

幸せなひと時もつかの間、次の幸せのために、私は心を動かす。5時に飲む麦汁タイムだ。そのまえにあれとこれをやって、それからあれやって。。。と。

人はつねに何かの幸せのために、なにかをやる。
そしてその幸せが達成されたら、また次の幸せのためになにかをやる。
それが繰り返されている。

私たちは幸せを手にするためには、必ず何かをしなければいけないと信じて疑わない。そしてその幸せの時間は、大した時間ではない。あん団子を食べ終わったら終わり。ものの5分で消える。

お風呂で極楽極楽~~といっても、ものの10分くらいで、そのまま1時間も入っていたら、地獄地獄~~になってしまう。(人によって時間差はあれども)

必死で働いて、家を一軒買っても、幸せ感は一ヶ月ぐらいではないだろうか。あとはそれが当り前になって、美しさをキープするためやメンテナンスでたいへん。

なんだかね。
ずーっとこうやって、短い幸せ感をおっかけてるんかね。わしら。それが人生ってものさーと、物知り顔で言うんかね。


好きなものが手に入ったとき、なりたいと思っていたものになれた時、そのとき幸せを感じるのはその満足感からだ。満足感とは何も欠けたものがない、何も追いかけていない状態のこと。
心が何も欲していないとき、空の雲が一瞬晴れて、青空が見える。そこには変わらなく輝く太陽があり、私たちはそれを浴びて幸せ感を味わうのだ。

だから幸せは、あん団子がもたらしたものでも、麦汁がもたらしたものでも、お湯がもたらしたものでも、一軒家がもたらしたものでもない。
その時、心が何も求めていない(雲が消える)ことによって現れる幸福感(太陽)なのだ。

本当は、私たちの背後につねにある青空と太陽。それを曇らせているのは、私たちの心。。。

いつも晴れ渡った空に太陽を浴びて幸福だった幼かった私。その後ありとあらゆる雲をつくり出して来た50数年。どっぷりと厚い雲に覆われている。年がいけば行くほどに、こうあらねばならないという雲の層が厚くなる。

つねに「何かをしよう」という衝動は自我の働き。それはいつも「なにかが欠けているから、それを補わねば!という焦りから来る。その衝動は止めようとしても、ますます強くなる。だからただそれに気がついて、ほっぽっちょく。

その自我の雲に気がつきながら、雲の厚さが減って行くのにも気がつく。
やがて少しずつ雲の合間から太陽の光が見え始めるのかなあ~。

などと、あん団子を食べ終わって、しみじみする。

ちゃんちゃん。


「江戸めしのススメ」MF新書表紙イラスト

植物の味の振り幅ったら!


夕方5時になるとビールを飲む。
「麦汁プッシューっ!」てね。
その時つまみに食べる畑の野菜が最高においしい。

畑からとって来たばかりの野菜をそのままで、ゆがいて、蒸して、時には揚げて。
シンプルにお塩かマヨネーズで頂く。
口に入れた瞬間、フワーーッと広がる触感と美味しさ。噛めば噛むほど、どんどん味わいが深くなる。それが消えるか消えないかというビミョーなタイミングで、麦汁を流し込むのだ。
プワーっ!極楽極楽っ!

そのたびに思うんだ。植物って、なんていろんな味があるんだろって。
こうして文字で書きおこすことなんかできない、ありとあらゆる味。

 スナップエンドウとソラマメ

 ノカンゾウとノビル

 梅酒

 きんぴらごぼう


キュウリの味。トマトの味。ピーマンの味。スナップエンドウの味。ソラマメの味。ジャガイモの味。
そういうだけで、口の中がその味を再現する。

同じ豆科の植物だけでも、それぞれがまったくちがう味を出している。スナップエンドウ、ソラマメ、枝豆、落花生、インゲン、絹さや、グリーンピース、えんどう、、、、
ほらね?それぞれがまったくちがう味!

ナス科の植物にいたっては、ナスの味、ジャガイモの味、ピーマンの味、トマトの味。。。ぜんぜんちがうでしょ?
なのに、なんでそれぞれがおいしいの???それがとっても不思議!

5時の麦汁タイムは、かれらの味のちがい、そして美味しさのちがいを、たっぷり堪能させてもらっている時間なのだ。

ちっちゃな蒸し器で蒸した、ちっちゃなじゃがいも。アツアツの皮をつるっとむいて、ホクホクのじゃがいもさんを、ちょこっとお塩をつけてほおばる。

ジャガイモの素揚げ

よろこびが口の中に広がり、身体と心がよろこぶ。それも一個一個食べる度にやってくる驚きとよろこび。ソラマメなんか、もう悶絶してしまう。

それに比べて(比べちゃ失礼だが)、お肉さんたちの味の種類の少なさよ。豚さん、牛さん、ニワトリさん。。。それぞれの味の振り幅のちがいはたいしてない。(角度でいうなら30度くらい?w)
お魚さんたちはまだその味の幅は広いが(魚角度60度)、野菜さんたちの振り幅の広さは、お肉さんや魚さんのレベルを越えている。まさに360度か?!(どーゆー基準やねん)

こんなにもたくさんの「味」を生み出してくれているかれらに感謝します。

今日も地球の真ん中でお礼を叫ぶ。

「ありがとう!」



絵:「うんちく居酒屋」MF新書表紙イラスト

2017年6月25日日曜日

こびりついていたものは。。。。。


えーと。
今日のお話は、お食事中の方はご遠慮ください。



きのう、昼間に玄関の階段に水たまりを見つける。
「アレ?雨でもないのに、なぜここに?」

それから、夕方畑の野菜を洗ったのち、玄関に出ると、またもや同じ所に水たまりが。。。。
「げ!なんで?」

目の前には、可憐に咲いたドクダミの花たち。よくみるとその足元にみずたまりが。。。

きれいだなードクダミちゃん。。。。といっているばあいではない!のこぎりガマを持って来て、鬼の気持ちになってわしわし切っていった。


元気いっぱい咲いてくれていたのは、あれのせい?


そして水の出場所をさぐって行くと。。。。ある一カ所が水たまりに。土の下をまさぐると、「おすい」とかかれたプラスティックのフタ。。。(あちゃー。。)

再び台所に行って水を出す。
フタについた3つの穴から噴水のよーに、水が溢れ出しているではないかーーーー。

先日、漏水で工事したばかり。築30年を越えると、あっちゃこっちゃ、不具合がでるのか?とおもいつつ、先日お世話になった業者さんにアポを取る。月曜日の午後来てくれることになった。しかしそれまで台所が一切使えない。。。

その夜も洗面所でお皿を洗う。震災時の人々の苦労をしのぶ。
「こんなもんじゃないよなー。。。」
普通に水が出て、普通に排水処理ができる便利さを思う。



翌朝、ふと思い立ち、おそるおそる3つの穴が開いた「おすい」のフタを開ける。。。。
じゃじゃーん。タップタプの汚水ーーー♥

ダンナが木の棒でぐちゃぐちゃやってみる。一瞬水が下がった。
「お?」
こりゃ、なにかがたまっているかもしれない。。。とおもったわたしは、
勇気をフリシボって、その汚水の中に手を突っ込んだ。

。。。。何やら、えたいの知れない物体が手に触れた。そこになにかわからないカタチのものが存在している。。。。
むんずとつかんで、持ち上げた。

それは白い塊だった。
なにこれ?
それから何度も手を突っ込んでは、それをすこしずつはがしていった。
だんだん意味が分かって来た。
これは小麦粉だ。。。

3、4年前、私はパン作りにこっていて、毎日のように小麦粉を使っていた。作業中に出るべちょべちょの小麦を、気前よく流していたのだ。あるときネットで記事を読む。パン作りの時、排水管がつまるから小麦粉をシンクに流さないようにと。それからできるだけ流さないようにしてきたのだが、それがたまりにたまって、こんな所でカタマリになって排水をふさいでいたのだった。。。。
どこが築30年の不具合やねん。自分でまいた種じゃねえか。

それからダンナと二人、這いつくばって約30分。排水管にこびりついた、固い固い小麦粉のかたまりと格闘。
手を突っ込める範囲でこそぎ落としたが、排水管全部は無理だ。でももう水が滞ることはなくなった。


しかし。。
排水管って、臭いのねん。
あれそっくり。
温泉のイオウ臭そっくり!

何かね。ありとあらゆるものが混ざると、温泉臭になるんかね。
じゃあ、あの温泉のにおいは、ありとあらゆるものの集合臭なのか。。。?
汚水につかったら、健康になったりして????(んなわけねーだろ)


自分でつかったもののために、ふんづまったものを、自分でトル。
何だか、何をか言わんや。
心の中にこびりついたものを、自分でとってる。。。そんな感じがしたな。

非二元流にいうと、
「起こることが起こっている」
それだけ聞くと、なんか突き放されたような冷たい感じがする。

だけどもうひとつ付け加えるなら、
起こることは、その人にとって、一番いいタイミングで『恩寵』としてやってくるんじゃないだろうか。

工事の人が月曜日だったからこそ、私は動いたんかもしれん。だから月曜日だったし、だからこそ、私の「ふと」が動いた。

すべては恩寵。。。
たとえ、そのとき「え~~~?」っておもうような、不快なことであっても。

そうおもうと、いろんなことをそのまま受け取れるようになれるかもしれん。

長くなりました。


絵:「こんなに厳しい!世界の校則」MF新書/表紙イラスト

2017年6月21日水曜日

土佐和紙で作品

家の庭に咲いたホタルブクロとドクダミ。


先日、高知に帰った時、土佐和紙を大量に購入してきた。
地元出身の人間としては、これほど豊かな和紙の種類があることがうれしい。

ずっと洋紙だけを使って来て、和紙だけはなぜかアンタッチャブルにして来た。でももうそろそろ触ってもいいだろうと思い、材料に和紙をくわえはじめたのが3年前。今は、和紙だけで制作したい!という思いが強い。
なんという変わりようだ(笑)。

色合い、手触り、その存在感。
ただ紙を置くだけで作品になりそうなかれらを、切ったり、ちぎったりして組み合わせる。
その偶然の出会いが作り上げる優美な世界。
自分の知らなかった自分の内面を見るように、紙の新たな世界を垣間みる。


玄関の脇に大量に咲くドクダミとススキ。

それ、なくてもいいんじゃね?

これ、なくてもいいんじゃないか?
あれ、なくてもいいんじゃないか?
そーやって、石けんもやめ、シャンプーリンスもやめ、歯磨き粉もやめ(ほんのチビット使ってるけど)、
農薬もやめ、肥料もやめていった。
ついでに心の中の
これ、なくてもいいんじゃないか?
あれ、なくてもいいんじゃないか?
もやっている。
そのチャレンジの途中、私たちはいろんな「やらなければいけない」ものや、事柄でがんじがらめになっているのを見る。
そのがんじがらめは、意識的に自分ではずすことができる。
必要に迫られているものは、
だんだん減って行き、
だんだん軽くなる。
必要に迫られている、と思っているだけだ。

え?麦汁?
アレは必要に迫られてるさー(笑)。
🤣

2017年6月19日月曜日

怒りという言葉に囚われる

夜、怒りが込み上げた。
ソファに座って、自分の怒りを見る。
怒りと同時に、哀しみもおそってくる。
言葉にとらわれずに、ただ身体の感覚だけにフォーカスする。
すると、胸のあたりに、ぎゅーっと、何かを絞るような感覚がある。
私はそれを見た。
すると、そこには、怒りも哀しみもなかった。
ただ、胸のあたりに、タオルを絞るようなぎゅーっと内側に回転するエネルギーだけがあった。
それを感じているとき、怒りも哀しみもなかった。ただ、エネルギーだけがあった。
感情と言葉は連結している。
言葉があるから感情が呼び起こされる。感情が呼び起こされるから、言葉がもっと大きくなる。
感情はさらにリアルになって行く。
しかしいったん、カラダにかんじる感覚だけにフォーカスすると、そこに怒りも哀しみもないことを知る。
感情など、そこにはない。
ネガティブも、ポジティブも、ない。
ただ、うねりがあるだけだった。

2017年6月17日土曜日

絶対神「母」


母に最近の私の作品を見せる。

「これはもっと重くしないと」
「ここがまだ足らん。もっと色を足して、存在感を出さんと」
「うん。これはえい」
手厳しい母の言葉を聞きながら、

『あー。これかー。私がずっと心でしゃべっていたものは。。。』
と気づく。

延々と続く辛らつな母の感想に、私は何だか可笑しくなって来た。
「ほんなら、これは?」
「うん。これは、ここがあーでこーで。。。」
思った通りに反応が返ってくる。

彼女の感想は、彼女の感性の幅の狭さをみせた。
考えてみれば、私は絵を職業にして30年たっている。彼女よりももっと広い世界を見てきた。彼女の感性を越えたもの、もっと自由な感覚をすでに身に付けていたのに。
わたしは自分の絵の基準を、必死で彼女の基準にあわせようとしていたのだ。

その時、私は彼女の絵の感性の塀を越えた。
高い高い塀だと思っていた。天にも届くほどの高い塀を私は越えねばならないとおもっていた。
56年経って、やっとそれがとても低いものだったと気がつく。ひょいって一足でまたげるほどの。わたしは這いつくばって、それを越えようとしていた。


この世に生まれて来て、一番最初に自分という存在を意識させられるのが、はじめての他者、母親という存在だ。

いわば、母は子供にとって「神」だ。絶対神だ。この世で生きるルールをその神から教わる。
人は最初に聞いたものを鵜呑みにする。「そーなんだー。あーそーなんだー」と。それを基準にこの世を生きはじめる。
この世に批判的な母のもとに育つと、同じようにこの世に批判的になる。被害者的な母の元に育つと、たいてい被害者的な気分になる。

私はいろんなことに批判的な母の元に育った。それは他者を批判するのと同時に、自分をも批判をする。美意識が高いと、美意識が高いがゆえに、自分を「まだ足らない」と批判し、お尻を叩くのだ。
母の声は、いつのまにか、私の声になり、自分を非難し、お尻を叩き続けていたのだ。
もっと!だめ!そんなんじゃ!と。

彼女もまた、自分の中にある美意識がゆえにわきあがる、自分自身への非難の声に、今もさらされている。


自分の中にわき上がる声を聴く。
たいてい同じ言葉だ。
同じカセットテープが、ただ再生され続けている。
それはいかにも自分にとってためになること、効果があることのように歌う。
だけどそれはテレビの宣伝広告の文句とたいして変わらない。何一つ本質をつかない。それに乗ると、ただ右往左往させられるだけのことだ。

わたしはずーっと、それに乗っかって来たのだなあ。

母親を越えるって、たいへんなことやな。
いわば自分があがめている絶対神を踏み越えることになる。

踏み越えたろ(笑)。


絵:「夏」/樹シリーズ/和紙、水彩、オイルパステル



2017年6月12日月曜日

母への思いと美しい風景


高知に帰って、母を仁淀川のそばにある宿泊施設に、なれない車の運転をして連れて行った。

ここは父方の墓がある所のすぐ近く。小さい頃、両親につれられて山の中腹にある墓参りによく来ていた。今でこそ「仁淀ブルー」と仁淀川の蒼い川が有名になったが、そのころはただの広い川。それでもその川の美しさは幼い私の心を引きつけていた。

フルコースのおいしいフレンチを食べ、母の車いすを押しながら、外に出る。街灯も何もない漆黒の闇にくっきりとうかびあがる稜線。
「うわあ~。きれいねえ、かーちゃん!」
いつも家で見ている、ちょろい高尾山の稜線とは比べものにならない雄大な景色にみとれていた。
「こわい。。。はよう中へ入ろう。。」


高知に帰ると、私は母を少し外に連れ出す。
その時は車いすを使う。帰るたびに歩けなくなって行く母を見る。
彼女は放っておくと、一切外に出ない人なのだ。内臓も骨も筋肉もどこも悪くない。彼女の外に出たくない、歩きたくない思いが、彼女の身体を萎縮させて行く。それが形になって現れていた。

自分が自分の思考や感情を見ることによって、いろんな気づきをえて楽になって来たこともあり、彼女にありとあらゆる方向から話しをする。
しかし、こう言う考えもあるよといえば、
「ほいたら、そうせんといかんがよね」という。
「いや、そうせんといかんがやのうて、そういう別の視点ももってみるってこと」というと、
「ほんなら、そうせんといかんがよね」という。

すべてが「ねばならない」「そうすべき」という、強制的にやらなければいけないのだという発想になってしまう。
きっと彼女は小さい時からそうやって、べきべきの中で、自分を無理矢理押し込めて、べきべきの中で生きて来たのだ。その、どこか「イヤイヤ」な気分でやって来たことの結果が、「なにもしたくない」という今の彼女につながっているのだろう。

いや。私だってそうだ。つい最近まで、その中にいたが、意識化することによって、そのべきべきは消えていきつつあるだけのはなしだ。


彼女の葛藤、私の子供としての彼女への思いの葛藤、ありとあらゆる思いが洪水のように押し寄せて来た。ふとんに入っても、一睡もできない。意識は隣で寝ている母に注がれる。寝息を立てる母。寝返りを打つ母。「暑い。。。」といって顔をしかめる母。トイレに立つ母。。。
介護をする人は、こういう風につねに意識が人に注がれているのだろうな。どれだけ心身を使うことか。

明日もなれない運転をする。早く寝ないと。。。という思いとは裏腹に、どんどん眼が冴える。
私は観念した。
全身で今の感情を味わいつくそうと思った。
そして一晩中起きていた。


早朝、ひとり仁淀川におりる。
丸くゴロゴロした石の上を歩く。川幅は広いが、河川敷も広い。やっとのことで水際に来た。湖面のように静かな水面が、山の風景を逆さまに写している。にじんだような緑の色が私の制作欲に火をつける。

所々に、水の輪がある。なんだろう?とみてみると、ふいに何かが飛び跳ねた。つづけさまに、あちこちから、何かが飛び跳ねる。よく見ると小魚が飛んでいた。あゆだ。緑色の湖面の舞台で、小さなあゆたちがダンスを披露してくれた。

夕べの思いがグッと持ち上がってくる。
深くて静かな哀しみをバックに、目の前にひろがる美しい世界。
私はドラマの一シーンの中にいた。

かなしさも美しさも、すべてひっくるめて、この世は美しいな。。。

そう、ひとごとのようにおもえた。


 絵:「田舎の家のたたみ方」/MF新書表紙イラスト

2017年6月7日水曜日

できる人じゃなくてもいいや。


できる人にならなきゃ。っておもってた。ずーっと。

なぜできる人になろうとしたか。
それはできることが正しく、できないことがまちがっているっていう世の中のルールがあるから。
それは物心ついた時から、気がついたら、「そうあるべき」の中にいた。
なぜかというと、

1:それができると、ほめられるから。
2:ほめられると、そこにいていいよ、という許可が出るから。

居場所を求める気持ちは、そこにいていいと、自分が決める場所じゃなくて、他人にそこにいていいよ、と言われることによって得られる、
「ああ~、ここにいていいんだ~」
と、安堵する場所のことだ。

人に自分が存在していいのだと許可をもらう。
するってえと、ちょっとややこしいことになる。

できる人はそこにいていい人で、
できない人はそこにいちゃいけない人ってことだ。
こりゃあ、たいへんだ!
そこで人は、必死になって「できる人」になろうとする。

できちゃった人はいいよ。
でもできない人は、ポイされる。(と、思い込む。)

ところが、できちゃった人も、じつはそのとき「いていいよ」といわれるが、(ほんとはそんなふうに言ってないのだが、そーゆーニュアンスにとる)
またたくまに、次のお題をいただき、また挑戦させられるはめになる。

とゆーことは、いつまでたっても、できる人もできない人も、つねに意識的にも無意識的にも、どっぷりと人の評価を気にして生きることになった。

できる人はできる人なりに、人の評価を気にし、
できない人はできないがゆえに(笑)、人の評価を気にする。

どっちもどっちだあ~(苦笑)。




聞いた話し。
ある知恵おくれの学級で、みんなのリーダーを決めることになった。

「誰がリーダーがいいか、みんなで推薦して下さい」というと、
「A君がいい~~~」と、みんな口をそろえていう。
A君は、いつもおしっことうんこを漏らして走る問題児。先生は困ってしまった。そこで先生はリーダーとはこれこれこういう風に、みんなを率先して引っ張って行く人なんだよと説明した。
そしてあらためて聞いた。
「リーダーが誰がいい?」
みんな「だったら、やっぱりAく~~ん!!」

私はこの話しが大好き。
確かにリーダーたるもの、人を導くお手本のような人物じゃないといけないように思える。しかし実際、我が町内会でも似たようなことがあった。
リーダー然としている前会長のとき、みんなの関係がいつもぎくしゃくしていた。その会長も退任され、今度は頼りない新会長に変わったとき、みんなはどうなるかと心配した。しかしそのみんなの心配とは裏腹に、町内会はまあるくなった。頼りない会長を中心に、互いにフォローしあうようになっていたんだ。

A君は、確かにおしっことうんこを漏らすが、いつもまわりに笑いがあった。たよりないA君は、逆にみんなを明るくしていた。みんなはそのことを知っていた。

かれらは、私たち大人が知らないあいだに作りあげて来た狭いルールとは関係なく、何か人間の本質だけををみているのかもしれない。


私ができないことを、できないままでいようと思えた時、心のどこかがふぁっと軽くなったんだ。それは自分のいいもわるいもそっくりそのまんま受けとめることでもある。
すると人の評価なんかどこかにいってしまう。

きっと人の評価なんて、お化けみたいなもんだ。

あるような気がして怖がっているけど、勇気を持ってふりかえってみると、ただの柳の木なのかもね。

絵:「女性の部下の活かし方」MF新書表紙イラスト

2017年6月1日木曜日

ハイ。バデイに入りました。



非二元に関する本を読み、
「なにこれ?意味不明」
と、思いつつもなぜか意味不明に惹かれて読み続ける。

そして非二元のうたい文句、
「わたしはいない」
が、幼かったころの私を、そろーーーっと、じょじょに、思いださせはじめる。

あれはちっちゃいころ、この世がもわもわして見え、自分ももわもわしてて、何だか取りつく島がないように感じていらいらしていた。

なんかちがう。。。
なんかちがう。。。
こうじゃないんだなー。。。
何かに悪戦苦闘していたある日。

そう、あれは突然にきた。

「ハイ。入りました。この身体に」
という感覚になったんだ。

すっぽりと身体に入った感があって、
「あーやっとこれに入れたー」と、安堵した。
ためしに腕を振ってみた。
すっと腕が振れる。
「うふ。腕、振れてるじゃん♥」
足、動かしてみた。
「オーーっ!足、動いてるじゃん♥」

それまでは、腕を動かしている感も、足を動かしている感もなく、ただ、もんわ~~とした、たとえてゆーなら残尿感(?)のようなものをただよわせていた。

おまけに、「つくしちゃん!ちゃんとしなさい!ちゃんと歩きなさい!」
と、親や幼稚園のせんせーにきびしく言われていたものだから、どうもちゃんと歩いてもいなかった様子で。
なもんだから、なんとかこの体に入ろう、入ろうとしていたのだな。

その努力(?)のかいあって、ある日突然にこの体に入った。



あれから50年。(きみまろ風)
おとーさん、おとーさん。
まさか、あたしは、あのもわもわした状態に戻ろう戻ろうとしていただなんて。
ああ、おとーさん。。。。よよよ。


非二元の本、クソ難しくって、何言ってんのか、サーッパリわからないけど、なんか惹かれる。
なんでやねん!「わたしはいない」って、なにいっとんねん!
とかおもいながら、眼を皿のよーにして読みふけること2年間。

ひょ、、、ひょっとして、あのこと?
身体に入る前のこと?
ぎゅっと凝縮して局在化した「バディなわたし」になる前のこと?
拡大した意識がただあるだけだったあのときのこと?

あれから50年。
縮小した「わたし」は、楽しいこともあったが苦悩もあった。
その苦悩から脱出しようと、今度はこのバディから出よう出ようとしている。

しかしいったん入っちゃったものは、そう簡単にはぬけられそーもない。。。
だって、50年も定着しちゃったんだもーん。
だもんだからマインドは、
「う、、う、、でられない、、、」
と、もがいているのであった。

ちゃんちゃん。

(こんなことなら、入らなきゃよかった。)



絵:「縮む世界でどう生き延びるか?」MF新書表紙イラスト


「働かないアリに意義がある」の著者さんです。