2012年11月30日金曜日

うれしいたより



畑に自家採取の種と、買ってきた種を同時に蒔く。
みやまこかぶ、スナップエンドウ、ほうれん草は同時に芽を出した。
白菜は、自家採取した方が早かった。あとからようやくほそぼそと出てきた買ってきた種は、その後虫にくわれて全滅。種が古かったせいもあるのかもしれない。

でも基本、どっちも同時に芽が出るのんは、なんか自然の不思議さを感じさせてくれる。だって、育ったところが違うのに「せーの」って感じで一気にみんなが芽を出すんだもの。この寒空の中でコカブがちいさな芽を出した。すごいなあ。かわいいなあ。

大根はちょっと失敗した。
畝の中で順調に育った大根と、やたら大きく元気に種をつけた野良大根の、種の大きさにひかれて取った種の2種類を蒔いたのが9月初め。
今、ちょうどできはじめた。
お育ちのいい大根はきれいなお肌をしている。一方ワイルド野郎は、あばた顔。つるんとしていない。なんで?そうだ。よく考えたら、カラカラに乾いた大根を引き抜いたらちっこい大根だったんだ。確か横線がいっぱい入ったあばた顔だった。あの時の顔つきのまんまだ。でも中にはちっこいのんを克服してがんばって大きくなってくれているものもある。

プロの人は一本だけで種は取らないようだ。だがタイマンコキのやまんばは、面倒くさいから気分で一本取りする。だから育ち方がむらむらになるんだろう。

でもいーのだ。あくまでもどこまで楽して野菜が育つかチョーセンしているのだ(何のこだわり?)。


昨日親戚の人からうれしい電話をもらった。
「めっちゃ、うれしかったわあー」
風邪気味だっていうんで、畑の野菜をおくってみたのだ。
「あんた、農業やり!」
そんな一回あげただけで言う?むちゃくちゃやわ~。
お尻がかゆくなるくらい(?)ほめられてきはずかしかった。でもうれしい。
風邪、早く治るといいな。

小さいとき、ある芸をやったら親がおもいっきりウケてくれた。それをやるたんびに大ウケしてくれるもんだから、やまんばはその芸をきわめていったんだ。

今から考えると、あの快感が忘れられないから、ばばあになっても、ずーっとなんかの芸をやってんだろうな。
三つ子の魂は百までなのだ。

2012年11月28日水曜日

エアー演説するにはわけがある



エアー演説をやるのには理由がある。たぶんその前に何かしらにフンガイしたのだ。

「けしからん!」とか
「なんだとお!」とか
「んなわけねえじゃん!」とか
「ざけんじゃねえよ」とか、
カチンと来ている場合が多い。(ちゅーか、ほとんどそーか)
だけど面と向かっていえないから、心の中でさけぶのだ。
それは気が小さいのか。いやいや、きっと心やさしい人だからだ。

だって今エアー演説した言葉を相手にむかってそのまんましゃべってごらん。相手は頭がまっちろになって、その1秒後100倍になってこっちに返ってくるか、そのまんま関係が終わっちまうかだ。
そーゆーことをその人はわかっているのだ。だからエアーで済ます(笑)。

だけどやまんばはいらぬ心配してしまうのだ。
たとえばしょっちゅうエアー演説していたら、エネルギー消耗して結果的に体力落ちちゃって身体に変調きたすか、はたまた心の迷路にはまってしまうもんだ。
だからいらぬお世話をしてしまうのだ(じぶんもやっているくせに)。


チェックポイントはここだ。
演説するには相手がいる。個人的な○○さんだったり、もっと大きな相手、セーフだったり。だけどポイントはそこじゃないんだ。そこに「反応している自分がいる」というところなのだ。
「そんなもん当たり前だろが。誰だって同じように反応する!」
とおもうんだろうけど、どうも人それぞれ反応する部分が違うようなのだな~。

たとえば、部屋がヨゴレていても気にしない人もいれば、部屋はきれいじゃないといけないのだと、ヨゴレを気にする人もいるように。
たとえば、はっきりものを言わない他人にイライラする人もいれば、はっきり言えないのはなんか理由があるんだろうと、別にもぞもぞしゃべることを気にしない人もいるように。

ビミョ~に反応する部分が違うのだ。
人はこの世に生まれてきて、いろんな経験をしているあいだに、法則を作り上げる。「こうしてはいけない。」「こうしたら、必ずこうなる。」など。一見誰でもおなじように思えるように思うけど、じつはみんなバラバラ。だから人の意見はくいちがうのだ。
で、そのオリジナルな法則で他人を推し量るから、
「な、な、なんでそこで怒るの?」
と戸惑うシーンもちょくちょく。
ほら、いるでしょ。目が点になるような反応する人。

その人は表に出してくれるから分りやすいんだけど、じつはみんな心の中で、他人から見たら「そこでなんで怒る?」と、目が点になるような反応をしているもんなのだ。
で、思わずエアー演説しちゃう。

反応は悪いことではないんだ。その反応で、自分が何を基準にしてものを見ているのかが分るきっかけになるんだ。自分をよく見ろっていわれてもなかなか出来ないのは、その手前に「これこれこうゆうことをするのは悪いことだ」という判断が即座に行なわれているからだ。その瞬時のいい悪いの判断で「あっ、いけないことしたんだ!」という罪の意識が浮上する。それにおびえてそこから先に進めなくなるんだ。
人に何かいわれて瞬時に言い返すのは、いわれた内容よりも先に「自分がまちがっていたんではないか」という恐れによって、瞬時に自分を防御するためだ。

まず、まちがっていない。実は誰もまちがっていないということを知ることだ。お父ちゃんもお母ちゃんも、そこまでくるのにいろんな体験によって作られたオリジナルの法則でもって、それでおしはかって反応しているだけなんだ。だからその人にとっては正しい行為をしただけなんだ。

とりあえずそこのところは横においておこう。
ただ自分の反応を知ることなのだ。まちがってはいない自分の反応を見ることなのだ。

ああ、私はこういうことをする人が嫌いなんだ。
ああ、私は自分のこういうところがいやなんだ。

反応している自分を外から見ると好き嫌いが分ってくる。するとなんでそれが嫌いなんだろう?と疑問がわく。そこですかさず「なんで?なんで?」って聞いてみる。自分を怒らせた相手のことはほっとくのだ。とにかく自分の嫌悪を見る。なんで?なんで?って。
「そんなもん、怒って当たり前だろうが!」と、心の中で言い出すことばも無視する。

じっと自分の中に入っていけば、きっと同じような事件が起った時のことを思い出す。それでああ、あのときのあれか。。。と、なにかをおもいだすはずだ。

するとつぎエアー演説したとき、自分が同じことに反応していることに気がつくだろう。エアー演説している自分にも気がつくだろう。
そのとき、相手に対する怒りが消えていることに気がつくだろう。相手を言い負かしてやろうという思いも消えているだろう。そこに答えはないことにも気がつくだろう。

それが自分へ返っていく道の入り口のようなのだ。それが汝自身を知るきっかけのようなのだ。
エアー演説は深いのだ。


2012年11月27日火曜日

最近の畑



友だちからもらい受けたケータイで初写真。なんとかダンナにその写真をコンピーターにとりこんでもらい(ぜんぶおんぶにだっこ)、最近の畑の様子をアップ。


ラフレシア白菜。どこまででかくなるのやら。
小松菜と交配したであろうこいつを、畑一緒にやっている友だちに「これが食えるかー」と、押し付ける。
なんとロールキャベツならぬ、ロールラフレシア白菜を作ってくれた。青臭みもなく、柔らかくちょーうまかったぜい。持つべき友は、料理のうまい友だねえ。



これはミズナと交配したな。く、くえるかな。。。漬け物にでもしてもらおうか(あくまでも人に押し付けるつもり)。。。



これが白菜交配種のオンパレード。絢爛豪華やろ?
それにしても交配するとでかくなるんかな。肥料なんか入れてないし、追肥ももちろんなし。虫も食わねえ。手前はじゃがいも。



信州高菜。今年で3代目。今間引きした方が大きくなるのか、間引きせずにいるとどうなるのか実験中。今のところ、ぎゅうぎゅうづめのほうが大きく育っている。どーゆーこと?



源の助大根。かれこれ4代目。手前2列が野良大根。向こう2列はいちおう畝の中で育ったやつ。葉の色が微妙に違う。野良の方が色が薄い。その向こうは三浦大根2代目。



手前、交配させた(つもりはないが)ミズナ、むこうみやまこかぶ。どれも虫にも食われず元気に育っている。

ひーひー。写真入れながら説明ってむずかしいねえ。



2012年11月25日日曜日

エアー演説



ある時畑の真ん中で、やまんばの顔がかあ~っと熱くなった。
とーっても恥ずかしーことを発見しちまったのだ。

畑に行く前に知り合いの人にであった。
彼女はいつも忙しく働く人で、地域の人々のために身を粉にして働く。
「今日も忙しいのよ~。レポートを提出しなきゃいけないの~。明日は演説でしょ~。もうたいへんなのよ~」

引っ越してきてまもない頃、地域のことが分らずぽかんとしているやまんばを、あったかく引っ張り込んでくれたいい人なのだ。
ただあまりに忙しすぎて、落ち着いてものが考えられないところがある。だから時々会話もからわまりして、二人の話が全然かみあわないこともよくある。
その日もかみあわないまま「じゃあね~。またね~」と別れた。

やまんばはそのまま畑に行って、みやまこかぶの種まきをした。9月に播いたこかぶが収穫を終えて、その畝にまたこかぶを植えてみようと思った。おきて破りの連作である。
オオイヌノフグリを根っこから引っこ抜いてちょこっと耕し平らにしてこかぶの種をすじ播きする。
作業をしながらぶつぶつなにか考えている自分に気がつく。

「○○さん、さっき私が言ったのはこうでしたよね。でも今あなたが仰っているのは、私が今言ったこととは反対のことを言ってるんですよ。私が言ったこと聞いてましたか?」
「でもあなたがそういうのはわかります。そういうことは大事ですもの。ただね。それには限界があると思うんですよ。それは結局枝葉の部分であって、根本的なところの解決にはならんのだと思うんです」

な、なんだ?

なんと。やまんばは、種まきしながら、あの時面と向かって彼女にいえなかった言葉を、畑で一人になってブツブツと頭の中でしゃべっていたのだ。

こっこれは、いわゆるほら、あれ。ちまたでうわさのエアーギターならぬ、ひっ、、、ひとりエアー演説じゃねえかーー!

あのときいえなかったことや、もやもやしてたことを、そのシーンを思い出してはアーダ、コーダと演説をエアーでぶっこいて、いえなかったジレンマを解消しようとしているのだ。その時の自分はとーっても理知的でかっこよく、スマートで、美人で、英雄みたいなのだ。
君、なに妄想しているの。バカじゃないの?

you tubeでみかけるエアーギターやエアーヴォーカルも「その気になって」やる。やまんばもいっぱしの英雄気取りでやっちまっていたのだ。でもさ、よく考えたらこのブログだってエアー演説みたいなもんだ。誰に向かっていってるわけでもないのにいっぱしのこといって、いい気になっているんだもの。

よおするに、エアーギターも、エアーヴォーカルも、エアー演説も自分に酔っているんだな。わしだって時々エアーヴォーカルやる。ヒーローやスターになった気分で、一人妄想する。
これって。。。子供の時とおんなじじゃねえか。
風呂敷を首に巻いて、とおちゃんの腹巻きを巻き、そこに竹の物差しをさし、スカートはパンツのゴムの中にたくし上げていさましく仁王立ちする、あのけなげだった3歳児のやまんばの姿とちっとも変わらんじゃないか。


だけどさ、思考ってこういうことなんかな。
上司に怒られたあとでぶつぶつ文句を言うのだって妄想の一部だし、カミサンにあのときああいってやれば良かったなんて思っている時も、男らしく「だいたいお前はだなあ。。。。」といっぱしの演説を頭でぶっこいてたりしないかい?金八先生のようにかっこよくものすごーい説得力を持ってしゃべってないかい?そんでそんときゃ、だあれも口答えせず「ふんふん、すごーいお父さんのいう通り!」なんちゃってソンケーされているシーンなんかを思い浮かべちゃってたりする。
でもじっさいは
「なーにいっちゃってんのよー。さっさとゴミ出ししなさい」
とかいわれて、しぶしぶゴミ出ししちゃうのだ。

思考のけっこうなところは妄想で、妄想はエアーなんだったりして。。。


エアー演説やっている人、この指とーまれっ!



写真:畑のミズナ。
はじめてここまできた。去年までは双葉の段階でみんな虫にくわれていた。
おっきいのからとっていったら、小さいのがあとからあとから大きくなってくれる。だからいつまでもとれる。虫もほとんどいない。最初っから何もしなければよかったのか。はたまた試行錯誤したからこうなったのか。ひょっとしたら方法論をさがすことに疲れ果てて、考えるのやめちゃったからこうなったのか。自然は摩訶不思議だ。

2012年11月21日水曜日

大人のいじめがいっぱい



ある学校で、子供たちがいじめをなくすパトロールを始めたというニュースを知った。
いじめをなくすという旗印を掲げて、構内をねりあるく。
「いじめをなくそう」「いじめを見たら報告しよう」などといいながら。
あちゃー。
その行為自体が、そもそもいじめになるのではないか?

そんなことをすればするほど、いじめは人に知られないように陰に潜む。なお分りにくい歪んだカタチになっていく。

いじめをみつけることはいいことだと思うと、どこかにいじめはないかと監視がはじまる。だって「はいっ。わたし、いじめをみつけました!」というと、「よくみつけました。えらい!」ってほめてもらえるんだもの。すると友だちのなにげないいじめを密告する様な状態を生みかねない。そのうちみんながどこかでその密告にびくびくとおびえながらいきることになってしまうのではないのか?


いじめは「裁く」心から来る。相手をさばくと自分が優位にたつ。
「いじめをなくそう」とおおでを振って歩く行為は、優越感を生む。
いじめはわるいこと。だからそれをなくそうと、いいながら歩くことはいいことだ。という善意の大義名分にのっかって「良い事をする自分」をよろこんでいるようにやまんばにはみえる。

いじめの前に裁くきもちがある。その裁くきもちの前に、これはいいこと、これはわるいことという絶対的定義がある。すべての発端は、善悪からはじまる。

勉強できない子は悪で、出来る子は善。
足の速い子は善で、のろまは悪。
ケンカ強いのは善(表向きは悪とされている)で、ヨワッチイのは悪。

勉強のできないケンカの強いジャイアンみたいなやつは、自分が勉強で負けているという劣等感から、弱っちいのびたみたいなやつを、はらいせにいじめる。
わたしたちは小さい時からすでにいいこと悪いことという基準の中で育っている。その物差しではかられた自分はいけない子と思ってしまうと、その罪悪感をどこかで解消しようとする。いじめる側は必ずどこかに劣等感を持っている。いじめられた方も、自分に落ち度があるんだと自分にレッテルをはり、彼もまた劣等感の底なし沼に入っていくという連鎖を引き起こしていく。

そもそも大人の世界に優劣が存在する。それを子供のうちに学校や家で知る。その優劣の判断によって、自分はこのままではいけないのだという劣等感を生む。
家では両親がお互いの悪口を言いあう。給料が少ないとぐちをこぼす。近所の家の悪口を言う。政治家の悪口を言う。世の中が悪いと怒る。犯罪者をののしる被害者の親を見る。悪はイケナイのだと悪をののしる。
子供はそれを見て育つ。そうするものだとおもう。

それがイケナイのか?
いや。いいも悪いもない。子供はこの世に生まれて、強烈な3次元の世界と出くわす。この世はこんなにも複雑なのかと圧倒されながら育つ。ここで生きていくためにどうやったらいいのかともがく。カモの子供は最初に見た動くもののあとを追いかけるではないか。子も必死になって身近な大人のマネをするだけなのだ。

そんな彼らを裁いていいのだろうか。

この世は大人のいじめでいっぱいではないか。



2012年11月17日土曜日

信じるものを見る




石けんなしでも生きていけるし、肥料なしでも野菜は育つ。

けどこれ量子力学的にいうと、「観察されるものは観察するものに影響を受ける」んであって、「石けんなしでもだいじょーぶ」とおもっているから、そうなっただけで、ほんでもって、「肥料なしでもだいじょーぶ」っておもっているから、そうなっただけなんかもしれん。

ということは、「せっけんなくっちゃいけないわ」とおもっているから、石けんがないと生きていけないし、「肥料がなくっちゃ、野菜は育たねえ」と思っているからそうなっただけなんかもしれん。

ふは。どっちでもいーんかもしれん。
それはどっちがどっち正しいもまちがっているもなく、信じたものが現れて、そんでもってそれを「見る」から「うん。やっぱしそーだ!」と確信するだけなんじゃないか。

この世は証明されたものでみちあふれているけど、その証明だって「見る」から証明されたってことだ。
その前に、あることを証明したがっている人がいて、そのあること(仮説)を元にするからそうなるだけだったりして。
だけどその仮説どおりにならなくて悪戦苦闘するのだって、実はその人が「そう簡単には仮説どおりになるはずがない。苦労して結果を導きだすのだ」と思っているから、悪戦苦闘する。その結果、自分が信じたものを「見つける」だけなんかもしれん。

だったら世の中に出回っているひょっとしたらチョー曖昧な「証明されたもの」は疑ってもいーのかもしれん。

モノだけじゃないぞ。生き方だって疑ってもいーのかもしれん。
お金を稼ぐには苦労しなければいけないというのも疑っていーのかもしれん。

苦労しなければ欲しいものは手に入らないと思っているから、苦労して苦労して苦労して手に入れるのかもしれん。考えて考えて考えたら、すんばらしーアイディアが浮かぶ。と思っているから、考えて考えて考えまくっているのかもしれん。

うちのかあちゃんは、背骨が木っ端みじんになっても、「あ、そのバラバラになった骨はからだの中にあるじゃん。だったら集めりゃいいのよね」とおもったから、あつまった。
そんな神わざ的なことやる一方で、「あたしは歩けない」と思っているから、歩けない。からだはどこも悪くないのに歩けない。それは若いとき「あんた、歩くの遅いわねえ」と言われてからだ。それからそれを認め確信し、勝手に自分の中でバージョンアップさせていき、「歩くの遅い」から「歩けない」へと彼女の信念を進化(?)させたのだ。

信じているものが現れる。
あなたは何を信じてる?

絵:「ダイヤモンドは超音速で地底を移動する」MF新書表紙イラスト
きゃー!こーふんする〜〜〜っ。おもろい本です!

2012年11月14日水曜日

傷つく


傷つくことのほとんどは、心じゃないだろうか。

ある人の心ない言葉で傷つく。プライドが傷つく。など、ほとんどが心で受け取って傷ついている。そして怒りはそれによってひきおこされる。

およそ日常的なことで「からだ」が他人から傷つけられることは、ほとんどないんじゃないだろうか。だがそのからだを傷つけられることにさえも、けっきょく心が傷ついていく。


あの人がこう言ったと、心の中で繰り返すと、たいていは「あんな言い方ないだろう」なんてだんだん腹が立つものだ。怒りや悲しみは、また心によって増幅させていく。

だけどその傷つけるような言葉を発した人は、わざわざ「この人を傷つけてやろう」と思っていったのだろうか。

ちがうとおもうんだな。
きっとその人は自分を守るためにそういっただけなんだ。彼なりの正しさの中でいわれた言葉なんだ。ひょっとしたら、あなたがその前に何かをいい、それに彼がぴくっと反応して、自分の正当化のためにいった言葉なのかもしれない。で、あなたはまたそれにぴくんと反応していい返す。でもその言葉だって、自分の正当化、自分は正しいと信じていることをいっただけなのだ。

と、いうことは、お互いがお互いの「正しい」ことを話しているだけなのだ。
おかしいじゃないか。お互いが正しいと思っていることを話しているだけで、相手を傷つけようと思って話しているわけではない。だけどお互いがお互いの言葉で互いに傷つき合っているのだ。

誰も相手を傷つけようとしていうんじゃない。ただ自分を守るためにいっただけなのだ。
ただそれだけなのだ。
向こうは向こうの正しさがあり、こっちにはこっちの正しさがある。
ただそれだけなのだ。だれもまちがっちゃいない。だれもまちがっちゃいない。

だから誰も非難しなくていいのだ。そして自分も非難しなくていいのだ。
そして誰も傷つく必要も意味もないのだ。



傷ついてその事をアレコレ考えるとどうなるか、注目してみよう。
傷ついた事にとらわれて、エネルギーがどんどん減っていくのを感じないか。気がかりなことに心が集中してからだが消耗するのを感じないか。一瞬の怒りは大きなエネルギーを生み出すが、その後えんえんと続ける怒りは反転して消耗へと導いてしまう。自分が持っているエネルギーを、どんどん消耗していってしまうのだ。大事なエネルギーを誰かのことを悶々と考えるほどに、どんどんそこに力を費やして減らしていってしまうのだ。そして考えれば考えるだけ、傷ついた心は大きくなるだけで決して消えない。
そうこうするうちに、日々の生活に追われてそのことを忘れるのかもしれない。だけどまた似たような場面にであった時、記憶はその傷ついた感情を呼び起こし、また同じように傷つき始める。

そういう思考の構造を知ろう。エネルギーの変化に一瞬でも気がつけば、きっと同じところでいられなくなる。同じように傷ついて、同じようにエネルギーの消耗を続けられなくなる。

エネルギーは外へ流出するためにあるんではない。この世を楽しむために使うもんなのだ。


2012年11月9日金曜日

怒りって単なるエネルギー?



ある日やまんばは、ちょっとあたまにきた。
なんでいなんでい。あんないー方はないだろ。
人に言われた言葉を繰り返し頭の中に言わせるごとに、大きく膨らむ怒り。
その怒りは止めどもなく、日常生活に支障をきたす。いかん。こんなことやっている場合ではない。

さて、座り直して怒りだけを観察する。
どーれ。どんなふうに怒っているのだ?
からだに溢れた怒りを観察する。おおっ、スッゲエ怒ってる。おこれおこれ。ほれほれ。

怒りって相当熱いんだな。頭の中が熱い。肩の辺りが大きく膨らんでいる。うでにもくる。はは~ん。これでものにあたったりするんだな。胸の方からも熱いエネルギーがわいているのに気がつく。上半身が、かあ~っと熱くなっているのだ。
へえ~、こりゃすごいエネルギーじゃないか。自分のからだから大きなエネルギーが溢れている。こりゃすごいじゃないか。こんなエネルギーすてるのもったいないなあ~。なんかに使えんかなあ。。
などと考えている。

そんなことしているあいだに、最初の動機であった「怒り」がどっか行ってしまっているではないか。
あれ?怒ってたものはどこへいったんだ?
するとそこにすーっと入ってきたものがあった。
それは、あの私を怒らせた言葉の意味するものであった。発した言葉だけとると、意味するものがわからなかった。それはたぶん、私がその言葉だけに反応していたからだ。ところが怒りが消えたとたん、その人の話した言葉の後ろにどんなイメージを持って私に話していたのかが分ったのだった。
なるほどー。そういう意味だったのか。。。

そっから先は、それになんとか答えようとする自分がいるだけだった。そこにはさっきの怒りなんかどうでもいいわたしがいた。

怒りって単なるエネルギーなんじゃないかな。
いろんな感情があるように思えるけど、本当は悲しみも嫉妬も憎しみも言葉にすると違う感情に思えるけど、エネルギーという視点から見ると同じもんだったりしてねー、なんておもうのであった。

これ、なんかに使えんかなあ~。
(どこまでも欲深いやまんばであった)

2012年11月6日火曜日

どっちでもいーのかも



なんかね、最近思うのだ(そればっかりじゃねえか)。
世の中、正しいことと、いけないことのオンパレードなんじゃないかって。

「善悪の彼岸に立て」ってことばがあるけど、まさに世の中、人々の心、ルール、ぜえ~~んぶに善と悪がベースになっているような気がしてきたのだ。

いやいや。世の中はつねに犯罪が起こるのだ。それを善によって取り締まらないでいたら、世の中地獄になってしまうではないか。だからそれを取り締まるルールが必要なのだ!といわれるにきまってんだけど。わかってるよそんなこと。

だけどさ、それが人の心の中にまで深く浸透してしまっているわけさ。
これは正しく、これはまちがっているという判断基準。
成績が上の方にいるのが「正しく」下の方にいるのが「まちがっている」。
身体能力はきびきびした方が「正しく」のろまだと「まちがっている」。
病気は「まちがっている」ことで、健康は「正しい」。
だから「まちがっている」ことを実感したら、あわてて「正しく」しようとするわけさ。

もう無意識の奥の奥の方まで浸透しちゃっているから、あえて「うん。これは正しいのだ」という意識しないうちに瞬時に判断して、あわてて正そうとする。
そんなまわりの価値観だから、子供だって成績の悪いやつやのろまなやつを「まちがっている」と判断しちゃって、イライラしたり、のけものにしたりするわけさ。彼らの中にもすでに善悪の判断が入っている。
やまんばものろまでできがわるかったから、そりゃーみんなにののしられて、リンチされた。そんな自分は「まちがっている」とおもっていた。だけどどーしよーもなく、のろまだったから、ひたすら「まちがった存在」だと思い続けていたよ。


だけどさ、それによって人はずーっと苦しみ続けるんだよな。そのこれは正しく、それはまちがっている、という基準を自分の中に持っている限り。たわいもないことでさえも「ああしなきゃいけない」「こうしないといけない」と自身の心の中で戦っている。
国と国との戦争も、それぞれが言い分があって、どっちも自国が正しいと信じているではないか。結果的にそれを力で押し合ってどっちが「正しい」か決めている。
なんてあほらしい手段を使っているのだ。

そこには「領土は広い方がいい」とか「わしらの宗教の方が正しい」とか「お金はいっぱいある方が正しい」いう、やっぱりただしいとまちがっているの判断をしてるじゃないか。
世の中に犯罪が起こるのも「貧乏はまちがっている」という判断から起こしていたり、「あいつがまちがっているから」という判断だったりする。やっぱりそこに善悪がある。

善悪の彼岸に立つのは、むずかしいかもしんない。だけどよお、善悪を持っているとそれにひたすら縛られ続けるんだな。善悪を持つことはいいことかもしんない。だけどまた別の面を知ることもだいじだと思うんだな。

イブが善悪の木の実を食っちまったから、エデンの園を追っ払われちゃったけど、ほんとは神様が追っ払ったんじゃなくて、その場所が天国ではなく、地獄に変わった瞬間だったんじゃねえか?
善と悪の基準が作られた結果、それを克服しないといけないとなって、それに費やすエネルギーのなんと膨大なことか。働き詰めでお金をかせいで、それでもできないやつと思われる。。そんな善悪の基準によってここは地獄になっていったんではないのか?

ところがこれが正しい、これがまちがってるって判断がなくなっちゃうと、とても気が楽になれるじゃないの。なんか縛られる心理的なものがなくなって自由になれる気がしない?それが「天国」って意味だったんじゃないかなあ~なあんて。ひょっとして自分で天国と地獄を作っているだけなんじゃないかって。

最近、自分の中にある善悪をちょこちょこ発見する。おお、こんな所にも善悪の基準を持ってるじゃねえか!なんて。そんな所にエネルギー使ってんだなんて。自分でびっくりする。
するとこうおもってみる。
「それはひょっとして、どっちでもいーのかもしれん」

絵:MF新書『セクシイ仏教2』出た!第二弾!仏教も言っているではないか。善悪の彼岸。だったっけ?

2012年11月3日土曜日

このまんまではいけないのだ、か?



畑に肥料入れなくても野菜は育つし、シャンプー石けんなしでもじぇんじぇん問題ない。
むしろ肥料入れると虫は来るし、シャンプー石けん使うと、からだに色々支障が出る。
というやまんばの現実。

このやまんばの現実でいくと、外にある常識は、やまんばの非常識。
「あーでもない。こーでもない」と右往左往される事はいらん心配だったんじゃないか?とおもいはじめる。
つまりは「そのままでいい」ということなんか?

なんかせんといかん、ってつねに思っているから、
「この野菜には肥料が必要なんじゃ」と思ってしまうし、
「このからだはよりきれいにせんといかん」
と思っているから、石けんとかシャンプーってモノを思いついたのかもしれん。

幼い頃から「りっぱになりなさい」「ちゃんとしなさい」といわれてきた。この言葉の裏には「あんたはそのまんまではいけない」というメッセージが吹き込まれている。

まっさらなファイルの中に、最初のころにインプットするイメージ「私はこのままではないけない」

だからつねに心は「なにかしよう」とする。
だって「このままではいけない」のだもん。

自分の心を観察すると、絶えず何かに心を奪われている。
庭を見る。汚いとおもう。大家さんの顔を思い出す。やばい。この家を追い出されるかもしれないとおもいはじめる。すると心は自己弁護しはじめる。いや、いそがしいのよ。いけないとはおもっているのよ。だけどこうまで木がおおいとねえ~、たいへんなのよ~。。。。と、庭見てぼーっとしているはずが、ごしょごしょ考えている。

外から見るとほげーっと庭に向かって座っているだけだが、心は絶えず目の前にあるものから連想ゲームがはじまって、どんどん他に移っていく。いつのまにか、いつものマイブームになっている今の感心ごとに思考が移っている、というふに。

その思考の機動力になっているのが、どうも「わたしはこのままではないけない」という強迫観念からきているようなのだ。

だから野菜はもっと太らせないといけないのだし、からだがもっときれいにならないといけないのだ。

ところがその「このまんまじゃないけない」と思ってやる行為が、結局は野菜に虫を呼んだり、喉の痛みになったり、薄毛になったり、水虫になっているとしたら。。。?

テレビ見たってインターネット見たってなんかへんだ。
「あなたその収入でいいんですか?」とか「そのままでだいじょうぶですか?」とかいうニュアンスのキャッチコピーが多い。
広告はちゃんとその強迫観念のつぼを心得ているのだ。
のっかっちゃったら、おもうつぼぞ。

だけど広告を怒ってもしゃあないのだ。広告さんだっていろいろ事情がおありなのだ。
だけどそれによってもたらされた怖れを無理矢理ひっぺがす事もないのだ。ほら拒絶すればするほど、もっとでかくなるという法則を思い出すのだ。

ホントに必要なものってあるんかいな?
やまんばにゃ、わからん。

バカボンのパパは偉大だったかもしれん。
「これでいーのだ」