2015年8月31日月曜日

「私」は習慣である






最近おもしろい本を読んでいる。

おもしろいではないか。
「私」というのは、習慣である、と言ってるのだ。
そしてその本は、その習慣を断つことができると。

やまんばは常々、自分ってなんだろう?とおもってきた。自分と定義つけている自分は、ほとんどが過去にしばられている。過去に起こった出来事、過去にやった事、過去に考えた事、過去に感じた事、すべてが記憶の中にある。その記憶を元に「私」を作っているのだ。

でもその「自分」の特徴を調べるうちに、あらゆる中にパターン的な考えを見出す。そのパターン的な考えが動機になってあらゆる行動の衝動が起こっている事にショックを受けた。

やまんばの考えのパターンは、罪悪感。
およそ自分でとる行動の動機のほとんどがこれだ。
人に迷惑をかけてはいけない。後ろ指さされるようなことはしてはいけない。などなど。
こうなったらどうしようという心配と恐怖にもとづいて、それを回避するような行動を開始する。
それは朝起きた瞬間からはじまる。なにかまちがったことをしていないか?と、目覚めた瞬間から、ものすごい早さで頭が回転し、問題点を探しはじめるのだ。

そのパターンを見つけはじめたとき、「わしは病気か?」とおもったほどだ。

いったんそのパターン(つまり、わたしにとっての罪悪感)を見つけると、芋づる式に、とんでもなく現れ出した。
私は完全にパターンの中にハマっていたのだ。
同じ考えを、同じように感じて、同じような行動をする、というパターンを何十年も続けていたのだ。

その本は、その辺りの事をものすごく細かくわかりやすく書いている。人がどんなふうに自分の習慣の中に没頭しているのか、これでもかというぐらい明確に説明してくれている。

そして、その自分のパターンに気がつきはじめると、そのパターンがだんだん落ちはじめるのだ。無意識に起こっていた行動が、意識化される事によって、明るみになり、解体がはじまる。

この解体作業がない限り、新しい自分を創造する事が出来ないという。
まさにそうおもう。
臭い匂いを、香水でごまかすようなもんだ。
いったん臭い匂いを消さない限り、香水は生きては来ない。

これが引き寄せの法則がうまくいかない原因なんだろう。
ぐちゃぐちゃに描かれた絵の上に、いくらキレイな絵を上書きしても、下の絵が透けて見えるのと同じ。

ポジティブシンキングしたところで、巨大なネガティブの土台の上には、つゆと消える。

いったん、自分をゼロに戻すと言うか、リセットし直してから、新たな自分を作り出していくのだ。
サナギからチョウになるとき、サナギの中は、ただの液体しかないと言う。
そういうことに似ていないだろうか。


小さいときにつくられた自分は、いわば親や環境によって、他力的に受け身的につくられてきた「私」だ。
それをリセットし直し、新たにつくられる自分は、自分でつくる自分なのだ。

そんな自分が新たにつくられるとしたら、そして好きなように設定できるとしたらなんておもしろいんだろう。


絵:「神話」/オリジナル切り絵/まるっとつくし展より



2015年8月27日木曜日

恋愛パワフル




きのう、キムタクの夢を見た。
二人で顔と顔を寄せ合って、なでなで。しあわせなひととき。
やまんばはキムタクがすき。
だから今日は心がぽわんぽわん。。。。
って、わけでもない。

人は恋愛をすると、異常なくらいパワフルになる。全身が活性化して、目の前の出来事がキラキラしてみえる。なにをやっても疲れない。そんな日々が数日続いたのち、あるとき、相手のイヤな部分を見つける。
ゲ、こいつこんなクセを持っているんだ。
あ、ここ、見るのヤダなあ~。
そーやって、最初の恋愛パワフルな自分が消えていく。
そしてあのしあわせだった日々は「おもひで」として、あたまの片隅にのこる。
だらだらしているダンナを横目で見ながら、あ~あ、若い頃のあいつはこうじゃなかったなあ~などと。



わしは、突然わけもなく恋愛感情に取り憑かれたことが、2、3回ある。
お相手は、大国主命だったり、見えない存在だったり(笑)。
唐突に、いきなり、なんのまえぶれもなく、その存在を身近にかんじて、燃え上がるような恋をするのだ。ほんの数分間だけ。

最初は、ああ、わしは神様に愛されているのね~とか思っていたが、だんだんそう言うことじゃないんじゃないかと思いはじめた。

それは、自分の中にある「なにか」が浮上するのじゃないかとおもうのだ。

わしらはこの世に生まれてきて、最初はわけが分からないまま存在していたが、だんだん分離感を味わいはじめる。そして大きな欠乏感を抱いたまま、大人になっていく。
最初の恋愛体験で、だれかとの一体感を感じたのち、それが探し求めていたなにかなにだ!とおもいはじめる。そしてだんだん相手に依存しはじめる。相手がいないと欠乏してしまう苦しさを生みはじめるのだ。
そうやってオトナは恋愛ドラマを続ける。

しかし、その恋愛対象は、自分じゃないだろうか。
自分を愛したいし、自分に愛されたいという衝動なんじゃないだろうか。

心が叫ぶ「だれかに愛されたい!」は、
もっと奥にある巨大なものからの分離感から起こる衝動。

でも心の騒ぎが消えると、突然、もともと愛に包まれていたという事実に遭遇する。
それが垣間見える瞬間が、「恋愛」というふうに解釈されるのではないだろうか。

だから今朝わしがみたキムタクとの恋愛は、巨大な自分との遭遇のほんの一部を垣間みたのではないだろうか。それをあたまで「キムタク」と置き換えて味わっていた。。。そんなふうに感じた。


絵:「Murder Most Malicious」ハードカバー表紙イラスト
イギリスの貴族社会を舞台に展開する、ミステリーのシリーズが始まりました。




2015年8月19日水曜日

よれよれのキュウリが。。。



6月ごろ、知り合いに、
「もう伸び伸びになっちゃって、使えるかどうかわかんないけど、どっちみち捨てるつもりだった苗だけど、いる?」
ともらったキュウリの苗は、ちっこいポットに、50センチぐらい徒長した、葉っぱも黄色くなった、よれよれの苗だった。

それとあわせて、脇芽をかいたであろうトマト「アイコ」の苗。苗と言っても、おそらく水に浸して根を出させ、根っこがびろびろ伸びたもの。

このはたから見たら、「ムリだろ」とゆーよーな苗が、今頃になってもりもリ育っているのだ。それも肥料もなにもない畑で。

これはなんでやろ。
トマトは何となくわかる。トマトに肥料はいらないのがわかってきたから。しかしキュウリも?

そのキュウリはウチの畑で種から育てたキュウリよりも元気だ。
これは種のせい(つまりF1が、固定種よりも強いのか?)なのか?
それとも育て方のせい?

出来のいい親の子どもと、出来の悪い親の子どものちがい?

それとも、小さいときは栄養たっぷりで育てた子どもと、
ビンボーなうちで、貧そな食事で育てた子どものちがい?

どっち?

わからん。

だけどこれまでF1を悪者あつかいしてきたやまんばは、こだわりすぎていたのかもしれん。種取りにこだわりすいていたのかもしれん。。。
じゃあ、肥料もあげた方がいいのか?

いや。そこだけはやだ。
それじゃ、植物の強さを見られない。
あのちいさいころ、アスファルトからニョキ~ってでて来たあの花を見たときの驚きとよろこびは、忘れられない。
植物の強さを間近で見たい。


でもなんとなくおもう。
だんだん肥料なしでも育っている感じがする。
ピーマンもたわわだ。落花生もでかくなってくる。(でもきのうウリボウに全滅させられたw)

気にしない。
大きくする事、多く育てる事、そこにあまり重きを置かなくなってから、なにかがか変わりはじめた気がする。

うまいこといえないなあ。
だけど、この気楽さは、なにかをおこしているのかもなあ。


2015年8月15日土曜日

大地と人間と、野生のにおい



畑がジャングルになっている。
やまんばは、黙々と草を刈る。
汗が大量にあふれてきて、体臭がする。

「ん?」
ふと気がつく。イメージが出て来る。
ユタ。
ウチで飼っていたホワイトシェパードのユタのパウ(肉球)のにおい。。。
あれ?この大地からも香る。。。
 
なんと、やまんばの体臭と、大地から香るにおいと、イヌの肉球のにおいは、同じにおいだった。
そして、むかし知人の葬儀の時に香った死臭も同じにおいだった。

甘く、香ばしく、少し酸味のある、なつかしいにおい。。。。

だからユタのパウを「臭い~」と、いいながら、しょっちゅう嗅いでいたのか。
だから葬儀のとき、「このにおいは覚えておこう。。」とおもったのか。

大地と、草と、人間と、野生から立ち現れてくる、この共通の香りはなんなのだろう。

やまんばは、畑の真ん中で、そのにおいに酔いしれた。




2015年8月8日土曜日

なあんだ。



「ふつうに歩くとつまらんでしょ?
でも、一本立ちになって、けんけんで歩くとおもしろいじゃないですか。
そして、ふたりの人間の片方の足を結ぶと、二人三脚になる。
ほら、これでゲームができた」

やまんばは、あるユーチューブを見て、「あっ!」とおもった。

ふつうにしてたら、おもしろくない。
制限を与えたとたん、ゲームになる。

双六だって、サイコロを振って2が出たら、2個前に進むという制限がある。
サイコロふって2が出ているのに、6個も10個も前に進んじゃったり、うしろにさがっちゃったら、ゲームにならない。
決まり事という制限があってはじめてゲームが成り立つ。

わしらはまったく同じ事をこの人生の中でやっているのだ!
肉体という制限。
物質界という制限。
民族という制限。
国という制限。
価値観という制限。
いい悪いという制限。
正しいまちがっているという制限。

お金がある事がいいこと。
はやい事がいいこと。
多い事がいいこと。
若い事がいいこと。
高い事がいいこと。
でもモノによっちゃ、正反対になる。
山のようにあるいいこと。悪いこと。

その制限があることで、それによろこび、それに悔しがり、それになげき、それに怒る。そうやってゲームを続けているんだ。

だって、「ホットケーキ!」といえば、
ぼん!っての前にホットケーキが現れたら、最初は嬉しいけど、だんだんあきてくる。
やっぱ、ホットケーキが食べたい!っておもったら、スーパーに走って、小麦粉と、牛乳と玉子とお砂糖とバターと、ついでにメープルシロップなんかもかっちゃって、
フライパンの火の加減を調節しながら、ひーひー言って作って、出来たホットケーキの方が、じぇったい味わえるじゃん!

その達成感のおもしろさをわしらは味わっているんじゃないだろうか。

なあんだ。そーだったのか。



2015年8月5日水曜日

なんにもしない時間



テレビを消して、じーっとする。
そんな時間が増えた。

パソコンも見ない。本も読まない。
ただソファにねっころがって、天井の雲を見る(ウチの家の天井は青空に雲がうかんでいる柄w)。

身体を意識し、心を意識する。
今どんな気分?どんな感じがする?

ただそれだけなのに、なんかが満ちてくる。
あたまの中が静かになる。
ふと浮かんだ事に、瞬時に身体が動いていることもある。

今までは、浮かんでも、「いや、今やるのはおっくうだ。あとでやろう」みたいな言い訳を考えていた。
けどそんな一瞬の戸惑いはどっかに置き忘れている。

今、朝から晩まで忙しく動きまくっている。
けどそんなに疲れない。
この暑さの中、お昼にちゃりんこで移動するのも、きつくない。

夜はお月さんを見ながら、
足の内側のくるぶしをなでなでしながら、
「今日もいちにちごくろうさま。ありがとうねえ~」と、いう。
そして足、お腹、手、胸、目、いろんなところをさすって、
ありがとうねえ~とお礼を言う。

ふとんに大の字になって寝る。
身体を感じながら眠ると、なにかが満ちてくる。
なんかがある感じがする。
今まで見てなかったもの、気づかなかったなにか、なにかがそこにあるのを
気づきながら眠りに落ちていく。