2010年6月29日火曜日
メディアファクトリー新書創刊!
メディアファクトリーから今日新書が創刊されました〜!
新書と言えば、文庫よりちょっとひょろ長い、地味〜な色べたのタイトル文字だけが載ったちょっとお固い教養本ですが、メディアファクトリーさんは違いました。そのお固い表紙をイラストでいってみようと言う大胆な試みです。
今回そのシリーズを私の絵で飾ることになりました。
書店さんでぜひ、お手にお取りください。チョー面白い内容満載です!
http://www.mediafactory.co.jp/book/index.html
絵:メディアファクトリー新書表紙「なぜアヒル口に惹かれるのか」
なんででしょう?それは読んでのお楽しみ!
人間草刈り機
ずーっと机に張り付いて、仕事のアイディアの妄想に惹けっていると(イラストレーターはみんな机で妄想するんだと思うんだが)、だんだん煮詰まって来る。
んで、気分転換に「はったけ〜!」と、長靴はいて喜び勇んでいくのもつかの間、
「げ。いつのまにこんなに?」
昨日よりも20センチも伸びている草ちゃんたちの勢いに圧倒される。
ピーマンちゃん、ナスちゃん、ゴーヤちゃんたちが草の勢いに押されてかくれてしまっている。「ごめんよ〜、ちょっくらからせてもらうぜよ」といいながら、刈り始めるとだんだんムキになって来る。そのうち、
「おっりゃあ〜〜〜〜っ、大量殺戮開始ーっ!」
と、さっきまでイラストレーターだった物体は人間草刈り機に変身する。
仕事そっちのけで草刈りに集中。へべれけになって家路につく。と言う日課を繰り返している今日この頃、みなさまはいかがおすごしでしょうか(って、ちがうだろ)。
自然農は最初の2、3年まで草の勢いに押されると言う話だが、じっさい味わってみると、「くっ。。。。。」ってなかんじである。野菜ちゃんは遅々としておっきく育たず、思わず
「ちょ、ちょこっとだけなら、ひ、肥料を入れても。。。。」
という誘惑にかられてしまうのだ。
「あ”〜〜〜〜っ、イケナイイケナイ!」
と、あたまをかきむしる。
たぶんまわりの畑もみんなこんな思いだったに違いない。化学肥料や有機肥料を入れて大きく育ったあの快感。あの快感が忘れられず、また入れてしまうのだろう。だがやがてその肥料もその土地には満杯になり、だんだん効かなくなって来る。するともう少し強い肥料を入れてみる。するとまた再び大きく育ってくれる。だがそれと一緒に草も大きくなるわ、虫も大量にやってくるわで薬を撒く。でもやがてそれも効かなくなると、もっと強い薬を。。。。。
まるで一種の中毒のように見えてくるのだ。これはほとんど農家の薬中。。。?
まわりの畑の野菜の足下には、みんな白いつぶつぶがふりまいてある。巨大なキュウリの葉っぱは虫一匹寄り付かない。(な、なんでだろう。。。)私が
「野菜がなかなか育たなくて。。」と言うと、おじさんは
「肥料で大きくなるよ」
と、にや~っと笑って教えてくれる。ありがたいお言葉だが、どこかで
「こっちにおいで~」とさそわれているようでこわかった。
直感は突然やってきた。
ちいさなピーマンの苗を畝の中に植えていたときだった。これもこの地に吸い取られていくのかな。。?と考えたとき、どきっとした。
これはほんとうのことなのかもしれないと。
私は立ち上がって畑をぐるっと見渡した。この地は今、エネルギーを吸収している。。。そう感じたのだ。
アブラナ科の植物は、双葉になった後、虫さんに食べられエネルギーを与え、そして他の野菜もまた地の朽ちて、そのエネルギーを吸収させる。つまりこの畑は今すべての野菜の存在を飲み込んで、そのパターンを、あるいはDNAを読み込み、来るべき姿の畑に変換するための準備をしているのではないのか?畑全体を見渡しながら、今この地に、確かにエネルギーがどんどん蓄えられているのだと、眼で見るのでなく、私の存在のどこかが感じ取っていたのだ。言葉にはできないふるえるような確信だった。
畑のことは畑さんに、野菜のことは野菜さんに、自然のことは自然さんにまかせたらいいのだ。すべてはなるようになっていく。仕事もしかり。人生もしかり。
絵:ペットボトルのお茶のためのキャラクター案
2010年6月27日日曜日
冷たい私
町会の人と会話をしたことを思い出している。
一人は私が町会に協力的であることを素直に喜んでくれているが、もう一人は私を疑っている。「なんでこんなに協力するのか?何か下心でもあるのか?」と言う顔をして私を見ている。彼女は苦労して来た人だ。頭の中ではいろんな思いが渦巻いているのだろう。私はそんな彼女の様子を疑いをはらすでもなく、ただ観察している。そのとき、自分がその人を冷笑しているのに気がついた。彼女の複雑な思いを知っていると言うだけでなく、それに対してどこかで笑っているのだ。なんという残酷な人間なのだ?私は自分の残酷さに気がついてぞっとした。
この残酷さは小さい時に身につけていた。
毎日のように同級生や親に殴られけられ罵倒を浴びせられ続けると、人の心はどうにかしてそこから逃げようとする。その逃げ道が「冷笑」だったのではないか。殴られながら、自分もその人と同じ残酷な気分になって、自分をいたぶりその場をやりすごしていく。私の自己嫌悪のはじまりはたぶんそこだ。人から殴られ罵倒されるほどの、できそこないの私。ちいさな私はそれをそのまま受け入れることは苦しい。だからその私をあざ笑うことによって自分を自分から突き放す。玄関を転がり、地面に這いつくばる自分を「なんてぶざまな存在なのだ」と上から見下ろして冷笑するのだ。
それはダンナとケンカする時にも現れる。相手をしらずしらず冷笑している。自分がしたことを真正面から見るのではなく、冷笑してバカにする。そんな行為は相手にまったくもって失礼なことだ。だがそうやって私は今まで自分を守って来ていたのだ。なんという卑劣なやり方だ。
人はあらゆる方法で自己防衛をする。人と何かトラブルがあったとき、声に出して言うのも、心で言うのもほとんどが言い訳じゃないだろうか。
「私だけが悪いわけじゃない。あんただって。。。」
しかしなぜか人はそこから先には進まない。心は自分がやったことを自己弁護し、正当化することでいっぱいになる。だが一番最初に起こった出来事は、何かしら摩擦があったと言うことだ。その摩擦の原因を真正面から見るのは実は怖いのだ。自分自身を見る事になるから。それを避けるために一生懸命正当化する。要するに自分で自分を納得させようとするのだが、心のもっと奥ではそれが解決方法でないのをしっているので、心がまとまらない。かくして延々と自己弁護を心で繰り返すことになる。
そんなこと、たった一人のほんのちいさな抵抗かもしれない。しかしそれはすべてに通じている。それをちょっと大きくすれば戦争になる。今のこの世の中は私たちの心が現れている。しっちゃかめっちゃかな事件ばかりである。完全に混乱している。それはひとえに自分が混乱しているからだ。私の残酷さが戦争をつくっているのだ。。。
何かの摩擦が起きる時は必ず何かを考える瞬間をもらっている。自分が行った行為を正当化することばかりに時間を費やしていても何も生まれない。自分がやった行為を真正面から見ることだけでいいのだ。すると素直に「あ、それはわたしがまずかったな」と気がつく。そうすれば心の中に何かがストンと落ち、言い訳と正当化でいっぱいになることはない。
絵:つくしのクレイジーマップ/カイロ、イスラエル(掛け軸状になっている)
2010年6月22日火曜日
結果ってどこ?
私たちは「結果」を求めるが、そもそも結果って、どこらへんのことをいうんだろ?
昨日野菜のタネをとっていた。大根が育って大根を収穫したことを「結果」と言うとしたら、その大根のタネをとるも結果じゃないのか?ほんでもって大根をそのまま放置して花を咲かせることも結果じゃないのか?ひょっとしたら、その大根がタネをつけ、ぽろっと地面に落ちてまた芽を吹き出したら、やっぱりそれも結果じゃないのだろうか。
結果と原因はいつもくっついている(らしい)。
花が咲いたのが原因で、タネが出来る。タネが出来たのが原因で、芽が出る。芽がでたのが原因で、大根が出来る。結局、原因と結果は、おなじことなのだ。
そーかんがえると、全部が結果であって原因であってそれに一喜一憂することが必要なんだろうか。
じゃあ、結果を求める私たちってナニ?
結局、私は欲かきばばあなのだ。私が求める結果とは大根が育つことなのだ。はっきり言って花でもタネでもない(このごうつくばりが)。大根が育たない!と一喜一憂するのは、おっきく育てて食いたい!という食い意地と「草ばっかり育ててんだろ?」とちゃちゃいれてくるおっさんへのドーダ理論炸裂感と、その他もろもろの虚栄心を満たしたいだけなのだ。
だけど自然界は、やまんばの欲などまったく興味なく、淡々と事実を積み上げているだけなのだ。延々とつづいていく生命の川は、人間が想像もできないほどの宇宙の調和という絶頂感に向かって突き進んでいるのだ。
その大きな流れの中で、ちっこい人間は「こっからここまでが、原因と結果」という概念を勝手に作り上げて一喜一憂している。
人間は自分が勝手に作り上げた土俵の上で、在りもしない「生きている実感」というやつをただ単に得ようともがいているだけなのかもしれない。
やまんばは自分のごうつくばりに気づいて、ほとほとあきれるのであった。しかし欲はまだまだつづく。。。to be continued…
絵:クレイジーマップ/阿佐ヶ谷
2010年6月20日日曜日
わしらの畑は抽象絵画
わしらの畑は抽象絵画。
一見、単なる草ぼうぼうの荒れ地。そこをなぜかフェンスでかこってある。
「大事に雑草でも育てているのか?」
と、まちがわれる(まちがわねえよ)。
ここは誰あろう、高尾の山奥に住むやまんばの畑なのだ。人間さまが言って語れる世界ではない。おそろしーあちらの世界の畑なのだ。
具象絵画は象の絵だったり、花瓶の絵だったりして、
「あ。これは立派なゾウサンね」とか、
「まあ!素敵な花瓶!」
とかいって、隣近所の人と共感がもてる。
しかし抽象絵画はそうはいかない。
「こっ、、、これは、ナニ?」
と、頭の中が理解を超えて膨張し、炸裂するしろものなのだ。
だからきれいに整理整頓され、草ひとつない畑は、具象絵画。
わしらの畑は抽象絵画。
前者は誰が見ても「これは、畑」と共感できる絵。
一方、
「こりゃ、なんじゃ?」
「これは草です」
「いんや、これはきっとやまんばのすみかだ」
「いやいや、きっとあの世に通じるなぞの入り口なのじゃ」
などと、それぞれが勝手に解釈できるワンダーランド、それがわしらの畑なのだ。たのしー!
絵:バグダッドの地図。つくしのクレイジーマップ(別名『変な地図』)シリーズ登場〜!
2010年6月18日金曜日
母にパンを送る
あれからパン作りはずっとつづいている。
メロンパン、アップルロールパン、クリームパン、よもぎあんぱん、チョコレートシート折り込みパン、コーンマヨネーズ、肉まん、ベーコンエピ、ガーリックフォッカチオ、フランスパン、カンパーニュ、クロワッサン、デニッシュ食パン、ソーセージデニッシュ、、、、。うまいかどーかは二の次に、よくもまあ、こんだけつくったものだ。
そんなおり、母からもらっていた抹茶をつかって抹茶シートをつくり、抹茶折り込みパンをつくった。抹茶の香りをちょっと強めに練乳との組み合わせがなんともあったかい我ながらおいしいパンが出来た。食パンの中に緑のマーブルが美しい曲線を描いた。
やるじゃん、私。一人ほくそ笑む。
しかしダンナに食わせると、
「おれ、抹茶興味ない」で片付けられてしまった。
ふん。この田舎もんめ。あんたはパンの上に赤や黄色のぴらぴらしたもんが乗っかっているおこちゃまなパンが好きなやつなのだ。大人味の抹茶など、あんたに食わせるには100年早いわい!
と、とっとと冷凍庫につっこんだ。
先日、母に宅急便を送る機会があったので、ついでに抹茶パンも送ってみた。電話では作っている話はしていたが、今まで送ったことはない。冷凍から冷蔵状態にして宅急便で高知に送ると味はちょっと落ちるかもしれない。まあ、話のタネにいいや、と送ってみた。
届いたとお礼の電話があったとき、パンの話はほんの少しでただけだった。前もって作ったパンを送った話などせず、私的にはサプライズのつもりだった。しかし彼女から驚きの声はなく、ただ「ノリの味がする」と言っただけだった。
ちょっとショックだった。
それからなんとなく、気分が落ち込んでいた。その後つくったフォッカチオも大失敗。ナニをつくろうか~という喜びもなく、今日も何となくメロンパンをつくっていた。
。。。抹茶パンを送ったのがいけなかったのかもしれない。彼女はなんせお茶に関しては地獄の舌をもっている。お茶の世界を堪能し尽くした人なのだ。ほんの少しの違いでさえも鋭いつっこみをする。そんなお人に一番最初に送ったパンが、抹茶だったのはまちがいだった。まず抹茶に練乳が入ってしまうことからして彼女にとっては邪道だ。これで私のつくるパンのイメージがついてしまった。「つくしのパンはまずい」と。
などとぶつぶつ考えながらメロンパンの生地をこねる。相変わらずメロンパンの生地はチョー扱いづらい!しかもこの強力粉がまた水分たっぷり含んだ扱いにくい国産のブレンド小麦だった。
べちゃべちゃ生地をギッコンばったん叩き付けながら、延々とぶつぶつ文句をたれている自分に気がつく。ああ。私は結局、母親に自分を認めてもらいたいんだな。そういえばどこかでいつも母にほめてもらいたがっている私がいる。今回も「すごいね、つくしちゃん!」と言われたかったのだ。この50近いおばはんが。いつまでたっても私は母の子供なのだ。
私だけなんだろうか。
いやひょっとしたら母は母で、私と同じように自分の母親に認めてもらいたかったのかもしれない。彼女はウチのばばあちゃんのことをあまりよく言わなかった。「あの人は頑固だ」「あの人のそばにいると圧力を感じる」などなど。でも母にあらゆることを教えて来たのは、ばばあちゃん。その地獄の舌もばばあちゃんから受け継いだものだ。母はどこかで彼女を超えようと、もがいていたのかもしれない。認められようと必死だったのかもしれない。そう思うと、なんだか母がけなげな少女のようにおもえてきた。母に対するいらだちも消えていた。
そのとき、電話がなった。
「あのねえ。今あんたが作ったパンを食べたがよ。このあいだは具合が悪うてよう分らんかった。よう考えたら私は人が作ったパンなんて今まで食べたことがなかった。お店で作ったものしか食べたことがなかった。今ようやっと人が作ったパンの味が分った。なんだか、あんたのパンはぬくいねえ。お店のパンはチクチクしたけん(剣?)があるけんど、あんたのパンはそんなもんどこっちゃあにのうて、なんというか、ほんわかとあったかいねえ。おいしゅうて、ぺろっとに二枚も食べてしもうた」
なんということか。この世はシンクロしている。母のばばあちゃんへの思いを理解し、母への気持ちがほぐれたとき、母もまた何かを理解していたのだ。
何かが溶解した瞬間だった。
さっき畑でミョウガの葉っぱをとってきた。昔よく母がこの時期になるとミョウガの葉っぱでメリケン粉を包んで蒸してくれた。中のあんこは決まってエンドウ豆のあんこ。ほっぺたが落ちるぐらいおいしかった。それでいつも私は母に、
「ねえねえ、これ売りや〜。お店やろう〜」といっていた。
今日は、北海道の田中さんから送ってもらった手亡の白あんこでつくる。
蒸し器の元気な音が、つゆの雨音と重なり合った。
絵:コージーミステリー表紙
2010年6月17日木曜日
逆モヒカンのキャベツさん
わしらの畑の最初の収穫物は、野生たちが食べるとこになっているんだろうか。
昨日もなけなしのキャベツをかじられた。
キャベツは私にとって念願の作物なのだ。何度も何度も失敗し、やっと一個だけそれらしきお姿をしはじめたキャベツさんだった。
「もうちょっとかな?」「いや、まだまだかな?」などといいながら、収穫を先延ばしにしていた矢先だった。
げ。なんじゃこりゃ?
子供の頭ぐらいにまで成長したキャベツさんの丸い頭が、逆モヒカンガリ状態になっている。幅10センチくらいのずたずたに掘り起こされた一本道がキャベツの頭上に走っていた。まるで両手で抱えて「大人食い〜!」とかいいながら、スイカを下の歯でがぶがぶかじりながら一直線に進んだみたいな格好だ。サルだ。まちがいない。
それにしても中途半端な食い方をしてくれる。3分の2は残っている。ほとんど食い荒らされたならあきらめもつくが、まるで味見をしたかのような、この中途半端な残し方。
「はじめてのキャベツか。ふん。どれ、ひとつおれ様が味見をしてやろう」
がぶがぶ。
「ん。ごーかく!」
といってポイッとする。
シモベのニンゲンさまは、中途半端なキャベツの残りをウチに持ってかえり、かじられたところを丁寧に外し、残り3分の1のキャベツをありがたく頂く。
自然な甘みがお口に広がる美味なキャベツであった。
いや、ひょっとしたら逆かも。。。サルはお毒味役を買って出てくれていた。。。?
「お殿様、これは大丈夫です。あとはお食べください」。。。と?
う〜ん。自然は底知れないのだあ。
絵:カットイラスト/ゼラニウム
2010年6月15日火曜日
自然農2年目
さて、自然農2年目にしてはや挫折の日々。アブラナ科の野菜はすべて双葉を、やっと育てたキュウリやスイカの苗も、畑デビューしたとたん、次々に虫さんに襲撃される。ああっ、去年の勢いはどこへ?今となっては懐かしい小松菜の親分さん。。。
自然農をやっている方のブログにコメントで質問。すると
「自然農2年目は虫に食われて当たり前。だんだんよくなってくる」
というお言葉が返って来た。
え?ほんと?じゃ、これってあたりまえ?
単純な私はなんだかほっとする。人はどうしても前と比べて隣と比べて一喜一憂する。その感情に自分で振り回されて見えなくなってくるようだ。
今までたまりにたまっていた膿が、出される頃合いなのだそう。化学肥料や有機肥料は自然にとってどうも不自然なもののようだ。それを出そうとするため植物がその根で吸い上げ、それを虫さんたちが食べる。。。のだそうだ。だとするとなんということなのだ。虫さんも植物さんもあえて自分を犠牲にしてまでして自然が自然であるための貢献をひたすらやっていることになる。
確かに近所の畑をみると、まず化学肥料や有機肥料や鶏糞や牛糞を蒔く。すると虫に食われる、で、農薬を撒く、又は自然にやさしい(?)別の方法で殺すということを繰り返している。ほんとうは、草や虫たちが必死で調節をしようとしているのだとしたら、なんと人間はおろかなことをしているのか。そもそも肥料をやるのは太らせたい、立派な野菜にしたいという欲から来る。しかし肥料はあげなくてもちゃんと育つ。
そのとき、大麦の穂が眼に入った(突き刺さったわけではない)。今ちょうど大麦と小麦の収穫時期だ。いっしょにやっているまいうう〜ぱぱさんがいった。
「この辺はスズメがいないのかねえ。全然食べられてないよね」
「え?ナニを?」
「だから麦だよ」
その自然農の人が言っていた。畑やりはじめの頃、麦を鳥に全滅させられたと。そういえば、近所で大豆と小麦を交互に植えている畑も上にネットをかけてあった。ということは鳥は麦を食べるのか。たしかに数は少ないがスズメはいる。麦はドバトも食べると言う。ドバトなんてわんさかいる。畑の中をちょこちょこあらゆる鳥が走りまわる、飛び回る。しかし麦を食べている様子は今のところない。
まさか。。。
まさかこんなことがあるのだろうか。草も虫たちも自然を調節するために肥毒を食べているとしたなら、鳥が食べないとは限らない。つまり近所の麦畑は、その中に肥料の毒素が入っているから食べる?しかしウチの畑の麦には入っていないから食べないのか。。。?まさか。。。?
その自然農さんの畑は2年放置されていた畑。ウチの畑は5、6年の放置。すなわち放置されたことによって肥毒が多少なりとも減少させられているということなのだろうか。もし去年麦を植えていたら、ウチの麦もあるいは全滅だったのかもしれない。
エダマメも最初のものはサルどのに全滅させられた。が、その後はぴたりと来なかった。
考えてみりゃ、草と虫が自分を犠牲にしてまで肥毒を食べることに驚かないでいて、サルや鳥が同じことをするとしたら?と驚くのは失礼な話だ。ちょっと私、動物と昆虫と植物を優劣つけてないか?
これはあくまでも私の勝手なドシロートの憶測に過ぎない。引き続き探求してみることにする。が、そのドシロートの憶測が少しでも真実に近いものなら、すべてのことはあるがままでいいのだという結論に達する。ニンゲンが欲かいて、もっと大きく、もっとりっぱに、たいりょうせいさ〜ん!と声高に進めば進むほど、虫や植物や動物たちが大量に投入されたチッ素やリンやカリ漬けの野菜をみて「あ〜あ、こんなに変形させちゃって。。。」とせっせと食べて調節するのだとしたら。
身体だってそうだ。痛みをイケナイことと思い込むから、なんとかしなきゃと薬を大量に投入する。すると身体が、「あ〜あ、こんなもん入れてくれちゃって。。。」と最初の痛みの原因を直すだけじゃなく、その異物を取り除く他の仕事までかせられるとしたら。。。。相当ダメージが大きくなって来るはずだ。
つまり何でもかんでも複雑にしてしまっているのが、現代の人々の発想なんではないだろうか。
コメントの返事をもらった人のおかげでふっと引いて畑をみることが出来た。気がつけば八列トウキビも、エゴマも虫にやられはしても自然に間引かれて順調に育っている。
いかに心が静謐でいられるかにかかっている気がする。
今日も太陽の日差しがまぶしい。
絵:カットイラスト/ピオニー
2010年6月14日月曜日
お茶発売中〜!
「ルイボスティー」「マテ茶」「越前茶」(株式会社ハイピースより発売)のお茶のラベルの絵を描きました。今月からナチュラルローソンで販売しています。なかなかかわいいでしょ?夏限定なようなので、お近くにナチュラルローソンがある方は、ぜひ!買ってくださ〜い!
マテ茶はあまりなじみがないかも知れませんが、南米を原産とする栄養高いお茶です。飲むサラダなんていわれているようです。すっきりとした味わいでおいしいですよ。イラストは緑がムンムンしたジャングルの中をイメージしました。
ルイボスティは、アフリカ原産。効能は色々知られていますよね。これもまたからだにいいことうけあい。イラストのイメージはルイボスの赤い色に見立てた夕暮れのアフリカの草原。象の親子が悠々と歩いています。
越前茶は、香ばしいほうじ茶のおいしい味。その福井県の県花、水仙をキャラクターにしてみました。ちょっとレトロな昔のキャフェのおねえさんのイメージ。個人的には相当気に入ってます。これを今後展開してくれると面白いものが出来るんだけどなあ〜、などとひとりごと言ってます。ちなみにこれは地域限定なのだそうです。関東ではみられないそうです。残念。
写真撮影:海沼武史
2010年6月8日火曜日
私はあなたの味方
「私はあなたの味方だよ」
ドラマの中で俳優がこう言った。
げ。またかよ。きもちわりいなあ。やまんばはあの言葉にムシズが走るのだ。あの言葉は、最近になってよく耳にする。味方と言うということは、敵にもなりうるということだ。主人公は相手に味方だと言いつつも、複雑な立場にある。だからあえてそう言う言葉を発することによって自分をいい人であろうと演じているフシがあるように見えるのは、ひねくれたやまんばの性格か?
これににたような言葉で「君を信じているから」というのもある。一見人を信じるいい人のように見える。しかしいちいち言うあたりが怪しい。
アメリカでよくこの言葉を聞いた。
「I can believe you(僕は君を信じられる)」
一番最初これを言われたとき、
「はあ~~?」とおもった。
君らは信用に値する人間だ。だから色々はなせる。と言う。なんて冷たい人間関係の中で彼等は生きているんだろうと思った。わざわざそんなことを言わなければいけないほどに人を信用できない世界なのだ。これが日本なら、そんなことをいちいちその人に向かって言うこと自体が相手に失礼だろう、とおもった。
ところが日本に帰って来て、いきなりその言葉を言われた時には、のけぞりそうになった。「君らは信用できる」と。
わしら夫婦が日本を離れていた7年半の間に、いったい日本に何が起こっていたのだろう。わしらは頭を抱えてしまった。あんなに日本の良さを感じ入ってかえって来たこの国に、いったいなにが。。。
KYもそうだ。空気読まない人ということらしい。その場の空気を読まない人はイケナイ人なのだそうだ。だからみな空気を読む。でもやまんばの眼から見ると、空気読みすぎて逆に関係がぎくしゃくしているように見える。お互いがお互いをその場の空気から脱線しないように見はっている。一見、人当たりのいいやさしい感じに見えるが、誰かが空気乱すんじゃないか、又は自分が空気乱してしまうんじゃないかと、戦々恐々している。「君を信じているから」とか「味方だから」とかいうのは、その場を穏やかにつくろう意味もあるのか。
この「。。。から」というのも増えた。その「。。から」のあとにつづくのは「信じているから、裏切らないでよ」とか「味方なんだから、へんなことするなよ」などの条件付きの信用であり、味方なのだ。いえば一種の脅し文句がびにょ〜に入り込んでいる。(そーゆーのはやまんばの世界では「味方」とは言わない)
そんなトーンを感じるからやまんばは聞くたびに、いや〜な気分になるのだ。
自由や平等は西洋から入って来た考えだ。それだけ聞けばすなおに「アメリカはいいなあ、自由と平等の国なんだ〜」と思う。しかし住んでみればまったくの逆。日本の方がよっぽど自由で平等だったとわしは感じている。情報がくれた色眼鏡で見るのではなく、曇りなき目でみなきゃ。イメージと言うフィルターを通して見るから分らなくなるのだよ、ワトソン君。
そのとき私は自由とか平等か言う言葉は、そこにないものだからあえて訴えているんだな、ということを知った。
本で読んだことがある。ある島には「幸せ」という言葉がない。それはまるで住みづらい不幸な島のようにみえるが、まったく違う。「私は幸せ」とわざわざ口にしないほどに、幸せに満ちた場所だったのだ。だからあえてその言葉を発する必要はなかったということだ。意識にも登らないのだ。
だから味方という言葉は、いつでもどこでもすぐにコロッと敵に変わっちゃう可能性がおおいにあるということじゃないだろうか。信じているという言葉も、ほんとは「あんたなんか信じていない」ことを意味しないだろうか。だからあえて口にするのだ。そして後ろから脅迫する(!)
どうも最近は二元論がおおいにはびこっている。
いいこと、悪いこと、損する、得する、敵、味方、信じる、信じない、デキル、デキナイ、効率的、不効率的、透明、不透明、勝ち組、負け組、開いている、閉じている。。。どうも言葉というものは一度市民権を持ってしまうと、一人歩きをする。人は意識もしないうちにそれにとらわれてしまうようだ。
そんな出来合いの言葉で、無意識のうちにあらゆるものや自分や他人をはかってやしないか?それが勝手に基準になって、その物差しでもって相手をジャッジしているのだ。そんな物差しは時代が変われば一息で吹き飛んでしまうものなのに。エコもそうだ。エコなんてそのうち消えてしまうど。なのにエコしない人をケーベツしたりするだろ。そんな伸びたり縮んだりするいーかげんな物差しで、さも大事そうに自分や他人をはかって何が楽しい。二元論は人をジャッジするばかりだ。そんなもの捨ててしまえー。
なんか、こう、最近の日本人はちびちび、めそめそ、うじうじ、ぴりぴり、イライラ、びくびくしているのが、なんだかおもしろくないのだ。そんな空気蹴散らしてくれる!
やまんばは誰の味方でもないし、敵でもない。信用するもしないもない。ついでに空気なんて読んでやらないのだー!(やまんばKY宣言)
絵:カットイラスト/さくら
2010年6月4日金曜日
みんな同じ
配達に来たお米屋さんが言っていた。
「このへんは、みんな峰尾さんだからこまっちゃうんですよね~」
たしかにこのあたりは、もののみごとに峰尾さんだらけだ。配達するにもどの峰尾だか分らなくなると言う。でも同じ名字だからみんな親戚というわけではないらしい。ほとんどアカの他人。だからそれぞれが屋号で呼び合うか、いいじっちゃんばあちゃんが、ひでちゃん、せっちゃん、と、みんなちゃんづけで小さい頃呼び合ったままでお互いを呼んでいる。それはそれで微笑ましいので私は大好きだ。
ここらあたりは土地も広くないので農家をやる人は少ない。ひでちゃんもこーちゃんも、みんなお仕事は外に出かける。よく調べてみると、ほとんどの人が公務員や銀行などお堅い仕事をやっている。その他は土木の仕事。あきんどという人はほとんどいない。どうもここら辺の土地の気質なんではないかとおもう。
近所の人がよく言う言葉に「めだたないように、めだたないように」というのがある。目立たないようにと言いながら、結果的に「あんた、しっかり目立ってんじゃん」という人もいる。しかし基本はみなと同じでめだたないように楚々と生きる。ということがモットーらしい。ほら、それがその名字に現れている。みんな峰尾さんなのだ。
「オラ、今度名字をもらう事になったが、峰尾っちゅう名字ににするど」
と誰かが言うと、
「おお、おらもそうするべ」
「おらも」
「おらもだ」
となった。(ホントか?)基本、目立ってはいけないのだ。だから公務員や銀行員やサラリーマンになりやすいのかもしれん。
これが商人の町となるとがぜんちがう。
「おら、峰尾にするど」
「おうそうか。お前が峰尾なら、おら、平岡だ」
「おら、海田だ!」
とてんでばらばら。元々同じだと、商売にならない。
「おら、傘作って売るだ」
「おお、おらもそうするべ」
「おらもだ!」
となると、傘が売れない。それぞれが切磋琢磨をして人が足を踏み入れていない商いや、技術を磨く。だから商人の街は活気があるのかもしれない。そしてそこに文化が広がっていく。
ここ高尾に住んで、どーにもこーにも何かが足りなく思うのは、その文化である。この土地には、切磋琢磨しておのれを磨いてきわめて行くと言う性質は持ち合わせていないようだ。その証拠に、世界で一番登山客がくる高尾山(年間250万人だと!)の登山口のあの商店街のやる気のなさ。一個目立ったお店があるが、相当苦労があったらしい。みんな誰かが抜きん出るんではないかと、戦々恐々としているようだ。そんなもんだから、高尾名物といえば、高尾せんべいぐらい。正直言ってこれを買って「高尾のお土産買って来たよ!」と自慢できない。一度話のタネに買っただけであとはもう頭にも浮かばない。浮かぶとしたら、ギャグとして(?)。
そんな愚痴を言うと「何を言う!偉大な高尾山があるじゃないか!」
とおこられそうであるが、
「高尾山は最初っからあるだろうが!」
と突っ込んでやろう。
でもま、ここまで繁栄したのは、何をかくそう京王グループの作戦勝ちなんだろうけどね。
それにしても高尾山は入り口は広くて誰でも入りやすく、そしていったん極めれば、底知れない深さがある不思議なお山なのである。そんな偉大なお山の麓に住むと、個人がどうのこうのというちっこいレベルでの切磋琢磨はどうでもよくなって、誰でもみんな同じになっちゃうのかもしれん。(そんな結論なのかい)
絵:カットイラスト/アンジェリカ
2010年6月1日火曜日
自殺について考える
自殺について友だちと話し合っていた。
一人は自殺は悪い事だという。なぜかというと、残された遺族の人々が大変な思いをするという。JRに飛び込みゃ、JRから損害賠償(1線につき)1億円の請求が届き、一生かけて払い続けなければいけないし、近所の人に白い眼で見られ、お葬式もちゃんと行えない、それよりも心身をやられる等々(非常に現実的視点)。
もう一人曰く、キリスト教は自殺は悪となるが、仏教では悪い事としてはいないという(相対的視点)。たしかに、日本には切腹を命じられるのは、名誉とされているし、戦争では自ら突っ込んでいって死ぬをいさぎよしとする。捕まって捕虜になるよりは海に飛び込んだ方がいいとも。
スピリチュアル的にいえば、人生は決まった運命にそって生きるのだから、それを中断してしまう事は、その人にとっての学びをやめてしまう事になる。だから罪深い。いや、罪深いとまで言わなくとも、学ばなければいけないことがあるから、それをやめると、また生まれ変わっても同じ問題がやってくる。どっちみち同じ問題に巡り会うのだから、今乗り越えねばならないとも。
私を含め3人ともそれぞれの意見は違えど、どこかで自殺はイケナイことと思っているふしがある。なぜか。
家に帰って考える。
今の時代に切腹や戦争での自決はない。それらは必要に迫られて行ったこと。今の時代の自殺はまるでその内容が違う。人生楽しくって自殺する人はいない。自分の人生がいやになって、苦しくって、そこからのがれる手段としてえらんでいる。「切腹を命ずる」とか「お国のために死す」わけではない。どっちかというと自分の苦しみから逃れると言う個人的な理由なのだ。だから3人ともどこかで「自殺~?オッケーよ!」とは思えず、奥歯に物が挟まったようなモニャ~っとした気分で「なんだかイケナイこと」のような気がしていたのだ。
苦しみははかりにかけることは出来ない。あの人の苦しみは35キロで、この人の苦しみは48キロだから、この人の方が苦しみが大きい。とはいえない。だけど測れないから、測れないがゆえに、いや測れないことをいいことに(?)「おれの人生は誰よりも苦しいんだ!」と思ってしまうのだ。
そもそも苦しい原因は「こうであって欲しい」という願望から来る。その願望どおり事が運ばないから苦しいのだ。願望があるということは、今はそうでない状況があるということだ。そうでない状況とは「辛い」状況なのだ。なぜ辛いのかと言うと、他と比べるからじゃないだろうか。「あいつはいつも楽してやがる。それにくらべておれは。。。」ともんもんとする。しかしそのあいつの方も「ああ、なんて僕の人生は苦しいのだ?」と思っているかもしれない。誰も彼もが外と自分をくらべて辛くなっているのだ。
たぶん、もっとたどれば、こんな人生と思うのは、理想の人生があったはずだ。「僕ちゃん、大きくなったら総理大臣になるのよ」とか
「うんとお勉強して立派な人になってね。ママ期待してるから」
などと言われてその気になったに違いない。不幸にも総理大臣は日本に一人しかなれない。といってもこのところの日本のように1年でころころ変わる総理大臣の席もあるが。そうはいってもひと人生のうちで両手で数えるくらいにしかなれないのだ。ということはほとんどの人が挫折を味わうことになる。ま、だんだん理想を落としていくとしても、どこかで
「ちゃんとした人にならなければいけない」
と思い込んでいる。森進一の『おふくろさん』を聞いて
「おれもそのうち、世の中の傘になれよ」とおもうのだ。
そういう理想の姿と現実の自分を常にくらべてしまう。
「こんなはずではなかったのだ!うお~、どーしてくれる!」と頭を抱える。
たぶん意識にもあがらないくらい奥の奥の方で、ありとあらゆることをくらべている。くらべるから苦しさはもっと広がる。しかし世の中には「ほれ、ほれ、くらべろくらべろ」と洗脳するものであふれている。
「お友達に差をつけちゃう、素敵なメークアップ術!」
「勝ち組になりましょう」
一見やさしい言葉のように聞こえるものの背後に「人と差をつけて優越感にひたれ」というおそろしー悪だくみが組み込まれている。優越感にひたれ続けていればいいが、そんな感情はなんてことないことで、簡単に劣等感へと変わる。コマーシャルのコピーにはそんな言葉が何気なく入れ込まれている。そりゃそうだ。買ってもらわなければいけない。その購入意欲をわかせるには、そこに優越感をもたらす心理的引き込みが必要だもの。しかし人はそれを無意識に聞いている。知らない間に洗脳されている。「お友達に負けたくないわ」と思い始め、戦闘意欲をかき立てさせられる。そうやって知らない間に自分と他人をくらべて競い合ってしまうのだ。そして意識の上にあがってくるのはたいてい辛いことだ。
私も畑で野菜が生長せず頭を抱えたのは、他の畑とくらべているからだ。あっちの畑は野菜が大きいのに、ウチのは小さいなどと。くらべなきゃ、ナンも葛藤は起こらない。小さいとも思わず、そのまま現実を受け取る。
人生の葛藤は、比較によって芽生え始めるのではないだろうか。比較するとは諸刃の剣である。子供が大人になるまでの成長過程には成長を促してくれるだろうが、大人になってのそれは苦しさをも生み始める。くらべると言う心が一人歩きし始めると勝手に暴走し、比較の親分さんになる。気持ちが弱くなってくると、その親分さんの暴走をとめられず、自分の現実を受け止められなくなるのではないか。自殺する人たちも、その心中は自分と何かとをくらべることでいっぱいだったのではないだろうか。
絵:カットイラスト
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