この世にはときどき「聞き耳ずきん」を持った人々がおられる。
「神との対話」のニール・ドナルド・ウオルシュさんの「神さま」とか、雲黒斉さんところ(って、だれやねん)の「雲さん」とか、はたまた天使や、宇宙人や、天狗や、ときどきカッパ(?)などの、この世ならぬ存在からメッセージをうけとる人々だ。
そーゆーこの世ならぬ存在に、
「ねえねえ、これについてはどーなの?」
「それはねー。うんぬんかんぬん」
「じゃあ、これはどーなの?」
「それはねえ。あんぬんかんぬん」
などと、この世やあの世のさーっぱりわからんことを、根掘り葉掘り教えてもらえるのだ。
もしそんなずきんを持っていたら、この欲深いやまんばにだって悟りを開けるだろーなー、、、、などとおもっていた。
あと一瞥体験をする人もいる。(この場合「覗き見メガネ」か?)
ある日突然、意味不明な驚愕する世界を垣間みるのだ!
そうして、この世は、この世に見えているものだけが、世界ではないのだ!と知る。そういう人たちの中には、その一瞥体験を語ることを生業としているひともいる。
やまんばには、うんぬんかんうんと、あの世を教えてくれる存在もいなければ、あの世体験を一瞥した体験もない。
そーゆーかれらをうらやまけしからんとながめていたが、ふと気がつく。
みんな、教えてもらったのちに、悟ったわけじゃないのだ。
質問に答えてもらっただけ。
だからこれは単なる「知識」!(笑)
「この花はなんという花ですか?」
「それは、オオイヌノフグリです」
ほほー。これはオオイヌノフグリという花なのですか。という知識をもらっただけ。
「この世はいったいなんなんですか?」
「この世は空です」
ほほー。この世は空ですか。とゆー知識をもらっただけ。
「わたしはいったい誰ですか?」
「あなたはいない」
ほほー。わたしはいないのですか。とゆー知識をもらっただけ。
ただの一知識なのに、それをただオオイヌノフグリ、オオイヌノフグリ、、、と、暗唱しているだけなのだ。
それを唱えたからといって、それが「わかる」わけではないのに。
これ、学校時代のテスト前の丸暗記の癖がついているんかも知れん。
だからこの世ならぬ存在にいくら答えを聞いても、じっさいにそれを「わかる」まで、自分自身が経験をして、その言葉ではなく言っている内容を心底理解するまでが大変なのだ!
だからこれって、べつにそんな存在がいてもいなくても、一瞥体験があろうがなかろうが、かんけーないんかもしれん。
いやむしろ、一瞥体験なんてあった日にゃ、その体験が忘れられなくて、
「ああ、あの体験をもう一度。。。。」
と、その体験のみを追いかけるワナにはまってしまうものだ。
だからたとえば、やまんばがそんな聞き耳ずきんなんかもってたとして、畑に行って、
「ねえ枯れたシシトウさん、あなたはどーしてほしいの?」とか聞いて
「はい。それはですねえ。。。あーしてこーして。。。」
なーんて、シシトウさんに答えられた日にゃ、それが教義になってしまい、逆にその言葉に囚われて身動きとれなくなるんだろうなーと、推測する。
覗き見メガネなんかもっていたら、この世の美しさをほったらかしにして、あっちの美しさだけを追い求めてしまい、日々がもっとつまらなくなるのは火を見るよりもあきらかだ。
今日も畑で草を刈る。
草を刈りながら、ぶつぶつ考える。
ふと浮かぶ叡智。
ほんの少しだけ、今までとはちがう視点に気づく。
「ああ、そうか。。。。」
そんなことが一番大事なのかもしれん。
大事なものは、ほんの小さなささやき。ほんの小さなまばたき。
うぐいすが、すぐ近くで鳴いた。
「ホー、ホケキョ!」
「ホー、ホケキョ!」
絵:「エクソシスト急募」/表紙イラスト