2024年8月25日日曜日

「いつもの感覚」

「夏のためいき」/和紙、水彩

 

自分にとって、ちょっと面白いことがあったんで書いてみる。


先日、ちょっとした自分の失敗に罪悪感を感じた。

このところあまり罪悪感を感じなくなってきた私にとって罪悪感は

「あ、きたな」という程度のものになっていたはずだった。

ところがその時のは異常だった。


ちょっとした罪悪感のはずが、とんでもない罪悪感に変わっていた。

「やばい。。。このままいったら私は気が狂う。。。!」


人が気が狂うのはこんな瞬間なのかと危機感を感じる。

それほどのところに立っていた。


言葉にできない狂気と罪の意識でいっぱいになり、

気持ちを切り替えようと、ドラマを見たり映画を見たりしてもなぜか気持ちが悪い。

絵を制作しようとしてもできない。

心を落ち着けようといろんなことをしても無駄。

どうしようもなくて寝てみたが、起きてもちょっとマシになったぐらい。


ボロボロになって二階で写真の編集をしているダンナのところに行って、

彼の写真をぼーっと眺める。

「きれいだねえ~」「いいねえ~」と、

彼と話しながら少しづつ自分を取り戻していった。


その後、養蜂家のにいちゃんがうちに来て、

玄関で話をしているうちに、完全に自分を取り戻していった。

この二人に本当に救われた。



いつもの感覚に戻ってみて、

初めてこの「いつもの感覚」が消えることがあるのだと驚く。

この感覚は曖昧なものなのか?

そしてこの「いつもの感覚」で居られることのありがたさを知った。






夜中、何かわからない感覚で目が覚めた。

昼間の出来事の後、「いつもの感覚」に戻れたことで安堵していたのもつかの間、

今度はそのいつもの感覚が肥大していた。


自分がいるという感覚が巨大化している。

ものすごいでかい自分。体の中に収まっているいつもの感覚を最大限にした感じ。

例えていうなら、巨大な赤ちゃん。


喜びでいっぱいになってるのにちっとも平安じゃない。

いつもの感覚が私の体の中にちゃんと収まりきれなくて膨張してパンパンになっている感覚。

それが落ち着きのなさを与えているのか?


そして私は「私はある!」というはっきりとした感覚の中にいた。

ここにいる!ここに在る!


この想いが宇宙中に叫ばれていた。


その時、世界はどこかに消えていた。





朝起きたら、いつもの感覚に戻っていた。

あの巨大な赤ちゃんは私の中に収まっていた。


「私は在る」という感覚は、ニサルガダッタ・マハラジのいう「I am」(私は在る)だったのか?

コースがいう「神の子」の感覚だったのか?

それはわからない。


でもこの「ある」という感覚は常に私たちの中にあり、

それをこの世界という雲が覆い隠して、

その「ある」という感覚を忘れさせているのだと知った。


昼間のあの狂気の感覚は、

まさにその「ある」という感覚が一瞬消えてしまったのではなかったか。

消えてしまったことで、それがないことの恐ろしさと狂気を垣間見せられた。


そしてそれが戻ってくることで、改めて知る。

私の中にある「いつもの感覚」は、

なんてことのない感覚ではなく、

それが神の子であることの証しであり、神の贈り物であったのだ。

いつもの罪悪感や恐れは、その「いつもの感覚」の上にあったからこそ、

消えていくものであったのだ。



聖霊は私たち一人ひとりに、その個性に合ったやり方で教えてくる。

そのダイナミックなアプローチにしばしば圧倒される。


今もこうして、ふと手を止めて、「私はある」という感覚に戻る。


その時世界は私に迫ってくるものではなくて、

頬をなでる風になる。









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2024年8月22日木曜日

写真集の寄付を募る




「おれ、写真集出したい。」

と、ダンナが突然言い出した。


彼が写真を撮りだして40年になる。心の中ではいつか写真集を出したいと思っていたらしいが、それを形にするほどに突き動かされるものはなかったようだ。

それが2ヶ月前その思いが出てきたのは、その頃知り合いの写真をまとめて写真集を作った経緯があったからだ。


膨大な量の写真を一冊の本にまとめ上げるには、相当な集中力を必要とする。

知人のそれを扱ったことで、一冊の本の流れ、作品をまとめあげる「何か」がわかったようだ。


「おれさ、これはみんなと作りたいと思ってる」

「どういう意味?」

「自分のなけなしの金を使って作るんじゃなくて、みんなに寄付を募りたい」


唐突な彼のアイディアにびっくりした。

「いや、自分もびっくりしたんだよ。こんなアイディアが出てくるなんて。」


彼を知っている人はわかると思うが、相当にプライドの高いやつだ。人のお金をあてにして写真集を作るなんて、以前の彼なら思いつかなかったことだ。

しかし昨年のつらい鬱の経験以来、彼の中で何か変化が起こり始めていた。


「写真とは、被写体なしでは成立し得ない〈関係性〉の賜物ですが、友人や知人との関係、協力により生み出される写真集、公的な出版社から発売されるモノでもなく、完全自費の私家版でもない、そんな写真集のアイデアを閃いたのが2ヶ月前、フォトグラファーにとって写真集は、遺書であり遺言、一方的なラブレターなのですが、最高にカッコいい写真集を作ります。

皆さまのご好意、ご協力のほど、どうぞよろしくお願いします。


海沼武史 拝  」                                                                                 



寄付を募る言葉に彼の思いが込められている。

『友人や知人との関係、協力により生み出される写真集』とはどんなものか、私も見てみたいと思った。


今回はクラウドファンディングという、全く知らない人にも公に広げて募る新しい形のものではなく、知人に向けられて送られたものだ。とは言っても知人になればなるほど、無理強いをしてしまうのではないかという懸念があった。


しかしそんな心配よりも、なぜそんなアイディアが浮かんだのか、その真意は一体なんなのか知りたいという好奇心が勝った。



目標額は写真集印刷代金の30万円~50万円。集まった額に合わせて部数を決める。少数部数で非売品。100ページ前後の2種類の写真集になる。こんな安い金額で写真集ができるのかと思うかもしれないが、今の時代そのぐらいで印刷、製本まですることができる。もちろん私のデザイン及び版下料はなしだ(笑)。

ご寄付いただいた方には、出来上がった2種類の写真集をお渡しする。




8月12日に知り合いにメールを送ってのち、どんな反応が帰ってくるのか恐る恐る見てみると、送ってそれほど経ってないにもかかわらず、今現在目標額に達しつつある。



毎日次々にやってくる彼への賛同のメッセージに、二人とも感動が止まらない。


「え?いいの?本当!? うわ~~~っ!ありがとう!」


こんなにも人は優しいのか。

こんなにも人は愛に満ちているのか。




「オレ、今まで感謝ってことをあまり考えてこなかった。

感謝すると、なんだか自分が溶けてしまいそうで。。。」


そうなのだ。

愛とは、溶けてしまうものなのだ。

溶けて一つになってしまうものなのだ。


自我は、人と分かれていたい。個別で、特別でいたい。

しかし感謝は決して人を個別にさせてはくれない。

どうしようもなく、ひとつになるものなのだ。


彼も私も、今、人々の思いをダイレクトに受け取っている。

愛を受け取るには力がいる。

感謝を受け取るには勇気がいる。


私たちはその強さを学び始めている。


また、行動にうつさずとも、彼の呼びかけに心が反応してくれた人々もいるだろう。

どんな形を取ろうともそれは愛の思いだ。

自分の中から愛の思いが湧き上がってびっくりするものだ。

私たち二人の知らないところで、そんな体験さえ呼び起こしているのかもしれない。


彼のこのアイディアの真意はここにあったのかと思わずにはいられない。

すべての出来事が、心を解放するために起こっている。



実際、彼が写真集を作ろうと考えたのも、

私が3年前にある人から頼まれて絵本を作ったことから繋がっている。


一つの出来事が連鎖してどんどん拡張していく。

いったい何が起こっているのか。


いや、今までもこうしていろんな出来事が起こっていたにも関わらず、

その奇跡に気がつかなかっただけなんだな。

一瞬一瞬が奇跡に満ちている。





ご賛同くださった方々、

また、私たちを見守ってくださっているすべての方々に、

あらためて御礼申し上げます。





追記:しばらく更新していなかった海沼武史のブログが、
「写真集メイキングリポート」として随時更新されています。
彼の写真への思い、編集にあたっての思いなど書かれております。
ご興味のある方は是非ご覧ください。











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2024年8月18日日曜日

ループする自我劇場



ある出来事が起こった。

ダンナを怒らせてしまったのだ。

私はいつもやらかしてしまう。猛烈に罪悪感が浮上する。

それに触発され、ダンナはさらに怒る。

すると今度は耐えきれなくなった私も怒る。


彼を激怒させた原因は私で、私がいけないのに、

耐えきれなくなって私も怒り出す。



この一連のドラマは私がずっとやってきた事だ。

その都度状況やカタチは違えど、心のパターンはまったく同じだった。

これはループしている自我劇場だ。


原因は私だと思っていたから、訳が分からなくなっていた。

私が怒りの原因さえ作らなければ、と。


だけどよく観察してみると、原因であるタネはなんでもよかったらしい。

空気でさえ原因にすることができる。

自我は「私は罪深い」と思わせるためになんでもする。

または「あいつは罪深い」でもいい。

どっちかが、誰かが悪いと思わせるのがいい。


そうすれば必ず摩擦が起こる。

そして冒頭の劇場空間が出現する。




これは実は無因性のものだ。

自我はその原因のないものを、誰かが怒るという結果を見せて、原因とする。


しかし本当は何も起こっていない。

「私」が、そう「見たい」と思っただけなのだ。

その「私」とは自我とくっついた私。


なぜならこの怒り、悲しみ、苦しみ、恐れがこの世界を維持するためのガソリンだからだ。

だから自我は焚きつける。

「やれ!もっといけ!ほら、そうだ!戦え!」



この一連の出来事を私は静けさの中で見た。

このループを何万回と繰り返してきた。


自我とくっついた私は夢の主人公となり、このループを永遠に繰り返す。


それに気がついたとき、夢を見る者の視点がやってくる。

そこには原因もなければ結果も存在しない。


左脳はひたすらこの世界の考えを繰り返す夢の主人公の考えなのかもしれない。

この世界をサバイバルして生き延びる考えにフォーカスされているのだから。


夢を見るものは、右脳なのかどうなのかわからない。

でも自我劇場から遠く離れている。

その劇場は存在していないことに気がついている。

安堵の中でお芝居を眺めている。

なぜならこれは作り物だと知っているから。



ドラマが始まるその一瞬を見極める。

それが夢の主人公に埋没していかないコツだ。


「死の夢」ではなく「癒しの夢」にしたい。







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