ドラマ「愛の、がっこう」を見ている。
ホストと教師の道ならぬ恋のドラマなんだが、ラウールくんが良い!
最初、ヒロインの婚約者の川原ナニガシのボケーっとした気持ちの悪いダメ男ぶりが好きだったので見ていたが、ラウールくんの変な顔に惹かれ始めている。
6話の二人が離れがたく思っているあの思い。
ぶあ~~っと膨れ上がってくる思い。
このままひとつになりたい!という強い思い。
でもこのまま二人で逃避行したら、あんまり嬉しくない現実が。。。
とかそんなことは、おばさんはどうでもいい!
最近、悲しいシーンに泣かなくなってしまった。
かわいそうな悲惨なシーンには共感できなくて、「ふ~ん」と淡々とみてしまう。
でもその反対の思いにはすごく反応してしまい、その時思いがずっと心に残っている。
昨日見た「初恋」というドラマも最後に主人公が記憶を取り戻し過去のすべてを思い出すが、
すでに思いびとは飛行機に乗って遠くに行ってしまった後だった。
でもそこには溢れる愛があった。
「愛の、がっこう」も「初恋」も人を愛するわけだが、
人が恋愛をして頂点に達するその時、離れがたく、ひとつになりたい!という思いは、
実は神との関わりなのではないか。神と共にいた自分を思い出しているのではないか。
でも実は今も私たちは神と一緒にいる。
それを忘れちゃってて、
その忘れたが故にぽっかりと空いた欠乏感が、
ずっと誰かを求め続けることになる。
それは人だったり物だったり状況だったりする。
いろんなものを求め続けているが、
本当は神から離れてしまったという思いが原因なんじゃないか?
だから謎の大いなる探求に没頭してしまうのじゃ。
過去を思い出した主人公は、
ずっと自分が彼に愛されていたことを思い出す。
それはまさに、神がずっと私を愛してくれていたこと、
そして今も愛されていることをはっきりと思い出す瞬間なんだ。
だからあんなに美しいのだ。
この世のことは、次第にどーでもよくなっているおばさんがここにいる。
この世的には、一瞬の気の迷い?燃え上がる一瞬だけの炎?
結婚したら次第に冷めていくはかないもの的な扱いになっている「それ」は、
実はそれこそが真実なのではないかとか思い始めている。
異性を愛しても、同性を愛しても、
動物を愛しても、虫を愛しても、木を愛しても、
雨を愛してもいいのだ。
そこに溢れる心が満ちていく大きな何かは、
それが実在しているという証なのだ。
なんの形を求める必要はなく、
なんの形もどんなものでも
「ああ、素敵!」「ああ、幸せ!」「わあ、楽しい!」「大好き!」「食べてしまいたい!」
という意味不明な感情、感覚。
その感覚は広がっている。
ブワッと広がっている。
それをパワーが溢れるという言い方もある。
その形も無いもの、でも確かにあるそれこそが本来の私たちなのだ。
その時そこに神がいる。
神と神の子がいる。
一緒にお互いを喜び合っている。
この世ではそれは一瞬かもしれないが、それは入口だ。
神を思い出す入口なのだ。
それは錯覚じゃない。
気の迷いじゃない。
それは脳のドーパミンがナンジャラカンジャラで、、ではない。
脳なんかありゃしない。
人なんていやしない。
ただ思いがあるのだ。
形なんかない。
神と神の子の美しいダンスがあるのだ。