クリスマスも終わっていっきにお正月ムード。
この時期になるとやまんばはユウウツになる。暮れの大掃除やお正月準備。べつにやらなくていい。やれという法律はない。なのにやらずにはいられない。で、イヤイヤやる。
なんでやらずにはいられないのか。
「一年の計は元旦にあり」
この言葉はいい言葉であるが、呪縛もする。
「一年の計が元旦にあるならば、その日一日の行為がその年のすべてを物語る」といってるようなもんである。とゆーことは、その日一日がサイテーだったら、その年一年間はサイテーである。といってるようなもんだ。
これはおどしでなくてなんなんだ。
その言葉の後ろにある「おどし」にやまんばはヤラレているのだ。
いいたかねえが、女衆はいそがしーのだよ。
掃除や料理の準備やなんやかやで、くれはちょーいそがしい。おまけに年越しそばなんつーもんを年越すあたりでくわなあならん。
ひーひーいいながら作って、正月元旦はこれまたいつもとちがう椀やらお屠蘇の準備やらで、「美しく」もりたてなけりゃならん。
で、それがうまくいかなかった日にゃ「一年の計が元旦にあ」ったりするもんだから、もーたいへん。その日一日が全てを決めてしまうのだ!
だから女衆は死活問題。ダンナの昇格、子供のお受験が、あろうことか奥さんの元旦の力量にかかっているのだ!
んなわけないだろ。
だけどやまんばも含めて国民の何%かは、その言葉に呪縛されてしまうのだ。
しかし。去年の今頃、風呂掃除しているとき、久しぶりのぎっくり腰になってうんともすんとも動けず、まさに「寝正月」だった。
で?どーだった?身内は何かとあったけど、やまんば自身はいたってヘーオン無事。1年の計は元旦にはなかった。
イヤイヤやっていることって、ほんとうにイヤだからやっているんだろうか。
やまんばは正月の料理は作るのイヤだ!っておもってる。だけどそれはその「元旦計呪縛」が苦しめてくるからイヤなだけじゃないだろうか。
もしその呪縛が、ほんとは呪縛でなく、「豆を食べるのは一年をマメマメしく」「数の子を食べると子だくさん」「昆布はよろこぶ」などのように、お正月の言葉遊びなのだと考えたなら、もっと自由になれるんじゃないだろうか。
わしらは恐怖によってあらゆることで自分を不自由にしている。
ああしないと、こうなる。
こうしないと、ああなる。
その方程式は事実なのか?
数々の恐怖による呪縛(方程式、観念、常識、思い込み)によって、本当の自分の気持ちがわからなくなっているんではないだろうか。
ああしないと、こうなる。
こうしないと、ああなる。
その方程式は事実なのか?
数々の恐怖による呪縛(方程式、観念、常識、思い込み)によって、本当の自分の気持ちがわからなくなっているんではないだろうか。
その外からもらった呪縛で感情的になり、不快になってるから見えなくなっているんじゃないだろうか、自分の本当の気持ち。
元旦計呪縛をどけてみる。そして自分にきいてみる。
「つくしはお正月がほんとうにキライ?」
あの華やかさを思い出す。日本の凝縮された美が、あの瞬間に輝いている。
「ううん。大好き!」
呪縛をどけてみると、ほんとうは純粋に楽しんでいる自分がいるんじゃないだろうか。
元旦計呪縛をどけてみる。そして自分にきいてみる。
「つくしはお正月がほんとうにキライ?」
あの華やかさを思い出す。日本の凝縮された美が、あの瞬間に輝いている。
「ううん。大好き!」
呪縛をどけてみると、ほんとうは純粋に楽しんでいる自分がいるんじゃないだろうか。
そこにフォーカスするだけでいいのかもしれない。
ただ楽しいからやっている。
ただうれしいからやっている。
ただやりたいからやっている。
そこには何の呪縛も、動機の理由もない。
どうしてそれをやるの?
え~。わかんない。
ただやりたいから。
そのとききっと今そこにいる。