「対等」という言葉の意味を知り始めて、自分がいかに人間関係の中で、恐れの中にいるのかを知ることになった。
人の上に、肩書きや階級のようなものをかぶせ、その目でその人を見る。
お役人やお医者さんやアートディレクターという肩書きに、体が一瞬ひるむ自分を見た。
警察官にはそれほどでもない。父が警官だったからだ。単に慣れているだけ。どっちかというと、食ってかかりたい(笑)。
だがこれも同じ穴のムジナ。
どちらかに力があって、それを奪うか奪われるかという戦いになる。自分が上に立とうとするか、下に立とうとするかで、全く対等ではない。
肩書きにひるみ、自分を下に置く瞬間、みょうに居心地が悪くなる。
それは相手に力を与えたからだ。
相手に力を与えるということは、自分には力がないと信じたことになる。そうすると自由を奪われるような、なんとも言えない嫌な気分になる。
今度は逆に「自分の方が有利だ。上だ。。。」と思わせる状況や人たちがいるとする。
すると途端に自分には力があって、こいつらをどうにかしてやろう、という気分になる。
つまり力がこちら側にあると思った瞬間、こちら側に自由があり、この目の前の人を自分がコントロールする力があると信じているのだ。
だがその状況はいつでもころっと反転する。コントロールしているところに自分より上の人間がやってくると、途端に自分を下にする。「あっ、どーもすいません。。。」と下手に出る。
つまり「力」は一つしかなく、常にどっちかがもつことになる。
これが上下の関係。上に立つものは下のものをコントロールし、下になるこのはコントロールされる。
不自由と自由は、どっちが力を持つかにかかっているのだ。
不自由はいつでも転がっている。言い換えれば、いつでも不自由になれるということだ。
ここにはまったく対等性はない。そしてそこにある自由は本当の自由でもない。
だが肩書きが上の方に見える人も、同じ人間。家ではおかーちゃんの尻に敷かれているかもしれない。
娘に「きもっ!」とか「ウザイ」とか言われて、ガン無視されているかもしれない(もう古い言葉?)
だから一瞬肩書きにひるんだ自分を許し、対等であることを意識する。
無意識に自分を下に置こうとしている自分に気がつき、やめる。
もちろん上にも置かない。まったく同じ立ち位置に立つことで、途端に自由になれる。
そのことを教えてくれたのは、うちの町会長だった。
会長という役柄上、無意識に自分を高みに置こうとするものだ。ところが彼は自分を上に置かない。もちろん下にも置かない。常に対等な位置にいる。だから私も自然と同じところに立つことになった。対等だから、言いたいことはずけずけいう。それを許してくれる人だった。
またある人は、自分を常に上に置こうとしていた。彼の虚勢は恐れから来ていた。
よく観察していると、自分は力がないかもしれないという密かな恐れがあり、それを振り払うように大きく出る。一見力があるようにみえるが、その心はとても繊細だった。
だから彼といると自然と私は自分を下においてしまい、常に話を聴く側に自分を立たせていた。それがなんとも不自由で心地悪かった。
だがそれは私がその位置に自分を置いたのだ。
下にいた方が無難だという防衛本能からだった。
どちらかが、上にも下にも立たずにいると、相手もどちらにも立てなくなる。
その瞬間、力関係というものが消え失せて、お互いが自由な関係でいられる。
それが本当の対等と言うものなのだろう。