2017年4月29日土曜日

聞き耳ずきんをもっても。。。


この世にはときどき「聞き耳ずきん」を持った人々がおられる。

「神との対話」のニール・ドナルド・ウオルシュさんの「神さま」とか、雲黒斉さんところ(って、だれやねん)の「雲さん」とか、はたまた天使や、宇宙人や、天狗や、ときどきカッパ(?)などの、この世ならぬ存在からメッセージをうけとる人々だ。

そーゆーこの世ならぬ存在に、
「ねえねえ、これについてはどーなの?」
「それはねー。うんぬんかんぬん」
「じゃあ、これはどーなの?」
「それはねえ。あんぬんかんぬん」
などと、この世やあの世のさーっぱりわからんことを、根掘り葉掘り教えてもらえるのだ。
もしそんなずきんを持っていたら、この欲深いやまんばにだって悟りを開けるだろーなー、、、、などとおもっていた。

あと一瞥体験をする人もいる。(この場合「覗き見メガネ」か?)
ある日突然、意味不明な驚愕する世界を垣間みるのだ!
そうして、この世は、この世に見えているものだけが、世界ではないのだ!と知る。そういう人たちの中には、その一瞥体験を語ることを生業としているひともいる。

やまんばには、うんぬんかんうんと、あの世を教えてくれる存在もいなければ、あの世体験を一瞥した体験もない。

そーゆーかれらをうらやまけしからんとながめていたが、ふと気がつく。

みんな、教えてもらったのちに、悟ったわけじゃないのだ。
質問に答えてもらっただけ。
だからこれは単なる「知識」!(笑)

「この花はなんという花ですか?」
「それは、オオイヌノフグリです」
ほほー。これはオオイヌノフグリという花なのですか。という知識をもらっただけ。

「この世はいったいなんなんですか?」
「この世は空です」
ほほー。この世は空ですか。とゆー知識をもらっただけ。

「わたしはいったい誰ですか?」
「あなたはいない」
ほほー。わたしはいないのですか。とゆー知識をもらっただけ。

ただの一知識なのに、それをただオオイヌノフグリ、オオイヌノフグリ、、、と、暗唱しているだけなのだ。

それを唱えたからといって、それが「わかる」わけではないのに。
これ、学校時代のテスト前の丸暗記の癖がついているんかも知れん。

だからこの世ならぬ存在にいくら答えを聞いても、じっさいにそれを「わかる」まで、自分自身が経験をして、その言葉ではなく言っている内容を心底理解するまでが大変なのだ!

だからこれって、べつにそんな存在がいてもいなくても、一瞥体験があろうがなかろうが、かんけーないんかもしれん。

いやむしろ、一瞥体験なんてあった日にゃ、その体験が忘れられなくて、
「ああ、あの体験をもう一度。。。。」
と、その体験のみを追いかけるワナにはまってしまうものだ。

だからたとえば、やまんばがそんな聞き耳ずきんなんかもってたとして、畑に行って、
「ねえ枯れたシシトウさん、あなたはどーしてほしいの?」とか聞いて
「はい。それはですねえ。。。あーしてこーして。。。」
なーんて、シシトウさんに答えられた日にゃ、それが教義になってしまい、逆にその言葉に囚われて身動きとれなくなるんだろうなーと、推測する。

覗き見メガネなんかもっていたら、この世の美しさをほったらかしにして、あっちの美しさだけを追い求めてしまい、日々がもっとつまらなくなるのは火を見るよりもあきらかだ。


今日も畑で草を刈る。
草を刈りながら、ぶつぶつ考える。
ふと浮かぶ叡智。
ほんの少しだけ、今までとはちがう視点に気づく。
「ああ、そうか。。。。」

そんなことが一番大事なのかもしれん。
大事なものは、ほんの小さなささやき。ほんの小さなまばたき。


うぐいすが、すぐ近くで鳴いた。
「ホー、ホケキョ!」



絵:「エクソシスト急募」/表紙イラスト

2017年4月26日水曜日

数字が増えるゲーム、減るゲーム。


銀行に行って残高を見た。
相変わらず少ない。

まだニューヨークに行く前、銀行の預金通帳の数字は、増えて行く一方だった。見る度におもしろいほど、どんどん増えて行くのを見ていた。

日本に戻って、今度は減って行く体験をした。
どんどんどんどん減って行く。おもしろいほど(うそだな。怖かったな)消えていった。いつもゼロに近い所でウロウロ。よくもまあ、生きていってるもんだ。


漠然とキャッシングコーナーで残高を見ていたとき、
「わたしはお金と言う数字をふやす遊びをしていたんだ。。」
と、気がついた。

そして今度は、減って行く遊び。
そんなゲームを楽しんでいた自分がいたのだ。

「お?と、ゆーことは?じゃあ、また増やす遊びをしようか♥」
と思った時、
「遊びは二度と繰り返えせない」
という直感が。

人はなぜお金を増やそうとするのか?
それは「お金は何にでも使える。あればあるほど、それにこしたことはない。あればあるだけ、しあわせになる」というような、当然のようにこびりついている概念があるからだった。


しかし今、お金が少なくても困っていない。
畑など、ほとんどお金を使わず、好きなように遊ばせてもらっている。気に入った本を買うお金も、近所でコーヒーを飲むお金も、食べたいおかずを買うお金もほどほどにある。今のわたしにちょうどいい具合に必要な分だけがそこにある。

じゃあなぜもっと欲しいのか。
未来を想定するのだ。
もしこんなことがあったら、もしものときのために、今起こっていないことのために、わたしはもっと必要だと、おもっていたのだ。
ただの無意識的に、誰もがそうするから、もっとあったほうがいい、と考えていたのだ。


ある人が言っていた言葉を思いだす。
「残高気にするから、減って行くんだよ。残高のことなんか忘れろ。
増やすことばっかり考えるから苦しいんだよ。
そして使う分を減らせ。そしたらことは勝手に動く」


数字が増えるゲーム。
数字が減るゲーム。
どっちも外から見ている自分がいた。




絵:「40代から仕事で巻き返す技術」/表紙イラスト


2017年4月24日月曜日

庭で本を読む。


またまた図書館から本を借りて来て、庭で読む。

この本のタイトルは『魂との対話』とあるが、原作の題名は、「Talking With Nature」つまり、「自然とお話しする」。

この著者さんは、樹々や鳥や昆虫はもとより、石と川とでさえもお話をする、危なーい人(笑)。

やまんばは、この手のはなしがきらい。
なぜなら野菜さんに、あそこには肥料がいるだの、あの場所にはわたしを蒔いてくれるなだの、いちいち文句を言われたら、野良作業が出来なくなるじゃないか!

しかしこの本は、そんな人間やまんばの、せこい考えを軽くふっとばかした。自然はそんなちょろい考えで動いているのではなかった。。。

夢中になって飛んでいると、ふと目の前の植物たちに呼びかけられた。
目の前には、今まさにキ印マークの生命があふれかえっていた。


本なんか、読んでるばやいやないで!


 庭の紅葉と、裏の山の緑のコントラストがすごい。



 エビネラン

2017年4月15日土曜日

「わかっちゃってない人」それはわたしw


なにもしないでいると、なんかしなきゃ、、!と、心が動く。
何もしていない時間に耐えられなくて、本を読む。ネットを見る。
探しているものが見つかるかも知れない。何かヒントがあるかも知れないと。

だが。
もうみつかりそうもない。
外には。

それでもいつもの習慣で、ふとパソコンの前にいる。
本を読もうとする自分がいる。
でもさがしてもさがしても、なにひとつみつけられない。
イライラしている自分に気づく。



「わかっちゃった人たち」という本を読む。
やっぱりそうか。そうだよ。そうだよ。まさにそう。ああ、わかるー!
それをわかるわたしってちょっとすごくね?

その日の夜。
ある出来事が起こって、心が動揺する。

原因と結果なんて、勝手に思考が繋げちゃってるだけだって、わかってるじゃないか。
なのに、心は動揺して「どうしてこうなった!?」と原因を探そうとする。
「じゃあ、どうする?どうすればいい?」
と、未来を予測して、恐怖のあまり対策を練ろうとする。

わかってるはずじゃないのか?
ただ起こることをそのまま受けとめればいいだけじゃないか。
動揺する自分は、まだわかってないじゃないか。。。!

orz……

すったもんだの翌朝。
「あたしってばかよねー。なーんにもわかってねえじゃん!」
と、一夜の葛藤をダンナに報告する。

「へー。でもさ、なんにもわかってねえこと、わかったじゃん」
と、へらへらしながらいうダンナ。
あいかわらず、するどいやつ。

そうなんす。
「無知の知を知る」
自分の愚かさを知る。

「はあーー。道は遠いのー。」
と、思考がいう。(おめえがいうんじゃねえ!)



絵:「カリスマ社長の大失敗」表紙イラスト

2017年4月13日木曜日

そうだ。貯犬箱で、京都へ行こう。



「ピンポーン」
「はあ~い」
「宅急便でえ~す。お荷物届いてます」
「へ?」

アマゾンから、謎の荷物。。。
はて。なんかたのんだっけ?
開けてみると、意味不明なものが。。。。

ちょっと前に怪しい不在通知にご注意!という記事を読む。
はては、これも新種の詐欺か!?
と、とまどうやまんば。(これでもかなり、気が小さいw)
あとから、不当な請求書でも届くか???と、身も凍る思い。

犬のおもちゃみたいなものが、箱の上に乗っている。
そこに「CHOKEN-BAKO」というあやしげーな文字が。。。

「ちょ、ちょけん・ばこ???」
貯金箱なら、知ってるが、ちょけんばこ?
ひょっとしたら、金は、犬?
貯金箱ならぬ、貯犬箱か?
(犬を貯めてどーする!)

宛先をながめながら、そこにあったケータイ番号におぼえがあった。
そーいや、最近「あの方」が、
「えーもんおくったでえーーー」
と、言ってたなーと、気がついた。

人生の大先輩が、来年京都で個展を大々的に開かれる。
そのために、
「金貯めて、俺の個展に来い!」
と、ビンボーな後輩に向けての、愛ある「強制的なw」贈り物であった。

毎日、犬のミーちゃん(勝手につけた名前)に、100円コインのエサをあげる。するとミーちゃんは、むさぼるよーに、コインをかっ食らうのだ。その食いっぷりは、昔ユタにエサをあげた時とそっくり(笑)!

コインを入れると、前後左右に激しくコインに食らいつく。


1年後には、ミーちゃんを引き連れて、大先輩の個展を見に行こう~!


2017年4月9日日曜日

心の旅へダイブ


心の旅を続けている。

わたしは、何気ない自分の行為が、人に迷惑をかけているのではないかという思いに囚われている。

今、こうしてブログを書く、それを文章にすることさえも、間違っているのではないか?人に迷惑をかけるのではないか?と、心はつねに戦々恐々としているのだ。
そうは見えないかも知れないが(笑)。

きのうも近所の八百屋さんで野菜を買い、それを家に配達してもらった。
「老人ホームに配達があるから、いいよ。もっていくよ」
と、いってくれる。
配達代はただ。こういうサービスが、八百屋さんの信頼を買っている。

手ぶらでぶらぶら近所を散歩しながら、心の中がざわざわしているの気にづく。
八百屋さんに配達を頼んだことを気にしている自分に気がついた。

持って行こうと思えば持てる量なのに、配達を頼んでしまった自分。。。
いやいや、ダイコンとキャベツがまるまる入っているのだ。重いに決まっている。。。
言葉にならない言葉が、ざわざわとわたしを襲う。
「これ、罪悪感だ。。。。」

人は自分の感情を見ないようにするため、言葉を使う。

なぜ感情を見たくないのか。
それは持ってはいけない感情があるのだという信念がゆえ。

怒り、哀しみ、嫉妬、不安、そして罪の意識。
そういうものは、あえて気がつかないようにするのが私たちの習性になっている。

怒ってはいけない。嫉妬してはいけない。罪悪感はもってはいけない。。。
何かの出来事に無意識にぴくりと反応する自分にフタをする。
見ないフリ、聞かないフリ、気づかないフリ。
もし、それに気がついてしまえば、それをきっかけに、ありとあらゆるがらくたが、心の中にあふれてきて、おぼれてしまう!と、信じているがごとく。

だから誰かを非難する言葉や、自分の正当化などで、心の中を言葉で埋め尽くし、自分の感情を自分で見ないようにしている。

心の旅とは、自分で自分のその心の中を旅することだ。
感情、言葉、感覚。
今、まさに自分のからだの、頭の、この中で起こっている出来事に、直接触れていくこと。
正直に、今感じているもの、そのものに触れていくこと。
ここからすべてがはじまる。

わたしが感じているその罪悪感に、心をよせる。
ただそれだけの中にいる。
そこにある罪悪感を、とりのぞこうと躍起にならない。
その罪悪感を愛おしく観る。


罪悪感をとりのぞこうとすればするほど、それはもっと居座る。大きくなる。ぴったりくっついてはなれなくなる。
それは怒りと同じ。哀しみと同じ。嫉妬と同じ。そして思考と同じ。
考えちゃいけないと思えば思うほど、頭の中の声が巨大になる経験をしたことがあるだろうか。



わたしは八百屋さんに罪悪感を感じていた。迷惑をかけてしまったと。
それはほんとうだろうか。ほんとうかほんとうではないかは、わかりようがない。きっと八百屋さんに聞けば「だいじょうぶだよ」というだろう。でも本心は、わかりようがない。

人が罪悪感を感じる底には、別の考えがある。
罪の意識を感じることによって、
「わたしは罪の意識を感じるいい人間である」
と、自分を自分に納得させたいという隠れた意図がある。
じつはそれは「人のため」ではなく、「自分のため」に、行なっていることだった。

自分の感情を知り、それを見る心の旅。
ひとつの感情は、たったひとつの出来事からストレートに現れてくるものではなく、その人が体験してきた出来事、思い、信念などが複雑にからみあい、つむがれたもので出来ている。

表れて来た感情に心を寄せることは、恐ろしい魔物を見ることではなかった。
むしろ、自分を愛おしく思いはじめる。
こんな感情を持つのは当然だったなあ。。。としみじみと味わうことさえできる。
その後ろに隠された、今まで気がつかなかった、自分がそうせざるをえなかった理由もみえはじめる。

心の旅は、自分の感情を観る旅であり、そして自分の身体を観る旅でもある。

思考を離れ、感覚の中に意識を研ぎすませる。
その時、わたしは今にある。
閉じられていた扉がじょじょに開きはじめる。
小さい頃、開いていた扉だ。
大人になるにつれて、閉じられてきた扉。

深い深い意識の海に、心を泳がせて行く旅は、まだはじまったばかりだ。
深くダイブすればするほど、心もからだも軽くなっていく。


絵:「人はなぜ砂漠で溺死するのか」メディアファクトリー新書表紙


2017年4月6日木曜日

やまんばの「花粉症治っちまった物語」



わたしの花粉症が治っていった経緯を書いてみるね。

これは誰にでも当てはまるもんではないだろうし、一般常識から言ったら、かけ離れている。だから単なる読み物として受け取ってほしい。そーゆーおばかな実験をやった、おばさんの一物語だ。

ひどい花粉症に悩まされて、夜もろくに寝られなかったわたしは、粘っこい強烈な粘膜質の鼻水が喉に詰まって、息ができなくなって、マジで死ぬかとおもったこともあった。無意識にかきむしられた喉は真っ赤にただれ、眼はかきむしり過ぎて、白目の部分が風船のように膨らんでしまい、まぶたが閉じられなくなるほど。

つねに首から上がとてつもない不快な存在感をもち、とにかく息をうまく吸うことだけを願い続けた約20年間だった。(幸いNY生活のあいだは、スギの木がなかったので、花粉症にはならなかった)
誕生日が3月で、春は好きな季節だったのに、社会人になってから花粉症と確定申告のせいで、春がくるのが恐ろしかった。

もちろんその間、ありとあらゆる方法を試みた。だがいっこうに良くなる気配もなく。。。


ある時、ひとつのブログに行き着いた。

それは「野人エッセイす」という変なオヤジが人生を謳歌しているブログだった。40年間、石けん、シャンプーリンス、歯磨き粉など、文明人が使うものなどいっさい見向きもせず、野人のごとく、野原と海を駆け回り、野原で野菜の種をはなさか爺のようにばらまき見事に育て、海にもぐってはうまい海の幸を、山に分け入ってはケモノの背中にまたがって(?)、うまい山の幸をゲットしてくる、すごいオヤジだった。

それに全く感化され、わたしは石けんなし生活を始める。
顔や全身に使っていた石けんをやめたことで、からだに感じていたかゆみはもちろん、お肌のかさかさはまったくなくなった。顔は水でばさばさっとあらうだけ。お湯が皮膚の油分を取り除いていたのだ。

一般的には、自然にでた油分をきたないものとして石けんで落とし、そしてその補いに化粧水やクリームをぬる。
油分をとって、油分を補うのだ(あほみたいじゃね?笑)。

だがその加工品のせいで、肌荒れをおこすしまつ。そして日夜「からだにあう」化粧水はないか、石けんはないか、と走り回るのである。なんのことはない。さっさとやめちまえば良かったのだ。

歯磨きも、歯磨き粉をやめて、ただブラッシングするだけによって、喉のかゆみや痛みが消えたのはもちろん、お通じが良くなった。風邪も引かなくなった。

シャンプーリンスを使わなくなると、フケもでなくなるし、抜け毛はなくなるし、毛も太くなった。
美容室では「相変わらず、多いわね。。。」と文句を言われながら、すいてもらっている。

そういう実験を通して、私たちのからだは、何かを足して補う必要がないことを知る。むしろ省いて行くことによって、私たちのからだの自然治癒力や叡智がいかされる。あれを補い、これを足すと言う「よけいなこと」をしなくなれば、かれらがすべて勝手にやってくれているのだということを身をもって知る。
その詳細はここに書いてあるので、興味のある方は読んでほしい。


そういう実験の最中に、それが花粉症の症状をぐっと軽くしていることに気がついた。
喉のかゆみはほとんど消え、鼻水もさらさらになった。
花粉症の症状は8割消えていた

だがまだ眼のかゆさや鼻水は残っていた。私は甜茶などを試して、からだの改善を試みていたが、それも決定的なものではなかった。そんなおり、ハッカ油の存在を知り、それに随分救われた。

ほんの少し、ハッカ油を小さくたたんだティッシュにつけ、それを直接肌に触れささないように裏返しにして、マスクの中に入れるのだ。スースーする心地よい空気が、息をするたびに鼻に入って来て、心と鼻の粘膜をやさしくしてくれる。随分このハッカ油には救われた。症状のきつさ緩和には、これがいい。

ただものすごいきついものだから、くれぐれも用心して使ってほしい。ちょっとハッカ油を触った手でまぶたにでも触れようもんなら、眼から火がでる(笑)。とんでもない苦痛を味わうので、そこんところ、よろしく。



さて、そういう何かの道具を使って、症状を緩和させるのは、わたしの哲学に反した。
何も足さないことが、わたしの主義。であるならば、その次は何か。

わたしは「現れる現象は、やがて消えていく」という思想を知る。仏教の「諸行無常」のことだ。
ん?現れるものはやがて消えていく?

ならば、この眼のかゆみはどうだ?
実験開始。

山をみていると、スギから、花粉が、ぱっふ~~んととんでいく。
その様子を見ているうちに、だんだん眼がかゆくなる。
う。。きた。。。
手が、首から上にいこうとする。
だめだ。。。かいてはいけない。。。。
かきむしろうとする衝動を抑えて、じっとその症状を観察する。

かゆみはじょじょに大きくなり、山場を向かえる。
くっくるしい。。。かっ、、かゆい。。。。
手が動こうとする。。。
それでもじっとたえる。
あるピーク点を向かえると、じょじょにかゆみがおさまって行く。
あれ?消えていく。。。消えていく。。。。あ、、、、完全に消えた。。。。

まさに、わたしの怒りについて実験した「いかり踊りじゃあ~~っ!」と同じことが起こったのだ!

現れる現象は、やがて消えていく。
現れるかゆみは、やがて消えていく。
現れる怒りは、やがて消えていく。

それからわたしはかゆみが起こるたびに、じっとその現象が消えていくことを見守った。
眼はかくから傷がつく。粘膜の表面はもっと敏感になる。敏感になればなるほど、かゆみはまして行く。そういう悪循環が起こっていることにも気がついた。

さて鼻水はどうだ。
ずるずる流れる鼻水を、わざとほおっておいた。マスクの中で鼻水が洪水になる。それでもほおっておいた。
鼻水がでると、それが気になるから鼻をかむ。すると鼻の中の粘膜にスギ花粉がつく。それに刺激され、また鼻水がでる、という悪循環が起こっていることに気がつく。
鼻水は、粘膜を潤わせて、外からやってくる異物から保護する役割をしてくれているんだと知る。

寝ている時に、鼻が詰まって口開けて寝ることで、かゆさが出てきて、かいてしまうことも、勝手にやってくれと、まかせた。
鼻水が喉に流れてたまってしまっても、口から出すことはせず、「ええい。ままよ!」と、ごっくんと飲み込んだ(笑)。するとどうだ。飲み込んだ方が、かえってかゆさが消えているではないか。鼻水は、喉の粘膜の刺激を和らげてくれるのだろうか。

とにかく起こってくる現象に「抵抗せず、受け入れる」ということを徹底した。
あらゆる症状は、からだを保護するために、その叡智によってことごとく起こっていることを、身をもって知った。
だから症状があるごとに、「イヤだ!」とか「ダメだ!」とかおもって、なきものにするんではなく、あえて、「おお、そうきたか」と、うけてたつぐらいの心構えでいるとおもしろいことが起こる。


今でもときどき、鼻水が垂れたり、くしゃみが止まらないこともある。けれどもその時は、汗をかいて冷えたりしたときのようだ。
その状態にいちいち「えっ?まだ治ってないの??」
と、過敏に反応するのをやめた。放っておけば、自然と消えている。

気がつけば、目の前を飛んでいる花粉を見ても、
「おお!大自然の営みだ!」
と、よろこんでいる自分がいた。

鼻をオッピロゲて、春の匂いをかぐ。
春がくるのが楽しみな自分にもどっていた。

長くなりました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
以上、やまんばの「花粉症治っちまった物語」でしたあ~~~。




2017年4月3日月曜日

心の中へ。。。


いつも何かわからない不安に振り回されていた。

その不安が、一体なんなのかわからなかった。
やがてその不安の原因は、いつも心の中でしゃべっている言葉であることに気がついた。
自分を否定してくる言葉。
否定、罪の意識、善悪の判断、優劣の比較。。。
その言葉は、まるで自分を押しつぶそうとしているかにみえた。

じっくり聞いていると、その言葉は自分にとって役に立たないものだと知りはじめる。むしろ自分に限界を与え、矮小化し、自分を陳腐で、何の役にも立たない愚か者におもわせているのだ。

いろんな精神世界の本から、これが「エゴの声」だと知る。
その声を自分の声だとおもいこみ、その言葉のいうことが正しいとおもいこみ、その言葉のいう通りに動く。
結果、自分を限りあるものだと信じ込み、自分を矮小化して行くというのだ。

なるほど、わたしの中に聞こえてくる言葉は、客観的にみると、まるでわたしを矮小化することを目的としているかのようだった。

それ以来、わたしはその言葉に乗っからないようにしはじめる。
いつも聞こえてくる言葉、自分を否定する言葉。
その言葉をただ聞くだけになった。
「ふ~ん。また言ってるな。。。」と。
それ以来、いつも動揺していたものが消えはじめる。


これで「エゴの声」は消えたかに思えた。
そのエゴの言葉は、粗大ではっきりとした言葉だった。
それで終らなかった。
今度は、もっと繊細な言葉になった。

一見、何を言っているのかわからない。だけど何か心を刺激する声だ。
その言葉にならないものを聞くと、またもや心が動揺して、なにかに突き動かされる反応に気がついた。
そしてその言葉にならないものが来たとき、それに乗らないようにした。

だがそれで終らなかった。
今度は、声でもなく、言葉にならないものでもなく、振動するような不快なバックグラウンドミュージックが、延々と自分のあたまの中で鳴っているのに気がつき、衝撃を受ける。

こんなものをわたしは聞き続けていたのか。。。
それはとてつもなく不快であった。
同時に、現代人はこういうバックグラウンドミュージックを聞き続けているのだと実感する。
延々と、言葉にも、声にも鳴らない、自分を否定するBGMが鳴り続けているのだ。
(どんなイージーリスニングやーっ!ってゆうか、ハードリスニングやな)
そりゃー、つかれるわ。

ここまで来た時、これは人にお勧めできる方法ではないなと思いはじめる。
こんなものに気がつくと、とてもじゃないが、まともに生きてられないと思った。

それもやがて山場を過ぎ。。。。

今度は探求する自分に気がつく。
「も、もうすぐ悟れる。。。。もうあとちょっとだ。。。だから、何か、ヒントを。。。。。」

必死で自分を解放してくれるネットを、言葉を、人を、ブログを、本を、探している自分に気がつく。

探求の衝動に気がつく。。。。。

その衝動に気がついたとき、あぜんとした。

これに突き動かされていたんだ。。。。。。


その衝動に気がついたとき、ただほおっておいた。
その衝動は消えていった。

探求の衝動さえも、エゴなのだろうか。。。。

ただ、この作業は確実に、からだも、心も、軽くさせていく。


絵:「けんぽ」表紙/アメリカ西部のワタリガラス




2017年4月2日日曜日

このごろ頭が変だw

毎週末に行く高尾の奥にあるコーヒー屋さん「ふじだな」。
先週は、開店1時間前に行ってしまった。

そぼ降る冷たい雨の中、たまたまお店のシャッターが開いていて、中からご主人がわたしを見つけてくれ、店に入れてもらった。

「どうしたの?こんなに早く来て!」
といわれるまで、自分が1時間も早く来た事に気がつかない始末。
ちゃっかり早めにコーヒーを入れてもらう。

今日は今日で、前もって臨時休業だと聞いていたのに、行ってしまう。
さすがにシャッターが下りていた。それでもなんで休みなのか、気がつかない。

たまたま山から降りて来た友人に
「このあいだ、言ってたじゃないですか!おぼえてないんですか?」
と言われても思いだせない。

しばらくして、頭の片隅に
「そーいわれれば、そんなこといってたよーな気がするなあ~。。」
というよーなありさま。

それでも行き帰りの山や道沿いの花たちに眼を奪われ、楽しい時間を過ごす。

なんか、このごろ頭がへんになってきた。
でも、なんだか、そーいう自分がたのしい(やばい???w)。