「一日15分歩いたらえいがよね。よっしゃ、わかった」
と、母は言う。
娘や医者のアドバイスをすんなり受け入れる、なかなかいい母だ。
んで、それをやったことがない(笑)。
「嫌われる勇気」に出てくるアドラーの言葉を借りると、「もしも何々だったら、と可能性のなかで生きているうちは、変わることなどできない」である。
母流で行くと、
「もしも一日15分だけ歩いたら、私は歩けるようになるがよね。わーい」という可能性の中で、ほこほこしているだけである。
人のことは言えない。私もはずかしいよーな妄想、「いつかわたしも何々になるんだ。。。」という可能性の中で、ほこほこしているだけだもの。
夢というのは、なかなか罪深いもんである。
いつか。。。と言う夢は、そのときはいい気分にさせてくれる。今の状況ではない、何かスペシャルな自分を心に描いて、「ほんとうはこんなわたしじゃないんだ。。。」と、シンデレラみたいなことを50過ぎのおばさんは妄想するのである。母は80過ぎで妄想してほこほこしている。
そのうち夢は、「いつか外を歩く」から、「いつか1日15分歩けたら。。。」に変わって行く。いつのまにか目標のハードルは、ドンドン低くなっていく。
人は皆、今ある状況に不満足である。不満足だから目標を立てる。その目標のための手段を計画する。
一日こうするとか、あの日までにあれを達成すると言う計画がうまくこなせれば良い。しかしそうはいかないことが多い。
そのうち、目標のための手段である「あれをする」ことが目標に変わり、それもかなわないと、あれができるかも知れない可能性にほこほこするだけになる。
そしてそこに行き着かない自分を、今度は「もう若くないから」という大義名分で、うまいこと自分を納得させる。
母の場合は、「目標!一日15分歩く!」と決めて、いざ体を動かそうとすると、思考が騒ぎ出す。
「こけたらいかんぜよ。。。。こけたらどうする?こけたらみっともないぜよ。こけたら体がこわれるぜよ。こけたら、人に迷惑かけるで。。。」
「ああ、そや!いかんいかん。こけたらいかん!」
「けんど歩く練習せんと歩けんなるがで?」
「いやいや、歩いてて、こけたらどーするが?」
云々。。。
そういう会話が頭でなされているに違いない(笑)。
彼女はこけた後、人々に背負われて、病院連れて行かれるみっともない自分を想像する。絵描きの彼女は想像力は人一倍強い。
その一人会話の中にドンドン巻き込まれて、体が硬直しはじめる。カッチカチになった体と心は、動こうとすることに拒絶しはじめる。
そして「いやでいやでたまらん」なるのであーる。
なに一人芝居やっとるねん。